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田壮壮
1952年生まれ。東アジア建築史・工学博士。78年東京大学工学部建築学科卒業後、81〜84年清華大学留学を機に中国に淫す。著作に『中華中毒』など。本欄の題字、イラストも担当。
田壮壮 1952年北京生まれ。農村労働、文芸兵、撮影助手などを経て、78年北京電影学院入学。作品に『刈り場の掟』『盗馬賊』『小城之春』などがある。 |
インタヴューする前に今上映中の映画を見ておいたらと、この企画のコーディネイターの原口女史に薦められ、田壮壮の新作、『小城之春(小さな町の春)』を見に行くことにした。北京王府井の北端にある新東安市場である。10年ほど前まではうらぶれたバザール風の市場に過ぎなかったが、今では香港ばりのショッピングセンターになっている。
その上階にミニシアターがいくつも並ぶ。『スターウォーズ』が日に何度も上映されているのに、田壮壮の『小城之春』はわずか午前1回、午後1回だけであった。とは言っても、上映間近になると満席となり、静かに映画は始まっていった。おそらく解放直前の、江南の小さな町の古い屋敷を舞台に、若い夫婦、何年ぶりかで上海から戻ってきた旧友との数日間のできごとを描いている。
夫人と旧友とはかつて恋人同士。今では冷め切った夫婦関係を逃れ、突如現れた昔の恋人のもとに走ろうという気持ちと、現在の夫のところに留まらなければならないという倫理観との葛藤がゆったりと進んでいく。夫の自殺未遂はあったにしても、さして奇想天外の筋があるわけではない。どこかで見た雰囲気ではあったけれど、けっして面白くなかったわけではない。だが、より関心を引いたのは、静かな映画の内容と騒々しい映画館の外との、ひどくかけ離れたミスマッチである。
三角関係に揺れ動く三人三様の人間模様は、時代を越え、文化を越え、普遍的なテーマであるに違いない。その際、見る人を感銘させるのは、心の動きをいかに映像で見せるのか、映像のそのものが美しいか、などであろう。その点で言えば、ウォン・カーウァイの『花様年華』にある色の鮮やかさ、映像のエロティズム、あるときはスピーディに、あるときはスローに進む場面の速度の臨機応変さに、とうてい勝つことはできまい。
というよりも、この映画自体がウォン・カーウァイの『花様年華』を相当意識しているように見受けられる。ポスターやパンフレットの体裁にも、それは色濃く現れている。10年前にどっと出現した中国の若い映画監督たちは、そのビギナーズ・ラックを消費しつくしてしまった今、いったいどこに進もうとしているのか、映画を見終えて、深夜まで騒がしい2002年の消費の中心、王府井を歩きながら、考え続けていた。
1981年というポスト文革の最初期に、北京に滞在した故なのか、年代的に同世代だからなのか、78年から始まった新しい大学教育にどっと押し寄せた文革世代に、ぼくは親しさを感じている。田壮壮をはじめとする、今では超級のスターになってしまった映画監督たち――張芸謀、陳凱歌、呉子牛などは、いずれも北京電影学院の第1期生である。
かれらの強みは、辛く過酷な下放生活でも生き残った生命力、何百万人の中から精選された明晰な頭脳、そして、何より20歳までの間に目にし、耳にし、手にしてきた、恐怖、驚嘆、歓喜という宝のような体験であった。ひとつ上の世代が、文革の余波でほとんど抜けてしまっていたから、大学を卒業するとすぐさま第一線で活躍することができた。
日本でいうならば、戦後すぐの時期に似ている。大岡昇平などが戦争体験を小説にし、過酷な戦場の姿そのものの強さを、たくみな筆致で描いていったことを、田壮壮たちを見た時、すぐさま連想してしまう。あるいは、世界へのデヴューで言ったなら、黒澤明に酷似する。世界の人々を感銘させたのは、黒澤の映画そのもののすばらしさだけにあったのではない。世界のひとびとには敗戦から立ち直りつつあった日本の姿とダブって見えていたのである。
