燕京遊記 文人たちのモダンスタイル


今月の文人 馬未都

                   文・村松 伸

本物を身近に置き、自在に見る。
部屋に充満する骨董への情熱。


馬未都(マウェイドウ)
 1955年北京生まれ。青年出版社を経て95年、中国初の個人博物館「観復古典芸術博物館」を開館。執筆、講演など幅広いジャンルにわたり、骨董の世界に大きな影響力を持つ。
 

 1954年生まれ。東アジア建築史・工学博士。78年東京大学工学部建築学科卒業後、81〜84年清華大学留学を機に中国に淫す。著作に『中華中毒』など。本欄の題字、イラストも担当。

 初対面の人に会うのは、相手がどこの国の人間でもやや緊張する。世間話に始まって生い立ち、所蔵している骨董品などをひとつひとつ見せてもらって小一時間すぎたころだった。ちょっと、と言い置いて馬未都が席を立った。となりの部屋に山東から知人が来ていて、彼らが持ってきている骨董類を鑑定しなくてはならないと言う。なかなかこんな機会にめぐり合うことはない。そっと遠くからその鑑定の現場を観察させてもらうことにした。

 見れば山出しだとすぐわかる4人の男たちがいた。ひとりが大将らしく、あとの3人はその大将の言い付けに黙々と従っている。風体からすると地方で企業を興して少し小金が入った50歳ほどの男である。山積みになった新聞に包まれた陶磁器をひとつひとつ馬未都の目の前に持ってきて、その真偽を見てもらう。馬未都の鑑定は初めやや丁寧に、次第にぞんざいになっていく。

 

 まったく陶磁器に詳しくないぼくでさえ、明らかに偽ものだとわかる壷、皿、碗がいくつもいくつも新聞の山から繰り出されてくる。もっと本物を見たほうがいい、本がたくさん出ているし、博物館でだって見ることができる、同郷の知人だから、そう婉曲に言う。そう、この本を読んだらと、自分の著作『馬説陶磁』を勧めてもいた。

 時間の無駄だから早く帰って、自分の仕事に精を出したほうがよい、そんな意味を言外に込めているのだが、山東の大将はへこたれない。とうとう持ってきた骨董すべてを取りだして、馬未都の目の前に並べてしまった。取り付きにくい馬未都の感じが、この私的鑑定会の見学をきっかけに急に近しく思えるようになったのである。

 そして、この鑑定の光景にこそ中国人の骨董への情熱が集約されている。まったく眼がない大多数の人間たちの骨董に賭ける貪欲さ、そして、少数の目利きたち。嘘だと思うならば、週末の骨董市藩家園に行ってみるとよい。それこそ全国から骨董をもって売りに来ている人間たちの欲望が渦巻いている。

 そこに並ぶほとんどは明らかにニセモノか、屑のようなものにすぎない。しかし、目利きはその中からちょいと本物を見つけ出し、売り手の無知を尻目に驚くほど安価な値段で宝物を取得する。馬未都の部屋にあったいくつかの逸品も藩家園で獲得した成果物であった。

目利きの骨董

 1955年に生まれた馬未都は御多分に漏れず文革の影響を多く受けている。普通で言えば高校に通う年齢を、下放された黒竜江ですごした。3年間のこの時代についてぼくも聞かなかったが、彼も語らなかった。ぼくと同じ世代の中国人にとって語る必要のない当たり前のことなのだから。

 下放から帰って10年ほど青年出版社に勤務した。編集の仕事をし、原稿を依頼し、自分でも文章を書いた。何冊もの本があるようだが、これも見せてはくれなかった。35歳、骨董で身を立てようとした時、過去の作品はすべてどこかの金庫に堅く閉じ込めたのかもしれない。

