燕京遊記 文人たちのモダンスタイル


今月の文人 楊静

                   文・村松 伸

新と旧。西と東。琵琶の歴史は
「仙子」の手でさらに飛躍していく。


楊靜(ヤン)
 1963年河南省生まれ。上海音楽学院で琵琶と作曲を専攻。97年より日本でも頻繁にソロコンサートを行う。2001年、三木稔作曲オペラ『源氏物語』日本公演にも参加。

 琵琶を弾き始めたとたん、空気が変わった。ややあまったるい部屋のインテリアが急に引き締まった。楊静の指が目に見えぬほどの速さで振動する。それまで柔和だった顔が突如変わり、一点を凝視する。最近作曲したばかりだという、古き敦煌を幻夢のように想う『夢断敦煌』、ゆったりとした曲『酒』、彼女の小さな琵琶の中からさまざまな曲が紡ぎだされてくる。

 さあ、いっしょに。今回の写真を撮ってくれる写真家の淺川敏さんがかつてドラムを叩いていたことを知ると、そう誘って即興で琵琶を弾きだした。楊静がゆったりと弾く。すると淺川さんがそれに合わせる。楊静がすっと外す。急激になったかと思えば、ゆったりとまた戻る。その技術の巧みさは、音楽にまったく暗いぼくでさえ、すぐにわかる。アマチュアバンドで叩いていた淺川さんは、たじたじした表情を時たま見せ、でも、その琵琶の迫力と即興の面白さを堪能していた。

 それはスイスのジャズパーカッショニスト、ピエール・フェーヴルと楊静がおこなった2000年の即興演奏会をもじったものだった。『深秋対話』(2000年)と題されたそのCDには、北京と上海でおこなった演奏会がライブで録音されている。ジャズというきわめてアメリカ的な音が、楊静の琵琶に影響されて、古い中国の詩を詠んでいるような懐かしさに包みこまれる。それでいて、打楽器がはいっているから、けっして古臭くない。激情、静けさ、快活さが、二人の間で、瞬時に生み出されてくる。それこそ文字通り、深秋の対話である。

 亜運村(アジア選手村)近く、四環路の北側にある彼女の家に赴いたのは深秋ならぬ、一月末のことである。まだ寒さが残る、だが、太陽がはっきりと照った昼下がりだった。北京が変わったといっても、彼女の住む住宅地「紫玉山荘」は、まだ超高級の部類に属する。広大な芝生、大きなプール、厳重なガード、瀟洒な住宅、そんな中に楊静は最近結婚したばかりのスイス人と暮らしていた。地下一階、地上三階のテラスハウスは、本当にここがどこなのかわからなくしている。コーヒー、それとも紅茶? そう気さくに聞いたのは彼女ではなく、夫の方だった。美しきアーティストの中国人の妻、西洋人のやさしいビジネスマンの夫、優雅な生活、一切が2002年北京一千万人の理想のようにも見える。北京で出会った楊静は、幻のようにも想える。

亀茲舞曲

 だが、これまで会ってきた北京の新しい文人たち同様、楊静の人生は波乱万丈という言葉を使って形容できるに相応しい。幻ではなく、彼女も中国現代史という現実の中に生きているのである。1963年に生まれているから、新しい文化に飢餓感を感じ、欧米や日本への憧憬を強く持ち、しかも、能力に満ちた文革後の第一世代に、彼女も属していた。豪奢な「紫玉山荘」での穏やかな生活の背後には、何億人というひとびとの中から選ばれた、溢れる才気と、さらに長く、地道な努力、そして、さらなる飛躍への強い願望が潜んでいるのだった。

