温家宝新総理の横顔

 3月15日、第10期全国人民代表大会第一回会議は、温家宝氏を国務院総理に選出した。1960年代に北京地質学院を卒業したインテリが、どのようにして一歩一歩、国家を管理する権力の最高峰にまでのぼりつめたのだろうか。『21世紀経済報道』という新聞に掲載された文章を翻訳し、温家宝新総理の横顔を紹介しよう。(文中 敬称略)

生い立ちと経歴

 温家宝は人前ではいつも笑顔を絶やしたことがない。60歳になるこの政治家は微笑みながら、中国の大地を四十年近く駆け回ってきた。

 彼の故郷は天津市北辰区宜興埠鎮である。中学は天津市の南開中学校で学んだ。故周恩来総理や鄒家華元副総理もこの南開中学校を出た。

 温家宝は北京地質学院の本科を卒業した後、同学院の修士課程に合格した。そして1968年2月、彼は自ら進んで西北地区の甘粛省に行きたいと要求し、酒泉の地質工作隊で技術の仕事を担当したのだった。

 1979年、温家宝は甘粛省地質局に転勤した。このとき、彼と同じクラスの幹部で彼のように修士の学歴を持った者はきわめて少なかった。しかし彼は学歴を誇るようなことはなく、人に対し謙虚に学んだ。

 1984年、党中央組織部が全国的に幹部の抜擢を行った際、年が若く、学歴が高く、副部長クラス以上で、才能があることなど多くの選抜基準があったが、温家宝はここで頭角を現した。翌85年、彼は中国共産党中央弁公庁副主任に任命され、さらに一年後には王兆国主任に替わって第七代の中央弁公庁主任となった。

 1987年に開かれた中国共産党の第13回全国代表大会(十三大)では、温家宝は政治報告の起草の仕事に参加するとともに、大会副秘書長の身分で会議の日常業務に責任を負った。このときいっしょに、十三大の政治報告の起草に参加したある学者は温家宝について「彼は自然科学と経済の仕事に大変興味を持っていた。彼はいつもマクロ的かつロングレンジで、政治や経済の問題を考えていることが分かった」と述べている。この学者は、温家宝の鋭い眼光と穏やかな作風を今もよく記憶している。

 1992年以後、温家宝はずっと政治局委員候補、政治局委員をつとめ、また中央書記処書記、中央財経指導小組副組長、中央金融工作委員会書記、中央農村工作指導小組組長、西部開発指導小組副組長、扶貧開発指導小組組長、住宅改革指導小組組長、防ジン(洪水防止)総指揮部総指揮、緑化委員会主任などを兼任した。中国共産党中央では、政治局は政策決定機関であり、書記処は執行機関である。温家宝は、政策決定とその執行の役割を兼ね備えていたのだった。

 中国が世界貿易機関(WTO)に加盟した後、中央の指導者たちがもっとも憂慮した問題は、農業と金融の面に集中していた。温家宝はこの二つの問題に、豊富な経験を積んでいた。さらに彼は国務院副総理を四年間担当し、全国的なマクロコントロールの経験を蓄積したのだった。

洪水や旱魃と闘う

 1998年、長江沿岸で特大の洪水が発生したとき、温家宝はちょうど全国抗旱防?小組組長を務めていた。彼は数カ月連続で、洪水と闘う第一線を走りまわった。長江下流の九江市だけでも、三カ月の間に5回も訪れた。

 この年の5月31日、温家宝は九江で、洪水防止工作のため、江西、湖北などの省の指導者を招集した。この席でこの数年来の埋め立てによる農地の開発や樹木の乱伐について彼は語ったが、そこで『ヘーゲルの弁証法』の中の「人々が自然に対し勝利したと歓呼の声をあげたそのとき、自然も人類に対し懲罰を開始するのだ」という有名な一句を引いて警告した。果たせるかなこの会議の後、一カ月もたたないうちに長江の特大の洪水が発生し大きな水害となったのだった。

 7月4日、温家宝は朱鎔基総理に従って、ひどく被害を受けた九江市の徳安県に行き、被災民を見舞い、船で九江市の各区の堤防を巡視し、雨の中で堤防を守る武装警察部隊の将兵を見舞った。その半月後、彼は朱鎔基総理に代って三度目の九江訪問を行った。このとき彼は雨傘をさし、ぬかるんだ道を10キロ近く歩き、その途中で大堤防の危険な状況を観察した。また、時には立ちどまって水利の専門家や地方の幹部と、洪水を防ぎ、危険を回避する方策を研究した。

 8月4日、九江県江州鎮の堤防が決壊した。温家宝はすぐに現場に駆けつけ、再度、泥の中に立って被災民を見舞った。彼は被災民の家の中で、びっしょり濡れたスツールに腰を下ろして、一般大衆といっしょに、どのようにして生産を回復するか、家屋敷をどうして再建するかを話し合った。

 8月9日、長江の基幹堤防が決壊し、九江の市街区に危険が迫った。このとき湖北で洪水防止の指導に当たっていた温家宝は、まずただちに災害の状況を電話で尋ねるとともに、彼自身がすばやく大堤防の決壊個所に急行し、自ら決壊した口を塞ぐ作業の指揮を執った。

