誌上で日中のさまざまな交流を 「上海は経済も文化も、そして人々の意識や生活もダイナミックに変化しています。変化を見るのは面白いことでしょう」 そう話すのは、安永博信さん。江蘇省の揚州市対外文化交流協会上海工作処の顧問として、日本語月刊誌『WALKER』の製作に関わっている。 『WALKER』は、上海並びに近郊都市での初めての本格的な日本語タウン誌として1999年7月に創刊。以来、上海のエンターテインメント、アート、ショッピング、レストランなどの情報をスピーディに提供してきた。特集では、「国際結婚」「クリスマス」「上海OL今どき事情」「就職の理想と現実」などホットなテーマを取り上げ、スペシャル・インタビューでは、マイケル・チャンや羅大佑、任賢斉、仲村トオルなど、日中のスターを登場させてきた。 現在の読者は、日本人が七割だが、中国人も日本留学経験者などを中心に増え続けているという。 「日本と中国のさまざまな面での交流ができる雑誌を、というのがコンセプトです。上海と江蘇、浙江省を大上海経済圏ととらえ、その変化していくさまを伝えていきたい」 穏やかな笑みとソフトな話しぶりの安永さんだが、言葉に冗長さはなく、理路整然そのもの。世界を舞台に駆けてきたビジネスマンの厳しい横顔がうかがえる。 上海の変化にたずさわりたい 安永さんは東京大学で横断的に「米国」を学んだ後、運輸会社に入社。財務畑を歩き始める。社内選考を経て、企業研修生としてコロンビア大学に留学、MBAを取得した。その後、米国の投資銀行に転職。NYのウォール街で勤務した後、東京支社への転勤辞令を受けた。海外で働きたい日本人が増える昨今、世界の金融界の第一線で働き、着々とキャリアアップを続けてきた姿は、羨むような存在と言える。 しかし、彼はここで大きな決断をする。日系企業の中国投資に関するアドバイザリーにメンバーとして参画し、一九九四年初めて中国を訪問。同じ年、休暇で再び上海に。街中に活気があふれる上海に、安永さんは強く惹かれる。 「当時の日本は、今以上に閉塞感があった。仕事の範囲は限られていましたしね。違う分野をやってみたいという気持ちが強くなっていました。二回目の上海では、建設中だったヤオハンを見て、中国に関わるなら、一番面白い所に入りたいとヤオハンにレターを送ったのです」 ヤオハン中国で取締役財務・企画部長を約三年務めたところで、ヤオハンジャパンが倒産した。 「ヤオハンについて今、振り返ると、理想が先行していて、現実と乖離していたと思います。しかし、ヤオハンが投資した場所は、役者(経営者)は変わりましたが、すべてビジネスはうまく運営されています。和田(一夫)氏には先見の明があったのです。私は、目標に向かってチャレンジする、失敗を恐れない、そんな和田氏の姿勢を尊敬しています。今の日本には一番欠けているものではないでしょうか」 日本か米国に戻るのか、あるいは中国に残るのか――。再び岐路に立った安永さんだが、中国に残る道を選択する。決断させたのは、変化を続ける上海の姿だった。 「自分は上海とその近郊の面白さを半分しか知らないのではないか。そう思ったら、上海の変化にたずさわっていたい。もう少し上海の変化を肌で感じ、今までの経験を役に立てる手段はないかと考えていました」 経験を生かしアドバイザリーも 現在は、『WALKER』の製作に関わる一方、中国ビジネスのマネジメント・アドバイザリーも行っている。今秋にはAPECが開催される上海では、一時期冷え込んでいた投資も増えており、日本の上海に対する見方がまた経済モードに入ってきている。そう、安永さんは言う。常時、三、四件のコンサルティング案件を抱えており、多忙な毎日を送っているようだ。『WALKER』でも、経済にもフォーカスをあて、ビジネス分野の誌面も増やしていきたい、とビジョンは広がる。 「実は、私はアメリカに行く前、大企業に入って出世していく人生を金科玉条のように思っているところがありました。それが変わっていったのは、大学院時代に中国系アメリカ人の今の妻と出会った頃からです。中国系の世界に興味を持ちましたねぇ。日本人は会社を軸に考えていて、個人が何かをするというより、集団で何かをするという意識が強いでしょう。だけど、中国人は違う。個人の軸がしっかりしています。日本人にはない一族の絆の強さもあります。今は、自分がやりたいことを実現させていきたい。自己実現ですね。それをしつつ、上海に住む者として、上海の経済発展や社会の変貌に貢献できればと考えています」(2001年6月号より) [安永さんのプライベート] ◆マイブーム…息子とサッカーをしたり、サッカーのTV観戦。 [筆者略歴] 日本での出版社勤務後、留学。北京週報社・日本人文教専家を経て、現在、復旦大学大学院生 |