【あの人 あの頃 あの話】F |
北京放送元副編集長 李順然
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「情」は最良の潤滑油
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中日友好協会の会長をしていた孫平化さん(1917〜1997年)は、情に厚い人だった。こんなことがあった。 中日友好協会の初代の会長だった廖承志さんが亡くなったのは、1983年6月10日だったが、それから半月ほどしたある日、北京放送では孫さんをスタジオにお招きして、廖承志さんを偲ぶお話をお願いした。日本向け番組なので、もちろん日本語で録音する。「15分の番組だから、前後の紹介アナウンスを差し引いて正味13分ぐらいで」と、あらかじめ電話でお願いしておいた。 スタジオに入った孫さんは、原稿も持たずにマイクに向かう。まるで廖さんが目の前にいるかのように、しっかりと前を見すえ、ゆっくりと話を始めた。 「廖承志先生、あなたの肝いりで、北京の友好賓館の中につくられる日本料理店『白雲』が、もうすぐ開店し、あなたの大好物のマグロの刺身を食べていただけるのを、とても楽しみにしていたのに、それを待たずに亡くなられてしまった。まったく悲しいです。残念です」 こんな言葉で始まった孫さんの話は、多くの日本の友人の名を挙げながら、予定の13分をはるかにオーバーして、なんと一時間あまり。1952年に廖さんの下で仕事をするようになってからの30余年、廖さんをめぐる思い出の一コマ一コマを、孫さんは「悲しいです」「残念です」を連発しながら、ときどき目を閉じ、噛みしめるように話した。 録音を終えてスタジオから出てきた孫さんは、私に「やあ、だいぶ時間をオーバーしてしまった。でも、心にあることを、みんな話させてもらった。ありがとう。後はそちらで適当に削ってください」と言い残し、「ご苦労さま」と、スタッフ一人一人と握手をして部屋を出て行った。
孫さんの話は情にあふれるものだった。廖さんに寄せる「情」、中国と日本の民衆に寄せる「情」、中日友好という仕事に寄せる「情」……にあふれていたが、「情」といえば孫さんは、その遺言ともいえる『私の履歴書』(日本経済新聞社)で、次のように書いている。 「私がいつも思うのは、中日友好でも、日中友好でも、一番重要なことは、人間と人間の関係だということだ。おたがいに心と心で付き合う友情が大事だと考えている。その意味では、最近の中日関係には『情』がない」 半世紀にわたり、一兵卒として中日関係の仕事にたずさわってきた私も、孫さんの言葉に共鳴する。昨今 フ中日関係は「情」が薄くなったように感じるのだ。 中国と日本は隣同士である。100年後も、300年後も、500年後も……。隣同士にとって、「情」はことのほか貴重だ。あれやこれやのいざこざが起きるのは、古今東西、隣同士の常である。「情」は、それを解決する最良の潤滑油であることも、歴史は教えている。 私には、孫さんの「情」がないという言葉の裏に、「情」があって欲しいという孫さんの強い本音を感じるのである。(2005年7月号より) |
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