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湯立峰(タン リフォン)
1959年生まれ。15歳から書を学ぶ。1980年より中国社会科学院近代史研究所図書館勤務。
1989年以降日本での書道展に参加、1994年北京で、「湯立峰書法芸術展」開催。新時代の書家として注目される。 |
1954年生まれ。東アジア建築史・工学博士。78年東京大学工学部建築学科卒業後、81〜84年清華大学留学を機に中国に淫す。著作に『中華中毒』など。本欄の題字、イラストも担当。
字を書いて見せて欲しい、そんな無理な希望はやはり叶えられなかった。では代わりに墨を磨りましょうか。湯立峰はそういって書斎の引出しの奥から大切そうに大ぶりの硯を取り出してきた。外祖父、王承翰から受け継いだ、宋、もしくは、明初の逸品である。
硯の海のところに龍が浮き彫りに施されている。箱の蓋状になった高さ9センチの硯の三側面には、清中期の官僚王敬銘が描いた山水画が刻される。底には同じく清中期の官僚張廷玉が硯を詠んだ五言詩が刻まれている。故宮博物院にあってもおかしくはない国宝級の代物である。普段は墨汁で書くんですがね、といいながらその硯で墨を磨りはじめた。やっと、書家の顔になった。カメラはその瞬間の彼の手の動きを捉えたはずだ。
三環路の北側にある病院の敷地内に建つアパートに赴いたのは3月末のことだった。高さ制限がある旧城内とは異なって、このあたりは高い建物が密集している。ぼっとしていると上海、あるいは香港と見間違う。薄暗い旧式エレベーターに乗り、12階まで昇る。扉を開けると思ったよりも、モダンな部屋が広がっていた。
正直言ってその部屋に感銘を受けたわけではない。板張りの床、壁には書棚が作られ、一面に書籍、DVDが整理されて並べられている。あえていうならば、中国風モダンリビングだろう。中国的な素材が現代風にアレンジされて、甘ったるい洋風の食器、絵画、小物が家を満たしている。日本好きの湯立峰みずからの設計である。
書棚とは反対の壁一面に大型の屏風が飾られていた。絵画のように見える屏風の文字こそ、湯立峰の書である。屈原の「橘頌」から選ばれた文を幅広の特異な文字で書き記したものである。なぜ、屈原の「橘頌」か。ほとんど意味はない。内容は重要ではなく、字数が屏風の書に適しているか否かにすぎない。
この絵画的な書も、実はぼくはあまり好みではなかった。横画が太く、縦画は細い。力の入り具合は通常と異なり、すっと入って、すっと終わる。いったい何の字かさえわからない。ごりごりとした字体は、ぼくの好きな書の優美さに欠ける。だが、伝来の硯で墨を磨り始めた瞬間、湯立峰は本当に書家であったのか、と得心がいった。
1959年生まれの湯立峰は、文革の申し子と言ってもいい。大方の学校は閉鎖され、授業はない。手技のみが身を助ける、という家のだれかれかの入れ知恵で、13歳から絵を学んだ。師事したのは近代の著名画家斉白石の子息、斉良遅だった。そこには、名硯の所蔵家で、陶磁器に対する鋭敏な眼をもっていた外祖父王承翰の意向が働いていたであろう。その日から湯立峰は毎日、3時間、筆を持って線を引き、絵を習う。
15歳の時に書へと転向した。その理由はわからない。本来、中国画と書とは地続きの位置にあるから、移行はそれほど難しくはなかった。彼のきわめて絵画的な書はそんな数年間の絵の手習いの中で育まれたのであろう。21歳で、中国社会科学院近代史研究所の図書館に勤務する。その間の経歴、この職場に入った動機などについては、黙して語っていない。文革時代、外祖父の日本との密接な関係が問題となって、辛い時期を経験したからかもしれない。
いくつか見せてもらった彼を紹介した新聞記事はどれも、斉良遅への師事の後、突如一九八九年秋の事件へと跳ぶ。日本で開催されたある書道展に出展し、日本の書家から好評をもって迎えられた、というものである。あまたある日本の書展のいかなるものか、はっきりとはしない。ただ、そこに展覧した「森林樹木草花」を写真版で見ると、いかにも鬱蒼とした森林の雰囲気が全体に溢れている。
