李景漢に初めて出会ったのは、前々回紹介した建築家張永和が開いたパーティであった。北京大学近くの旧王府を利用したレストランでのこの宴会は、建築家会議のためのものであったけれど、北京中のスノッブな人間たちが揃い踏みしたと思われるほど、多彩な人々の群れだった。
パーティが散会して、そこで知り合った人々に二次会へと誘われた。李景漢が経営する四合というワインバーだった。故宮の東側、東華門のすぐ外側のお壕に面して立っている、おそらく民国初頭に建てられた黒レンガの二階屋である。それを借り受け、改造して、レストランとバーに仕立てたのであった。
夜10時頃、東華門はライトアップされ、お壕の水とともにまるで夢の景色だった。二階のプライベートな部屋に通されて、酒に酔った稔心地よさは今でも忘れられない。使い古したソファや時計といったアンティークがインテリアにマッチしている。
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李景漢
1961年、ワシントン大学で法学博士号取得のち、北京に留学。91年、北京に居を移し、現在は米国系法律事務所の共同経営の傍ら、上海の開発計画を指揮。 |
静かに時が流れていく。酒を飲みながら東華門を愛でることができるなどと、考えてみたこともなかった。驚きだったのは、その景色ばかりではない。21世紀になるならば、故宮にこれほど近いところにワインバーを開くことができるという、中国の開放性についても驚嘆したのである。
北京で文人に会って、その素晴らしいライフスタイルにご相伴しようとするこの連載企画は、ひとと芸、時としてひとのみの魅力に頼らざるを得ない場合が多くあった。彼ら彼女たちの住まう住宅に至っては、北京で、という限定条件だったなら、まあ許せるものの、多くはキッチュやコピーに過ぎなかった。
四合のセンスのよさに、つい李景漢に尋ねると、家はいくつかあるという。これはいける。その西洋と中国とが巧みに結合した状態を見学させてもらうことにした。一等地にあるオフィスに行ったのは七月初頭のことだった。とにかく忙しい、上海に出張にでかけるまでの小一時間をくれるという。
アメリカの大手法律事務所の共同経営者を務める41歳の李景漢は、オフィスまでもセンスよく磨き上げていた。中国の現代絵画や骨董の壷や皿などがいたるところに置かれている。でも、成金趣味でも、かといって機械的に置かれているわけでもない。ひとつひとつに愛情が込められて、置かれる場所に置かれるべきものが置かれていた。
趣味のよさの半分は、ワシントンで生まれてアメリカの裕福な生活を肉体化していることにあるのだろう。だが、それだけがすべてではない。話を聞くと連綿と継承される中華の伝統の力強さを体感する。旗人であった祖父は戦前、南京のミッションスクールの校長をしていたという。その娘の母親は北京の広大な四合院に住まっていたらしい。
やがて、一家はアメリカに移住した。父は中国画を好くし、書も達人だった。母も絵を描く。太平洋の向こう側で半世紀の歴史ドラマは必ずしもはっきりしないけれど、決して悲惨ではなかったはずだ。オフィスの壁に掛けられた母親のニューヨークの風景画は、色とりどり水彩で軽やかに描かれていた。
20年前、北京大学で一年ほど学んだことから、李景漢と北京との関係が始まる。アメリカで法律を学び、そして、十年後、アメリカの大手法律事務所の共同経営者として戻ってきた。どんなところに住んでいるんですか。街中の四合院です。北京の西北郊外の懐柔県には最近、別荘ができたばかりです。
そう言って、掲載された今もっともトレンディなインテリア雑誌『時尚家居』を見せてくれた。湖に面した高台、風水宝地である。ここに母親と初めてやってきた時、李景漢はその風景に圧倒され、家を建てることを決めた。友人のアーティスト高波と彼との合作である。
たしかに雑誌で見る周囲の風景は秀逸である。住宅も中国の水準ならば、圧倒的なすばらしさだ。建築がわからない、しろうとの日本人であったなら感激するのかもしれない。だが、施工のクオリティは必ずしも高くなく、まして、デザインはミースやコルビュジエのコピーでしかない。実際見たらまた異なった評価ができないこともないが、満点をさしあげることはできなかった。
ただ、驚いたことに、李景漢は同じことをインタヴューのなかで言った。オリジナリティはないし、設計を頼んだ人間も建築家ではなかったから、と。今、実は上海のバンドでやっているプロジェクトは本当の建築家に依頼しているから、きっといいものになるはずです。PRなのかはっきりしない言葉を最後にインタヴューは終わった。
8月初頭、再び、北京を訪れた。彼は上海での仕事に忙しくいなかったけれど、彼の自邸を見学するためだった。北京旧城内にある四合院を改造した、彼がいま住まっている家である。暑い太陽が照りつける昼下がり、もらった住所の胡同をコーディネイターの原口女史と写真家の岩崎さんとともに歩いていった。暑い、埃が舞い、騒音は響き、ゴミの異臭が漂う。普通の北京の下町である。
だが、彼の自邸となった小さな四合院は別世界だった。ふたつ院子が並ぶ「二進」だったから規模としては大きくない。しかし、その中庭に座っていると、騒音はもとよりない。そして、風が吹いてくる。四合院の持つエコロジカルな価値を初めて実感した。海棠が葉を伸ばし、柿が青い実をつけている。
故人の超有名政治家の後代から借りている明代創建のこの四合院は、李景漢の手でニューヨークのようなロフトに様変わりしている。もともと三進だったコートヤードには天井をかけ、広く、高い大きな空間を作り出している。応接間とベッドルームが続いている。巨大なテレビと多数のDVD、上質のワインの数々、ワインの本、そして、さらに多くのアンティーク。
ややものが溢れている。コレクションの絵画や物品は重厚すぎる。家具もその古さを誇示しすぎている。一見すると、オリエンタリストの欧米人の中国趣味の部屋である。でも、センスはいい。20世紀前半の北京や上海に多く存在していたものが、半世紀後に再び出現してきたのである。
これをどう評価したらよいのだろうか。30年前だったら、ブルジョアの悪趣味だとして確実に吊るし上げの対象だっただろう。だが、西洋風の中国趣味に見えるこの部屋は、実は中国の伝統を継承している。紫禁城に残る皇帝や皇后、妃たちの部屋の子孫であるといってもよい。
中国の現代史は、すまいの成熟にとって必ずしもやさしくはなかった。だが、20世紀の世紀末から再び、富が集まり、住まいや建物においても過去の伝統を復活しようとしている。上海で投資家としての李景漢がもくろむ、バンドの建物の大改造も大いに期待ができる。
インタヴューのお相手と、その推薦するレストランで食事をするという楽しみは、李景漢の不在で中止。東華門の四合でこちらだけでと思ってでかけたけれど、改装中でこれもお預けとなった。
(2002年10月号より)
村松 伸(むらまつ
しん)1954年生まれ。東アジア建築史・工学博士。78年東京大学工学部建築学科卒業後、81〜84年清華大学留学を機に中国に淫す。著作に『中華中毒』など。本欄の題字、イラストも担当。
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