上海に生き
マルチメディアを夢の舞台に 張偉京さん
 
   張偉京 1964年福建省生まれ。85年、中国科学技術大学システム科学専攻卒業、同大学大学院推薦入学。86年秋、日本留学。九州工業大学制御工学科修士課程修了。東京工業大学大学院博士課程中退。米国のIT企業、日本の研究所での勤務を経て、96年帰国。妻、娘の三人家族。    須藤 美華

 「僕たち中国人も外国に向けてどんどん情報を発信していきたい、そう思っているんです」

 上海の情報産業はここ数年、急カーブで成長を続けている。そのレベルを示す情報化総合指数の伸び率は、昨年51%アップ。自動車産業を追いぬき、上海のナンバーワン産業に成長したと見られている。第十次五カ年計画中には、上海版シリコンバレーの建設も予定されている。

 張偉京さんは、そんな上海の情報産業を担おうという若手経営者の一人。96年春、九年におよぶ海外生活を経て、マルチメディアソフトの企画・開発会社「上海浮山媒体有限公司」を設立した。

 上海出身でもなく、日本と米国の先端分野で働いてきた経歴を持つ張さんが、自分の舞台として選んだ場所は上海だった。彼を上海に向かわせたものは何だったのか。

政府派遣生として偶然にも日本留学

 「僕は、小さい頃から一つの場所で長く暮らすということがなかったせいか、どんな所でも適応できる力を持っているようです」

 福建省泉州湾浮山島で生まれた。父親の仕事の都合で故郷と北京、武漢を行き来して育った。北方と南方とでは、言葉も食べる物も違う。幼い頃からの「異文化体験」が、何に対しても偏見を持たない広い視野を持った人間に育てたようだ。

 16歳で、次代の中国科学技術界の人材を養成する中国科学技術大学に入学。

 「まわりは各省や市の秀才たちばかりで、その環境にワクワクした」という。大学に入って初めて、ライバルと思える仲間に出会ったというから、神童と言われ続けてきたに違いない。

 大学卒業時の成績も、もちろんオールA。クラスでたった一人の政府派遣留学生にも選抜され、日本の大学院へ留学した。しかし、派遣する国は毎年変わる。卒業年度が違えば、日本との縁はなかったかも知れない。

 「実は留学先が日本と聞いた時は、ショックでした。あの頃、米国しか見えてなかったから。でも、今は日本に留学してよかったと思ってますよ。米国へ留学した同級生は大勢いますが、彼らの目には米国しか見えていない。もし、僕も直接米国へ行っていたら、彼らと同じように、すべて米国が一番と思っていたでしょうから」

 博士課程の途中で、縁があって憧れの米国シリコンバレーで働くことになるのだが、あれだけ焦がれた街にもかかわらず、「一年半働いてみると、先が見えてしまった」。

 再び、日本へ。通産省と産業界による技術研究組合「国際ファジィ工学研究所」で主任研究員として、画像認識&ファジィ推論の研究を担当した。

日々刻々と変化する場所に身をおく

 日本人や欧米人の優秀な同僚たち。恵まれた研究環境のなかで研究に没頭しながらも、もっと世の中に役に立つ仕事をしたいという気持ちが強くなっていく。専攻はミサイル制御などにも利用される分野であり、戦争に荷担したくないという思いもあったようだ。一年半あまりの研究プロジェクトが終了すると、張さんは帰国を決意する。

 「僕は中国人だから、中国が一番落ち着きます。IT業界で仕事をしていくなら、日本やアメリカの方が良かったでしょう。そう、お金だって儲かりますからね。だけど、お金より大切なものがあるでしょう?」

 祖国でマルチメディア関連の仕事をする。そう決めると、中国国内十二、三都市を回って調査を始め、最終的に上海を選んだ。

 「上海は、日々刻々と変化している。いま現在、成長を続ける場所にいたいと思うのです。都市として完成された東京やシリコンバレーでは見えなかった何かが見えるのではないか、つかめるのではないかと思うから」

   都市の持つエネルギーを吸収し、人々もまた何かを生み出そうとしている。上海は昔から、彼のようなフロンティア精神を持った人間を惹きつけてきたのだ。

 研究者出身の彼の仕事に「妥協」という言葉はない。最初に取り組んだ仕事は、日本人向け中国語学習ソフトだが、制作には2年をかけた。投資したお金も四百万円を下らないという。だが、発売元が決まっていたわけではない。とにかく、自分の作品を世に問おうという思いだったようだ。

 完成すると日本に出張し、発売元を求めて数社を回った。そして、現在の発売元であるオムロンソフトの担当者の目に留まる。ソフトの売れ行きは上々で、昨年末にはシリーズ第三弾も発売された。最近は、企業のプロモーションソフト制作や市政府の仕事も請け負うようになり、確実に仕事が広がりつつある。今秋までには15万ドルに増資する計画だ。

メディアとして情報発信を

 張偉京さんの名を知ったのは、友人が「面白いよ」と教えてくれたインターネット上のメールマガジン『上海新聞』が最初だった。上海のニュースや話題をつづる彼のメルマガは、創刊から二年あまりで昨年11月に百号を迎えた。読者数も2500となり、私も彼のメルマガを心待ちにする一人だ。

 「社名に、媒体という言葉が入っているのは、メディアに関心があるから。いつかは自分たちで映画とかも作ってみたい。今、中国の若者たちにウケているのはアメリカや日本のソフトばかりですが、僕たち中国人も外国に向けてどんどん発信していきたい、そう思っているんです」(2001年2月号より)

[張さんのプライベート]

◆マイブーム…仕事漬けで時間がなくて、今はありません。
◆週末の過ごし方…仕事をしていることが多いかな。仕事をしていなければ、娘と遊ぶ。その時間が一番楽しい。
◆スポーツ…テニス(なかなか行けないですが…)
◆ストレス解消法…友人たちと話すこと。

[筆者略歴] 日本での出版社勤務後、留学。北京週報社・日本人文教専家を経て、現在、復旦大学大学院生