田壮壮は10年前、50年代初頭から文革期までのある家族の悲惨なる生活を描いた作品を撮った。
『盗馬賊』(85年)に続いて92年撮られたこの映画は、90年代の初頭には、とても衝撃的だった。中国の現代史を真摯な眼で見る見方が新鮮だったからだ。だが、今回、東京に帰ってこの映画をヴィデオで見てみると、文革に翻弄されたひとびとの壮絶な人生は、心を暗くするだけだった。文革を撃つという映画の意図には、さほど感激することはなかった。時代は、すでに文革という激動をさえ消費してしまっている。
自宅に伺って、インタヴュー相手の住まい方を横目で見ながら、雑多の質問をするのがこの連載企画の通例である。だが、今回は北京電影製片廠に来てほしいとの返答だった。映画の製作現場に入っていけるのは魅力だったから、何も言わずに応諾した。
やってきたのは、無精ヒゲをはやし、白髪交じりで、顔に深く皺の刻まれた壮年田壮壮であった。Tシャツとチノパンというラフな服装も、けっして嫌味ではない。背広できりりと身を固めて雑誌の広告に出る陳凱歌もいいけれど、田壮壮のこの姿は乾燥して、太陽が照りつける北京の夏には妙に似つかわしい。ぼくはこの田壮壮のだらだらさかげんに、いっぺんで参ってしまった。
聞きたいことは、ひとつだけ、前作から『小城之春』を撮るまでの10年間、いったい何をして過ごしてきたかであった。
田壮壮 : 映画を撮影しなくても、いろいろ忙しいんですよ。幇忙ですよ、幇忙。友達の手伝いをしたり、旅行したり。これで十年がたってしまった。
――でも、お金は。映画会社の給料だけじゃ、生活できないと思いますが。
田壮壮 : そう、タバコ代にもなりはしない。でも、住むところはあるしね。
インタヴューの間、ずっとタバコを吸い続けながら、田壮壮はそう言う。でも、実はこの社会で金はそんなに重要ではない。旅行でいうなら、向こうに着きさえすれば、宿代も食費も、そして、帰りの交通費も友人が出してくれる。田壮壮はこれで中国全土を漫遊したようだった。そんな世間話を聞きながら、ぼくは突如清中期の人気作家で詩人の袁枚を想起していた。
18世紀いっぱいを十分堪能して生きたこの詩人は、官僚生活で10年ほどを過ごしたあと、南京の小倉山の北麓に隠遁して随園という庭園を営んだ。風雅なこの随園を別にすれば、袁枚の人生と田壮壮のそれとはよく似通っている。友人とともにあちこちを旅し、詩を作り、売文をしながら幸せな人生をまっとうした。
20歳までのすさまじい体験を使い切った田壮壮も、ゆっくりと人生を楽しみながら進むことをどこかで学んだようだった。いまはやりのスローフードにあやかって言えば、袁枚も田壮壮も、スローライフを過ごしていることになる。『小城之春』の興行成績は、彼にとってはどうでもいいことなのかもしれない。
ミンミンゼミの鳴く、部屋の外ではハリウッドの映画が、製作費削減のためにこの撮影所で、映画を撮っていた。「随園食単」ならぬ、今回の「田壮壮食単」は、土城西路にあるしゃぶしゃぶの老舗、金生隆。しばらく前、王府井から移ってきた。羊尽くしを前にして、われわれ三人はすぐさま満腹。あまりの美味に急いで食べすぎ、スローフードにはならなかった。(2002年11月号より)
村松 伸(むらまつ
しん)1954年生まれ。東アジア建築史・工学博士。78年東京大学工学部建築学科卒業後、81〜84年清華大学留学を機に中国に淫す。著作に『中華中毒』など。本欄の題字、イラストも担当。
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