設立五年、上海一の日本語学校に 「春が一番嬉しい季節です」 語学学校の特愛外語進修学院を経営する何萍さんは、そう言う。年に一回行われる「日本語能力検定試験」の結果が出るのが、3月。難易度の高い一級や二級の合格の報を持った生徒たちが、彼女のもとに次々にやって来るからだ。 1996年3月の開校以来、特愛学院では日本語検定合格コースをカリキュラムの中心に据えてきた。イチから始めて二年間で一、二級を取得できるように授業内容が構成されている。 「教育事業も市場経済のなかのひとつです。学生のニーズを認識し、どう満足させていくかという点を考えるべきではないでしょうか。私自身も大学で日本語を専攻しましたが、四年もかけて外国語を学ぶのは時間がもったいないと思っていました。そこで私たちは、日本語教育を受けたい人たちが何を欲しているのかをリサーチしたうえで、日本語検定試験合格を授業の核にしたのです」 彼女の市場を見る目は確かだったようだ。学生数は倍々で増え続け、3年目には1500人に達する。さらに、昨年は5000人に増加、今年は一万人にも達する見込みだ。 「数年前まで、日本語の習得はとても難しく、ましてや日本語検定試験の一級は、大学の日本語学科の卒業生だけしか取得できないものだと思われていました。『日本語は難しい』という神話ですね、その神話を私たちが崩したのではないかと思います」 何さんは自信を持って言う。 大学の日本語学科を専攻していない人(非専攻者)の一級合格率は、上海市全体でわずか20%であるのに対して、特愛学院では四年間の平均合格率は72%とかなり高い。また、非専攻の合格者のうち成績トップは、四年連続して同学院から出ている。わずか五年で、名実ともに上海一の日本語学校になったのである。 メディアから広告会社、語学学校設立 何萍さんは大学卒業後、上海テレビに入社。外事部に配属され、日本のテレビ局が上海取材をする際には通訳をしてきた。その後、京都女子大学に二年留学。テレビ局に復職後は、ラジオ番組「日本の窓」のパーソナリティ兼記者を五年間担当。上海初の日本語放送は好評を博した。周囲の後押しもあって番組内容を活字にした雑誌『日本の窓』を発刊、彼女の仕事は雑誌編集にまで広がっていく。 雑誌の仕事を始めるうちに、広告収入の重要性を認識した何さんは、テレビ局を退社して広告会社を設立。雑誌広告だけでなくテレビCMも取り扱うようになり、半年ほどで会社は軌道に乗った。ちょうどその頃、今度は番組の熱心なリスナーだった人たちから、日本語学校経営の話を持ち込まれるのである。 「私は資金は出しましたが、学校設立の煩雑な手続きは周囲の人が全てしてくれました。ですから、学院の院長も軽い気持ちで引き受けてしまったんです」 当初は経営面は人に任せていたが、学生数が急激に増加したことから、二年前からは彼女自身が采配をふるうようになった。最近では、広告会社よりも学校経営に仕事の比重を置いている。 第二外語として日本語に照準が 国際都市上海では二つの言語をマスターしよう――。これが、特愛学院のキャッチコピーだ。実際、第二外国語として日本語を習得しようとする学生は増えているという。学生全体の三分の一は大学生で、卒業前に英語以外にもう一つ外国語を身につけようと入学してくる。学生の低年齢化も進んでいる。二年前、学生のボリュームゾーンは24〜30歳だったが、現在は20〜25、6歳。競争社会に対する認識は年々強くなっており、若いうちに語学を習得して自身のプレステージを高めようという若者が増えているのだ。 また、経済的に余裕のある層には、子供を中国ではなく日本の大学へ進学させようという家庭もあり、そういった目的で特愛学院に通学してくる十代の学生も少なくない。「今後、その傾向は強まっていく」と、何さんは言い切る。昨年から城西、千葉商科、大阪国際などの大学や専門学校との提携も始めており、特愛学院から推薦入学できるようにもなった。少子化で経営が困難になっていく日本の大学と、海外に目をむけ始めた中国の高校生たち。今後の新しい日中間の教育交流の可能性を示唆しているように思える。 さらに、昨夏には英語クラスも開講、現在約五百人の学生を抱えている。規模は小さいながらドイツ語やフランス語のクラスもある。 「将来的には、国際ビジネスを総合的に教育できる私立大学をつくりたい。そう、国際商務学院のようなものですね」 国際社会へはばたこうとする若者たちを後押ししてあげたい。語学によって人生を切り開いてきた彼女だからこそ、できる仕事なのかも知れない。広告会社の仕事はもちろん面白い仕事だったが、学校経営のほうによりやりがいを感じている、とも言う。 優しくソフトな語り口のなかにも、天職を全うしようとする人が持つ自信と充実感がみなぎっていた。(2001年5月号より) [何さんのプライベート] ◆マイブーム…最近始めたゴルフですね。 [筆者略歴] 日本での出版社勤務後、留学。北京週報社・日本人文教専家を経て、現在、復旦大学大学院生 |