 河南省の小さな街、許昌市に生まれた楊静は、1982年、19歳で上海音楽学院民族音楽学科に合格した。一名しか合格枠はなかったけれど、6歳から琵琶を習い、9歳で許昌市豫劇団の正式の団員として認められていたから、自信はあったに違いない。琵琶の高度な技術はすでに習得し、大学では同時に、作曲を学んだ。そこでできた曲が、『九連玉』(1984年)、『品訴』(1985年)であった。それぞれ、楊静20歳、21歳の時の作品である。いずれも、琵琶演奏の深い技巧をふんだんにとりいれ、唐の詩人白居易や漢の詩人蔡文姫の詩に思いを寄せた作品である。

 琵琶は、近世、劇の伴奏や日本と同様、語りのための付随的な楽器として用いられてきた。楊静はそれに対して、さらに古い伝統を発見しようと考えたのだ。琵琶の起源は、漢代に遡り、西域との交流から誕生したものである。唐で隆盛をきわめたのも、西との関係があったからだろう。琵琶の起源とその時代に生きた詩人たちとの対話、それがこの二つの曲のモチーフである。そして、楊静はこれら二つの曲で一躍有名になる。

 琵琶の復興を志す楊静は、当然ながら琵琶の起源を追って西へ西へと惹かれていく。敦煌で発掘された楽譜に感銘し、その再興を考えた。唐代の楽譜をもとに改編した『西江月』(1993年)、新しく作った『亀茲舞曲』(1993年)には、そんな楊静の想いが存分に込められている。シルクロード天山南路にあった亀ラネという国の舞踏を想起させる後者の曲には、かの地の楽器シタールの技巧も取り入れたのである。

琵琶仙子

 その後の楊静の動静を簡単に述べてみよう。1986年大学を卒業すると同時に、北京にある中国中央民族楽団に就職する。民族楽器の楽団としては中国随一である。だが、そこでの生活は鬱々としていたようだった。国外の情報、新しいライフスタイルが激流として入り込んでくる。そんななかで、きわめて中国的な、そして、ミュージシャンというアーティストが、いかに自由に振舞えるか、彼女の眼の前に参照すべきモデルは何もない。はっきりとは語らなかったけれど、楽団では飼い殺し状況だったようだ。

 市場経済への転換が、楊静に及んだのは、たとえば、1996年に友人たちと古楽器のカルテットを組んだ時からだったろうか。琵琶、揚琴、二胡、古筝の若き女性奏者たちが集まって結成した「卿梅静月」は、多くのファンを作り出した。翌1997年、日本の作曲家三木稔と出会い、オーケストラ・アジアに参加したあたりから、楊静は世界に羽ばたき始めた。中国のだれかれから「琵琶仙子」と呼ばれる楊静は、その愛称のように、世界中を駆け巡ることになる。

 琵琶は伴奏の楽器ではない。音階すべてを奏でることができる。ピアノと同様、独奏が可能だ。しかも、バチから指で弾くようになった時点で、微妙な技巧が付加された。琵琶の歴史は、楊静によってさらに飛躍する。新と旧、西と東が、その縦横無尽の技術で合体したのである。もはやこれは、「民族」楽器などという狭苦しいジャンルに押し込めて置くのではない。ピアノやバイオリン同様、「普遍的」な「世界」楽器として認知されるべきなのだ。そんな楊静の夢と意気込みに、ぼくは賛同する。彼女の奏でる琵琶の音を目前50センチで聞きながら、涙が出てきたのはなぜだったろう。老化ではない。音楽は、心を和ませ、涙腺をリラックスさせる故だろうか。

 インタヴューの後、近くの北京料理屋「庚午大食堂」に行った。数年前、忽然と現れたレストラン街の一角にある。レストランの服務員が冗談で、ぼくたちを一言二言、罵った。古い「北京味児」を自慢とするこの店の特色の範疇と言えないこともなかったが、その時、楊静は毅然として怒った。彼女の琵琶を支えているもうひとつの強靭さを垣間見ることができた。(2002年5月号より)

村松 伸(むらまつ しん)1954年生まれ。東アジア建築史・工学博士。78年東京大学工学部建築学科卒業後、81〜84年清華大学留学を機に中国に淫す。著作に『中華中毒』など。本欄の題字、イラストも担当。