 江西省九江市委辨公室のある職員は「1998年の洪水災害は、九江や江西省の政治の配置にとってきわめて重要なものとなった。この災害のあと、多くの涜職官吏が処分を受けたからだ。」と述べている。

 湖北省の防ジン指揮部のある幹部は「あの年の長江の洪水との闘いによって、人々は温家宝副総理の実力を十分見て取ることが出来た」と述べた。この幹部はこう回顧する。

 当時、湖北省の武漢は水位が急上昇し、多くの人々は荊江の大堰堤を爆破して洪水を分流するやり方で武漢の安全を保とうと要求した。これはなかなか決め難い問題だった。なぜなら、もし堤防を爆破し、分流すれば、900平方キロの公安県は洪水のために水没し、40万人が家を失い、その損害は150億元に達するだろう。しかし、もし堤防を爆破せず、堤防が決壊すれば、740万の人口を擁する武漢市は水没し、その損害はさらに重大なものになる。

 温家宝はすばやく、水利専門家のつかんでいるデータと分析を聴取したあと、行政幹部たちの多数の意見を退け、爆破せずに大堤を守る方法をとると決定した。こうしてついに、洪水と闘う大軍を動員し、最小の損失だけで人民の家屋敷を安全に保ったのだった。

 2002年、山東省で大旱魃が起こった。温家宝副総理は、もっとも被害のひどかった聊城などに行き、視察した。山東省民政庁の災害救済処の劉其順処長は当時をこう回顧する。

 「9月26日、温家宝副総理は、省の関係指導者を招集し、被災状況を検討したとき、その場で、財政部と水利部が山東省に8000万元を支出し、それを災害救援に用いて、人畜の飲料水の問題を解決し、緊急に水利建設プロジェクトを始めるとともに、黄河の中上流のダムからつぎつぎに、山東に十五億立方メートルの黄河の水を送るよう指示したのである」

常に足元を見据える

 温家宝は深く末端社会に入って調査、研究することを非常に重く見てきた。2002年3月、第九期全国人民代表大会(全人代)第五回会議に参加した遼寧、河北両省の代表は皆、温家宝副総理の仕事の作風に深い印象を受けた。

 温家宝は遼寧西部で2001年の旱魃被害が甚大だったことを知ると、その地の農村から来た全人代代表に詳しく、政府の「国の倉庫から農民に食糧を貸す」などの救済策が実際にどのように実行されているかを尋ねた。また、遼寧西部の朝陽市の王大操市長に、面と向かってこう戒めたのだった。

 「三つの数字を必ずはっきりさせなければなりません。第一は『国の倉庫から農民に食糧を貸した』数、それは、被災地の農民の食糧を保証しなければならないからだ。第二に救済用に放出した食糧の数。第三に農民が出稼ぎや親戚友人との相互援助などの方法で自ら救済し、問題を解決した数。この三つの数字がはっきりすれば、食糧が欠乏している人口の状況は見当がつく」

 温家宝をよく知るある幹部は、彼が地方を視察するとき、いつも車列を突然停車させ、事前に手配されていないところで車を降り、付近の住民と話合い、末端の民衆の考えを理解したがる、と言っている。2000年に河北省豊寧県を視察したときも、彼は事前に手配されたルートを歩かずに、末端の農村の実情を見たのだった。


 2002年11月21日、中国共産党第16回大会で政治局常務委員に選ばれたばかりの温家宝は、貴州省の貧しい山間地を訪れ、人々から実情を聞いた。

 2003年1月2日には、国家計画委員会、農業部、水利部などの関係部門の指導幹部を率いて、零下20度の極寒の中を、山西省に行き、山地の貧困農家や地方都市の低収入の居民を訪ねた。どの家でも、彼は収穫や作柄、農民の負担や小中学校教育などの状況を詳しく調べ、人々に困難や要求はどこにあるかと尋ねたのだった。また彼は、風邪を引いて調子が悪かったのに、山西省の農村金融改革に関して報告を聴取した。

 大晦日は中国人にとって、一家が皆集まって団欒する重要な日である。しかし、2003年の大晦日、温家宝は遼寧省阜新市で、炭鉱労働者たちを訪ねていた。

 飛行機を降りるやいなや、彼は二時間以上も車に乗って阜新鉱業集団属の艾友炭鉱に行き、第一線の労働者に生産や安全などの状況を尋ねた。さらにトロッコに乗って地下720メートルの採炭現場に行き、そこで働く炭鉱労働者たちと坑道のレールの上に車座となって、いっしょに年越しの餃子を食べたのだった。

 阜新鉱業集団はまさに国有企業改革の難しい時期にあった。四人に一人の労働者がレイオフとなっていた。温家宝副総理が労働者とともに大晦日を過ごしたことで、ここで働く労働者たちは非常に感激し、国家が彼らのことを忘れていないことを感じたのだった。

              (本誌編訳 2003/3/16)