木という文字がいくつもいくつも並ぶ。漢字を知らない国のひとびとも、すぐさまその意味は理解できる。象形という漢字の本質がその書ににじみ出ている。写真で見てすら雰囲気があり、実物であったならその凛とした書の表情はさらに増していたであろう。
「海為龍世界」、「雲是鶴家郷」という別の書は、隷書体で書かれている。この字配りも、全体の構成もきわめて美麗である。子供の時から訓練し身体化された技芸が、それらの書に流れている。
日本の戦後の書に影響を受け、中国の書は近年、絵画と一体化しつつある。字を描くという本来の機能を離れ、墨を筆で紙の上に定着させるという、抽象絵画と紛う位置にまで近づこうとしている。そんな一群の中国人書家が出現したのは八〇年代後半だった。美術、建築、音楽、映画などと呼応して出現した、中国のアカデミーに属する書家たちによるものだった。
不明にも、そのような中国の書、いや、日本の書についてもさしたる知識をもたぬまま湯立峰とのインタビューに臨んでしまった。もっとも、この連載企画自体が、ぼくにとって未知なる領域に進入するためのドリルのようなものだから、無知もいたしかたない。インタビューの後、少しばかりかじった中国書の現代史からみると、湯立峰はその流れからはみ出してしまっている。
批判的に言えば、湯立峰の立場はアカデミズムには包含されず、アマチュアの延長に位置している。芸術を変えようという高い志があるわけではない。89年以降、湯立峰の書は高額で取り引きされるようになった。開放経済に乗った他の若い中国人芸術家と同様の軌跡を、湯立峰の場合もたどっている。だが、彼の方が中国の古い文人という伝統をそのままの姿で継承しているのではあるまいか。
インタビューの後の食事は、毎回、楽しみのひとつだ。それは共に食事をすることでふと漏らされることば、テーブルでの所作から、その本人をよりよく理解できるのだから。しかし、あくまでもインタビューが主であり、食事は従なのである。ところが、湯立峰との場合、それが逆転してしまった。
例によって、インタビュー相手の行きつけの店に向かった。韓香鼎という韓国料理屋風の名前は、以前ここが事実、韓国料理屋だったからだ。その江南の料理は久しぶりに文句なしにどれも美味だった。
レストランに入ると湯立峰は「本性」を表わした。食べ物への探究心、本や映画や音楽への造詣、そしてなによりその饒舌さ。インタビューの際には、ややぎこちなく、距離のあったぼくとの間合いが、物を食べることによって一挙に近づいた。
明末、清初の文人、李漁は『閑情偶寄』という、理想のライフスタイルについての書を著した。戯曲に始まって、美人の見かた、食べ物への薀蓄、すまいや家具、庭に対する知識をあますことなくこの書に注ぎ込んでいる。李漁の場合、戯曲と造園が得意で、それで生活の糧を得ていた。
文人とは生活の芸術家の代名詞であって、その伝でいけば湯立峰は李漁を代表とする中国文人の直系の継承者なのである。生活を楽しみ、時たま、書を売って、ふたたび、安逸の中に沈潜する。湯立峰の書技はたしかに凄まじい。だが、それ以上に彼の生活する技芸は抜きん出ている。
李漁という文人は贅沢な暮らしとその後に遭遇した明末の動乱で生まれた。文化大革命という時代が育み、20世紀末に開花した湯立峰の書論とそして、生活の知恵を記した現代版『閑情偶寄』を読んでみたいものだ。(2002年6月号より)
村松 伸(むらまつ
しん)1954年生まれ。東アジア建築史・工学博士。78年東京大学工学部建築学科卒業後、81〜84年清華大学留学を機に中国に淫す。著作に『中華中毒』など。本欄の題字、イラストも担当。
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