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艾未未 1957年生まれ。78年北京電影学院卒業後、ニューヨーク留学、90年代から北京を拠点に活動。昨年、中国現代建築に関する個展をベルリンで開催。 |
北京とふたたび関わりたいと思ったのは、ふとしたきっかけからだった。アーティストの艾未未が東京に何人かの知人とで訪れた際、家に招待した。中古で買ったばかりの家に手を加え、やや自慢げに中国からの友達を招いたのだ。艾未未はそんなわが家をしげしげと観察してまわり、ずいぶん昔ぼくが雲南の大理で買った骨董の龍の前ではしばらく留まり、うーん、これは好いといったりした。よく言えば大人風、悪く言えば倣岸不遜の態度が印象的だった。
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工作室 |
それでも、北京空港の近くにある自宅を見るまでは、アーティストという彼の肩書きや才能を信用していたわけではない。文革の動乱を経た中国の芸術は、八〇年代一気に解放された。まず、音楽が、やがて映画が、そして絵画や彫刻も、世界の寵児となった。世界中のアートディーラーが雨後に出現した竹の子狩りに集まってきた。しかし、その多くは竹の子ではなかった。それに相応しい少数でさえ竹の子の比喩そのままで、旬を過ぎれば単なる竹になってしまった。成長した竹は硬くて食べることなどできはしない。
これまで何度となく、芸術家だと呼ばれる中国人の家に招かれた。そのたびに室内インテリアや置かれているものの品のなさに愕然とした。中国の骨董がわけもなく暑苦しく並べられているその隣に、外国のどこかの空港で買った安っぽいミヤゲが平然と置かれていたりする。金をかけていないのではない。要するに成金で、センスがない。世界から一時賛辞を以って迎えられたはエキゾチズムという高下駄を履かせてもらったからにすぎない。
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艾未未と自邸
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だから艾未未が、北京に来たらぜひと招いてくれた自邸も、そんなたぐいのものだと、高をくくっていた。
今でも華北の農村風景が残る北京の東北郊外にある彼の家を見て、一瞬にして、ぼくは、彼に対して持っていた不純な予断を、不明だったと羞じることになる。そこにあったのは家ではない。空間が立っていた。しかも、きりりとした風に。四字成語を用いるならば、泰然自若とでも言えるような空間だった。
蒐集する眼
艾未未の名前は、現代アーティストとして日本でもよく知られている。新疆に下放されていた反骨の詩人艾青の息子だと言ってよいかもしれない。73年に新疆から戻り、やがて北京電影学院で学ぶ。映画監督の張芸謀や陳凱歌とは同期だったという。80年代初期、中国の前衛芸術運動「星星画会」に参加し、一躍有名となった。アメリカに長く滞在した経験もある。そこでの生活はけっして楽ではなかっただろうが、新疆に育った野生児にはむしろ楽しかった風がある。
黒レンガの塀で囲まれた彼の敷地は、華北特有の民家に倣っている。中に一歩足を踏み入れると、壁でいくつにも区切られた方形の庭が広がる。緑の芝生の上に古い彫刻の破片や彼の運び込んだ巨大な石の塊が無造作に置かれていた。点点と植えられた樹木の配分も当を得ている。これほどすばらしい空間をぼくは中国でほとんど見たことがなかった。
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並べられた石器 |
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天空から光が射す |
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扉は白の配色が印象的 |
白い大きな扉をあけて居間に入ると、さらに陶然としてしまう。安徽省にある古民家とニューヨークのロフトとの混合だろうか。天井が高く、黒レンガの壁がそこまで立ち上がる。光が上方の窓から差し込んできている。壁には艾未未の作品のいくつかがぽんとかけられていた。居間から上がると寝室がある。ベッド、家具、そこから見える外部の風景、すべてが計算されている。もちろん、それは彼のもつざっくりとした美意識で統一されている。
居間の横に設けられた広大な工作室には、三千個の石器と家具が並べられていた。石器は、いずこかの河原で拾われてきた本物で、それを並べること自体が、彼の創作なのである。アーティストの本質は、創ることではない。見ることであり、選ぶことである。プロの建築家でもない彼が、おそらく、簡易的に記した図面を職人に示して作ったこの空間と、彼のインスタレーション、そして、石や家具や骨董の蒐集は、同じ意識から生まれてきている。
目利きの眼でもって、すべてが選ばれている。そして、それを腕に伝達して再構成する技能、それは本物だった。中国というフロンティアに育ち、欧米の理論を学習し、国外の無知な芸術関係者を幻惑させる大方の中国のアーティストたちとは、はっきりと異なっている。建物の素材、家具、光、空間、庭、彫刻、樹木、それらがすべて渾然一体になってこの家となっている。艾未未は、それらすべてを統御できる人間なのである。
文人と対話する
こういった人間を「中国的文人」と呼びたい。歴史家の端くれながら、「文人」の歴史的定義には拘泥したくはない。簡単になら中国的な教養を持っているひとびととでも言えよう。当然ながら、何が「中国」で、何が「教養」なのかというのもあいまいだ。四千年の中華文明が生み出したさまざまな事象を、身体化したひとびと、とりあえず、それを「中国的文人」の定義だとしておこう。
艾未未の家に行った目的の半分は、インタヴューという仕事だったけれど、そのすまいに陶然としてしまって、さらに出された茶を飲みながら意識はゆったりとしていた。ぼくは、インタヴューとはいってもほとんどメモを取らない。事実を記録しようと思っているわけではなく、対面するひとびとや建物の、「立った」部分を鑑賞しようとしているのだから。まして、分析的というよりも、統合の知に支えられた「中国的文人」理解には、このぼんやりとそこに佇むのが唯一役に立つ方法なのだ。
花茶をいれてくれたのは、艾未未夫人だった。ぼくたちが訪れた時、眠い眼をこすりながら起きてきた。やがて不意と出かけ、どこかから蓮の花を携えて戻ってきた。広い居間で、蓮の花びらを千切り、水盤に浮かべる。その穏やかな物腰は、ぼくの知り合いの中国人女性にはあまりいない。これまた古い中国の文学から這い出てきたような雰囲気である。のちに聞くと、中央美術学院で版画を習ったという。アートとして編んだ長い長い布を見せてもらった。
これで、北京に再び魅せられない訳にはいかない。招かれた夕食は、艾家の本籍地紹興の料理、その名も「孔乙己」だった。インテリア、味、そして、気風のよい従業員たち、これもすべて艾未未の芸術の一齣だった。そう、ぼくはこれに味をしめた。しばらく北京に通い詰めて、中国的文人たちと対話することにしたのである。もちろん、その最後には、お勧めのレストランで、さらに友好を深めることになる。
名づけて、「燕京游記」。副題に含まれる「モダンスタイル」とは、過去ではなく21世紀の未来に向かう中国的文人たちの姿勢への賛辞でもある。(2002年1月号より)
村松 伸(むらまつ
しん)1954年生まれ。東アジア建築史・工学博士。78年東京大学工学部建築学科卒業後、81〜84年清華大学留学を機に中国に淫す。著作に『中華中毒』など。本欄の題字、イラストも担当。
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