【あの人 あの頃 あの話】G |
北京放送元副編集長 李順然
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反戦訴えた二人の日本女性
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原清子さんは、1912年に東京で生まれた。中日戦争が始まる前夜に中国人留学生と結婚し、中国大陸に渡る。その後、中国革命の聖地といわれる陝西省の山奥の延安に入り、延安の新華放送局のアナウンサーとして、マイクを通じて、中国に侵入した日本軍兵士に、日本語で反戦を訴えた。 当時の延安では、中国北部で八路軍(中国共産党の指導する軍隊)の捕虜になった日本の元兵士が日本反戦同盟をつくり、日本軍に対する反戦活動を進めていた。 1942年8月15日から28日までの2週間、延安を流れる延河のほとりで、「中国華北地区日本兵代表大会」が開かれた記録が残っている。中国北部各地で反戦活動を進める元日本軍兵士50数名がここに集まり、燃えるような8月の太陽の下で、反戦を誓い、その活動の進め方について熱い討議を続けたのである。 原さんは、この大会に出席している。そして、この大会で採択された「日本の兵士に訴える」というアピールの要点を、新華放送局のマイクを通じて放送し、受信した日本の将兵に大きな感動を与えたという。ちなみに、この大会には当時、延安にいた日本共産党元議長の野坂参三も出席していた。 日本の投降後、原さんは中国東北地方の遼寧省で暮らす。長い革命歴をもつ原さんに、要職に就くようにという話がいろいろあったが、原さんは「わたしは学問のない人間ですから」と言って、幼稚園の園長など、目立たない仕事に汗を流した。 そして、21世紀幕あけの2001年に、遼寧省瀋陽市で、静かにその生涯を終えた。延安時代から大切に使ってきた1冊の日本語辞典を枕元に残して……。 私は原さんと何回か会って、いろいろ話を聞いたが、会うたびに、静かにゆっくりと、落ち着いた日本語で、次のような言葉を繰り返したことが強く印象に残っている。
「戦争でいちばん苦しみ、悲しむのは、いつでも、どこでも、民衆ですよ。20世紀の中日戦争で、中国の民衆も、日本の民衆も苦しみました。あの苦しみ、あの悲しみが繰り返されるようなことがあってはなりません。そのためにも、矛を交えた歴史を忘れてはならない。もちろん、憎みあうためではなく、仲良くしていくためです。あの歴史から教訓を汲み取らなければ……」 ちなみに、中日戦争のさなか、もう1人の日本人女性が『売国奴』と罵られながら、中国の武漢、重慶の放送局のマイクを通じ ト、日本語で反戦を呼びかけていた。長谷川テルさん(1912〜1947年)だ。彼女の物語は、栗原小巻さん主演のテレビドラマにもなっているので、ご存知の方もおられるだろう。 原清子と長谷川テル――この二人の日本人女性は、中日戦争の歴史に特筆されるべき人物である。二人はともに1912年、大正元年の生まれ、同じ年であった。この年、日本陸軍は、西園寺公望首相らの反対と、閣議の決定を無視して、中国、蒙古、朝鮮での兵力増強をはかる「陸軍増師案」を提出。高まる軍靴の響きは、市民の不安をつのらせた。こうした軍閥の横暴に反対して、第一次護憲運動が始まったのもこの年だった。(2005年8月号より) |
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