【あの人 あの頃 あの話】O |
北京放送元副編集長 李順然
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五七幹部学校の「遊び時間」
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例の「文化大革命」(1966〜1976年)のとき、中国各地に「五七幹部学校」という学校が造られた。毛沢東主席(1893〜1976年)が出した「政府関係の部門で働く者も、農村に行って思想を改造せよ」という指示によって、各地の農村に造られた思想改造の学校で、「五七」というのは、毛主席がこの指示を出したのが1966年5月7日だったところから来ている。
創立当初の「五七幹部学校」は、きびしい思想改造、きつい肉体労働、貧しい生活などで恐れられていた。だが、私がこの「学校」に「入学」した1973年ごろになると、ケ小平氏(1904〜1997年)ら古参幹部が復活するなど、暖かい陽が差し始め、「五七幹部学校」の思想改造もかなり「たるみ」だしていた。 わたしの「在学中」の1年には、闘争とか、批判とかはまったくなかった。庶民のだれもが、闘争とか、批判とかには、あきあきしてきたのだろう。
農閑期は、文字通り閑だった。半日労働、半日学習で、いろいろ必読文件が指定されたが、私は必読文件の学習の方はさっと済ませて、あとは自分の読みたい本を読んでいた。 こうしたある日、学校のトラクターに便乗して、淮陽市に行った。わたしたちの「五七幹部学校」は、黄河に近い河南省の淮陽県にあり、淮陽市はこの県の中心地である。 トラクターに乗り合わせた地元の人から、淮陽市は春秋時代(紀元前770〜前476年)の12カ国の1つだった陳(?〜紀元前479年)の都、宛丘があったところだと聞いて、胸が高なった。孔子(紀元前551〜前479年)は、諸国遊説のさいに3年も陳の各地を歩いている。わたしは、孔子が踏んだ土地で暮らしていることになるのだ。 学校に帰ると、すぐに北京にいる家内に手紙を書き、中国歴史と孔子の本を送ってくれるように頼んだ。「中原の地」で中国の歴史を学び、孔子遊説の要の地で孔子を学ぼう、というわけだ。まったく素人の「遊び」であるが、私は「半日学習」のほとんどを、中国の歴史と孔子の「勉強」という「遊び」にあてた。 私の「五七幹部学校」生活は、文字通り、孔子のいう「学びて時に之れを習う、亦た説ばしからずや」となった。つまり「学習時間」が「遊び時間」となったのである。「五七幹部学校」で苦しんだ先輩たちには申し訳ない話だが……。 「五七幹部学校」を無事「卒業」して帰ってきた北京では、「林彪批判・孔子批判」の政治運動が始まっていた。これで歴史や孔子の「勉強」という私の「遊び」も、もうおしまいかなと思っている手先に、毛沢東著作翻訳グループへの出向を命ぜられる。 ここは別天地だった。毛沢東の著作の翻訳という「錦の御旗」を掲げているせいか、ここには巷に吹き荒れる政治運動の風も、あまり吹き込んで来なかったのだ。わたしは、これまで通り中国の歴史を「学び」、孔子を「勉強」した。 あれから30余年、わたしの「遊び」はずっと続いている。数年前に『人民中国』に連載した「わたしの北京50万年」も、実はこの「遊び」の副産物なのである。(2006年4月号より) |
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