【あの人 あの頃 あの話】D |
北京放送元副編集長 李順然
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溥傑さんとバス
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中国最後の封建王朝である清のラストエンペラーで、かいらい満州国皇帝だった溥儀の弟の溥傑さん(1907〜1993年)との初対面は、混みあうバスの中だった。1980年代のことである。私は北京史研究会という市民団体の会員で、溥傑さんはこの会の役員をしていた。溥傑さんも、私もこの会の会議に向かう途中だった。 新聞やテレビで溥傑さんの顔をみて知っていた私はバスを降りると「溥傑先生、北京史研究会の会議ですか」とご挨拶した。溥傑さんは「ハイ、そうです。まだ少し時間がありますが、私はいつも早めに来て、あたりを散歩するんですよ。足の鍛錬にもなります」と話した。私たちは20分ほどおしゃべりをしながら散歩をし、それから会議の会場に入った。 その次の年だっただろうか、私はまたバスの中で溥傑さんにお会いした。 「どちらへ?」 「友誼病院に入院している家内に食事をとどけに行くところです」 溥傑さんは、胸の前に風呂敷で包んだお弁当箱を大事そうに抱えていた。ちなみに、溥傑さんの夫人は、日本の天皇家とも縁の深い嵯峨侯爵家出身の嵯峨浩さんである。 溥傑さんとバスについては、『溥傑自伝』(中国文史出版社)の序で、李達文さんは次のように書いている。 「溥傑さんは、職位からいっても、政府の規定で公用車を使える身分だったが、それを嫌い、好んでバスを使った。公式の宴会にも時間ぎりぎりにバスで来て、私をはらはらさせた」 1960年の特赦で撫順の戦犯管理所から釈放され、北京に帰って30余年、溥傑さんは皇族から一庶民になろうと、ひたむきな努力を続けてきた。混んだバスに乗り、市民の中に身を置くのも、こうした心のあらわれといえよう。
溥傑さんは、日本の学習院、陸軍士官学校、陸軍大学校で学んだので、日本語がとてもお上手だ。そこで、私の務め先だった北京放送でも、溥傑さんによく日本語番組で放送していただいていた。 「車でお迎えに参りますから」と電話すると、きまって「いや、私は自分で行けますから、送迎は不要です」とおっしゃって、いつも時間通りに約束した放送局の正門にやってきた。きっとバスで早めに来て、放送局のまわりを散歩していたのだろう。 放送の内容は、ウイットに富んだもので、庶民となった喜びが感じられた。私は、いつも聞き手をさせていただいたが、こんなやりとりもあった。 (李)「よくバスに乗っていらっしゃるようですが……」 (溥)「ええ、バスはいいですね。人さまに面倒をかけることもなく、好きなときに出かけて、好きなときに帰ってこられる。だれに気がねをすることもなく、とても楽しいですよ。いろいろの風景が見られるし、いろいろの話を耳にすることもできる。世間知らずの私にとって、バスは、社会を学ぶ学校ですね。適当に歩くので身体にもいいようですよ」(2005年5月号より) |
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