 北京に帰ってから80年代初頭、陶磁器を集め始めた。山東から出てきた件の大将とは違って、単なる金儲けが目的ではなかっただろう。えてして骨董品に関心を持つのは金持ちの暇つぶし、貧乏人の一髪千セの夢でなかったら、世への韜晦であるはずだ。でも、金がなかったから書や絵画は難しかったという彼の説明には、単なる世捨てびとの隠遁とも異なった響きがある。90年、中国社会にさまざまな変革が訪れた時、出版社をやめた。骨董を商うことに専念しようと決めたのだ。『馬説陶磁』や『中国鼻煙壷珍賞』『明清筆筒』などの書籍を出したのはこの頃であった。

 20年の骨董収集の成果は、彼の部屋に充満していた。宋代の碗、遼の仏像、国宝級の品々が無造作に置かれている。壁に飾られた窓枠、絵画、馬未都が使っている家具もよい味が出ている。その品々が醸し出す雰囲気は尋常ではない。言葉の綾ではない。本物を身近に置き、自在に見る。こうやって鑑識眼は訓練される。

 高価な骨董品で充満した執務室の片隅にややアンバランスな小さなベッドが置かれていた。ここで仮眠をとり、時には夜を過ごす。角刈りの頭、質素な服装とともに、この小さなベッドが、文革時代に育った馬未都の逞しさを物語っている。

古きを観る

 馬未都の事務所は、朝陽門からちょっと西に入った南小街南竿胡同のビルの中にある。その4階に事務所があって、実は地下にも、彼の収集した伝統家具を展示した博物館「観復古典芸術博物館」とレストラン「華智観復軒」が設けられている。『老子』の「道徳経・修観篇」から取られたこの言葉に本来どのような意味がこめられているのか、不勉強でいまだ知るところでない。だが、字義から言って、古いものを見据えるほどの意味だろうか。

 陶磁器の収集の後、馬未都は家具や、扉、窓などに関心を持ち始めた。伝統家具の収集も、中国では長い歴史がある。おそらく西洋人の骨董趣味の影響を受けたのだろう、20世紀の初頭にはいくつかの伝統家具の本が英文で出版されている。解放後、王世マ蛯フ明式家具の研究が一世を風靡し、彼の収集した家具類にぼくも感銘を受けた時期がある。だが、貧しく小さな四合院の中に押し込まれた明式家具の異様さには哀愁が漂っていた。

 90年代、馬未都が家具に関心を持ち出したのは、開放政策で再び欧米人、日本人のほかに、香港や台湾の人びとがどっと入ってきたからであった。開発が進み、古い民家が壊され、その一部が馬未都など収集家の手に渡った。やがて、経済的に潤った中国人が出現して、部屋を飾るために伝統家具を買うようになる。馬未都は商業主義ではない。でも、朴念仁でもない。より魅力的に伝統家具を見せるために博物館を作った。それは商売のためのショーケースであるとともに、自己表現でもある。

 家具の配置はもとより、展示場のインテリアに至るまで馬未都の手が入る。プロではないから、とびぬけてデザイン力があるわけではない。だが、博物館は家具そのものの力で鮮やかに映えている。重厚な椅子、机、タンスなど、その迫力は圧倒的である。ここに集められたものは、馬未都そのものかもしれなかった。集めたものは子供には残さない、社会に残す。そう、しつこくいった。

 この言葉は、中国における骨董品の運命を物語っている。収集者が死んだらすぐ売却されて、集められたものは散逸してしまう。骨董品の収蔵家にとって、それは、自分の墓が暴かれるほどの脅威なのだろう。同様の言葉は、彼だけでなく、別の何人もからも聞いたことがある。

 併設されたレストランで昼食をとった。博物館の見学に来る知人をもてなす場所がないのに困り果て、挙句に自ら作った。簡単な北京料理を振舞われた。事務室に置かれている小さなベッドのように素朴だったが、十分歓待されているという好意の味がその中に込められていた。(2002年7月号より)

村松 伸(むらまつ しん)1954年生まれ。東アジア建築史・工学博士。78年東京大学工学部建築学科卒業後、81〜84年清華大学留学を機に中国に淫す。著作に『中華中毒』など。本欄の題字、イラストも担当。