【あの人 あの頃 あの話】(最終回)
北京放送元副編集長 李順然

大晦日の夜のセレモニー

   もう40年以上も前の話だが、私は1965年の大晦日を、朝鮮との国境に近い中国・東北地方の一寒村で迎えた。中国の農村を知り、農民を知ろうと、ここで農民と同じ屋根の下に住み、同じ仕事をし、同じものを食べるいわゆる「三同」の生活をしていたのだ。

   中国では、お正月を「春節」といって旧暦で祝う。私の住んでいた村でも、新暦の大晦日であるこの日はまったく平日通りで、ごくごく静かにすべてが動いていた。その日が大晦日だと気がついたのは、灯油ランプを消してオンドルに横になってからだった。 

   「そうか、今日は大晦日だったのか」。寝床の中でそう思うと、行く年のあれやこれやが走馬灯のように頭をかすめ、来る年のあれやこれやに希望がふくらむ。

   同じ屋根の下、1メートルほどしか離れていない向かいのオンドルから聞こえてくる王おじいさんと張おばあさんの心地よい寝息をバックミュージックに、頭に浮かんだ行く年の最大事は、大都市の北京を離れてこの一寒村に来たことだった。「中国の農村を、農民を知らない者に、中国を語る資格はない」と言った先輩の言葉が、わかりかけてきた数カ月だった。

吉林省の農村の雪景色

   慣れない農村での暮らしだったが、王おじいさん、宗おじいさん、張おばあさん、馮さん、劉さん、江さん……村の人たちのやさしい心に包まれて、なんとか無事に過ごしてきた数カ月だった。あれやこれやの失敗を繰り返しながら……。本当にありがたいことだ。村の人たちのやさしい心は、一生忘れられないだろう。
 
   大晦日の夜、東北の一寒村で思った来る年の最大事、それはなんといっても子供の誕生だった。流産しかけた家内は、大事をとって北京の協和病院に入院して出産を待っている。ひたすら、母子とも無事で安産であるよう祈った。表では雪が降りだしたのか、静かな夜だった。
 
   翌年の3月27日、男の子が生まれた。私たちにとって、最初で、最後の子供、つまり一人っ子である。
 
   親父は、わたしたち5人兄妹の中から1人くらい医者になってもらいたいと思っていたらしいが、この夢は実現しなかった。大晦日の夜の寝床のなかで、やがて生まれる子供が、親父の夢を稔らせて医者になってくれればなと願ったのを覚えている。
 
   紆余曲折はあったが、多くの人たちに支えられ、励まされて息子は医者になった。ありがたいことだ。まだ駆けだしの半人前だが、患者にやさしい医者だという評判を聞く。親馬鹿だろうが、嬉しいことだ。親父も天国で喜んでくれていることだろう。
 
   毎年やって来る大晦日の夜、わたしは寝床に入るといつも、この東北地方の一寒村で過ごした大晦日の夜のことが頭に浮かぶ。そして行く年を振り返って、お世話になったあの人、この人に感謝し、来る年のあの夢、この夢に胸をふくらませる。これが、いつしか年越しに欠かせないわたしだけの布団のなかでのセレモニーとなっているのだ。王おじいさんと張おばあさんのあの心地よい、懐かしい寝息は、このセレモニーのオープニングソングとなっている。(2006年12月号より)


 
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