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張永和(シャン・ヨンホゥ)
1956年、北京生まれ。南京工学院を経て、84年カリフォルニア大学バークレー校修士課程修了。93年、ライス大学助教授。99年、北京大学建築中心を創設。 |
張永和に出会ったのは、九四年ころだったろうか。ちょうどその頃、ぼくはアジアの現代建築家に会って、インタヴューする仕事を続けていた。ひとづてに彼の才能について知って、勇んで彼に面会を申し込んだ。この時、彼の作品と言うのはマンションの自室のインテリア設計だけだったから、突撃インタヴューをしたのは今から考えればやや無謀であったかも知れない。
でも、ぼくは彼と彼のパートナーに惹かれた。映画や小説、音楽などで、中国が世界に台頭してきたのに建築はどうしてこんなにだめなのか、そんな風にいらいらしていた矢先だったから、著名な建築家を父に持ち、文革以後、建築学科を卒業した初めての学生で、アメリカ留学帰りのという、三拍子揃った彼に期待したのもうなずけよう。その際についでに面会した他の中国人建築家たちは保守的で、官僚的だったから、さらに張永和の存在は輝いて見えた。
もちろん、そんな彼を取り巻く客観的状況だけに魅惑されたのではない。彼の自邸の創意工夫にも感銘した。ぼくの著作『アジアン・スタイル』(筑摩書房、1997年)に掲載された淺川敏さんの写真を見てくれるならば、デザインの細部に意を尽くす彼のスタイルとセンスの好さが読み取れよう。
それから、8年がたつ。当時彼に会った際、すぐさま、現在の彼の姿をある程度予想できはしたものの、これほどまでになろうとは、驚きだった。九六年、アメリカでの教職を投げ打って本格的に北京に戻ったのは、中国の経済的発展をみこしてのことだった。大規模な官営の設計事務所が跋扈し、旧態依然のやり方が主流を占める中国建築界で、彼は孤軍奮闘を始めた。
「非常建築工作室」、彼の事務所の名称にしてからひとを食っている。意味は「普通でない建築の工作室」、もしくは、
「普通でない建築工作室」。もちろん、当初大規模な建物の設計依頼はこない。彼を慕って集まってくる芸術家や文人たちが施主となっていった。
席殊書店は北京西郊外の集合住宅地にある、小さいけれど意欲ある経営者が作った、しゃれた本屋だった。良心的な本屋がつぶれていくのはどこも同じで、今年壊されてしまった。この本屋で彼は自転車の車輪のついた本棚を設置した。自転車こそ中国を代表するものだから、として、アートの中に使用する。
文化大革命を彼自身の成長期に体験してきた張永和は、自転車ばかりでなく、たとえば卓球も自己アイデンティティだとみなしているようだ。映画や音楽、絵画が文化大革命を真正面からみすえ、自分たちの活動の根源においていたのに、同世代の建築家はそれをいかに咀嚼するのだろうか、そうずっと不安と期待の入り混じった感情で見守っていたぼくは、彼のこの席殊書店の出現やかつての事務所の部屋の中央におかれた卓球台に感銘してしまった。
彼は実作というより、実験的な作品に精力を注いでいるようだ。いい施主にめぐまれない第三世界で生きてかなければならない、早く生まれてきてしまった建築家たちが採用できる唯一の方策が、これである。
2000年の第七回ヴェニス・ビエンナーレ国際建築展に出品した後、彼はおしゃれな小さな2冊の作品集を出した。広西美術出版社から出された視覚語言叢書の2冊として出版された七センチ×十センチほどの本は、第1冊が、ヴェニス・ビエンナーレの作品、第2冊がこれまでに五つの都市で行ってきた展覧会のコレクションである。題して、「都市実験室」。
その中のいくつかを示すならば、
* 北京(1998): 推拉折畳平開門(引き、折り、開く扉) 北京の古い建物の重く旧式の扉に折りたたみ式の扉の枠をはめこみ、開く小さな新しいドアをその中にはめ込む。
* ヘルシンキ(1999): 三十窓宅(三十窓の家) スティーブン・ホール設計の美術館の入り口窓際に30の窓箱を置く。美術館の窓は、広く均質なガラスの窓を設置してあるのに対して、中国の園林の伝統を生かした不思議窓を配置する。
* ウィーン(1997): 院城(コートヤード都市) 表現主義の展覧会場の中に足場を組んで、幕をはった仮設空間を作って北京の四合院のようなコートヤードを作る。そして、それを利用して展示、セレモニーなどを行う。
* ニューヨーク(1999): 街劇(ストリートシアター) 会場に坂を作り、北京の地図を貼り、ニューヨークの中に北京を呼び込む。スライド、模型などを設置し、どこの都市にいるのかを曖昧にさせる。
彼のアバンギャルドとしての面目が躍如としている。
2000年9月から、ぼくは建築家の隈研吾さん、張永和とともに、彼が経営する北京大学建築中心で、三カ月おきの日本人建築家レクチャーを主宰している。張永和と組んで、なにか面白いことをしたい、そうずっと考え、彼を日本に紹介し、外国のいろんな場所で出会ってきた。その前年、張永和は北京大学の建築中心を創設する大役につき、若い中国人建築家を育てる立場にたった。
日本人の建築家たちとともに中国やアジアを変えることができる可能性がでてきたのだ。彼は、巨大な中国建築界のなかで、小さな小さな批判勢力にすぎない。でも、今を形作っている建築界も中国の近代建築史で、当初は少数派にすぎなかった。まして、共産党も同様だった。あと、五年で、張永和はさらに面白いことができるポジションにたつことだろう。そう考えて、彼といっしょに何かをしようと目論んだのだ。
現実はぼくの予想をはるかに超えた。瞬く間に、張永和は中国建築界の若きスターとなってしまった。中国の経済成長が彼を後押しする。今や世界中の著名建築家が中国を訪れるならば名門清華大学建築学科や北京設計院を素通りして彼に会いにくる。中国各地のディベロッパーが彼に依頼して、外国の有名建築家が参加する指名コンペの差配を依頼する。九月からはハーバード大学の建築大学院で、丹下チェアの客員教授として週一回設計を教える。北京とボストンをとんぼ返りするという。
5月1日、家族連れで北京にたまたま行った。次回の日本人建築家講演会について打ち合わせをしようと張永和に電話した。パーティーがあるからこないかという。パーティーは北京大学の西側にある白家大宅門で開かれた。開催中の建築関係のシンポジウムの招待者を招いた大宴会である。かつての王府がそのまま使われたそのレストランはまさにそのパーティーの雰囲気を伝えていた。磯崎新、浅田彰、クールハースなど超有名人が揃い踏みだった。
開会の挨拶をする張永和はいつものようにとつとつと、おごるわけでも、卑小になるわけでもない。中国建築界のスターたる威厳が湧きでていた。張永和はもはやぼくの手に届かないところに行ってしまったのだろうか。大宴会の艶やかさに呑まれたのと社交に忙しくて、食事を堪能する暇がなかった。たまには彼とゆっくりと、「文革キッチュ」のインテリアのレストラン「為人民服務」にでも行きたい。(2002年8月号より)
村松 伸(むらまつ
しん)1954年生まれ。東アジア建築史・工学博士。78年東京大学工学部建築学科卒業後、81〜84年清華大学留学を機に中国に淫す。著作に『中華中毒』など。本欄の題字、イラストも担当。
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