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阿 城
1949年北京生まれ。中学卒業後、79年まで農村での下放を経験。小説『子供たちの王様』など、多くの作品が映画化されている。86年アメリカに渡り、以降、中国との間を往復しながら、小説、映画美術、脚本など幅広いジャンルで活躍。
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作家の阿城に会えることとなった、と突然、この連載のコーディネイター原口さんから東京にメールが届いた。予定は一週間後。ぼくはソウルでの国際会議のついでに北京を訪れることにした。10月の終わりのことだった。いつになく北京は寒さの中に沈んでいる。ホテルに着くやいなや、インタヴュー先に「拉致」されていった。
タクシーに乗ると、原口さんはインタヴュー場所が決まらないと、不安げに言う。とりあえず、前回、映画監督田壮壮に面会した北京電影製片廠に赴いて、そこで出会うこととした。阿城も多くの映画脚本を書いているからだ。
寒さを避けてタクシーで待っていると、原口さんが恰好のインタヴュー場所を探してきた。北京電影製片廠の中の小さな小さな部屋である。観光客用に作られたセットに入る場所の受付にあたる小部屋である。受付と言っても、日本とは違う。「伝達室」といえば、中国をやや知っている人々には、その意味がよくわかるだろう。
「伝達室」につめる門衛氏は得てして、恐ろしくなければ、意地悪に決まっているのだが、北京電影製片廠のその門衛氏は、快くぼくたちに部屋を会見場所として提供してくれた。鉄製のベッドと机と椅子、その上に置かれた茶を入れたビン、壁に無造作に架けられた衣服、これがここに何年も寝泊まりしている門衛氏の一切の所有物なのであろう。
でも、ぼく、そして、原口さん、写真を取ってくれる岩崎稔さんは、この質素な部屋に感動した。ほんの十年前まで、このような質素な一室が、北京のひとびとの生活のすべてであったからだ。近年の豪奢な部屋に辟易していたぼくたち三人が、同様にこの部屋を好ましく感じたのは、懐かしさだけでない。この中にこそ、中国人の生きる姿の原型があると信じているからだった。まさに、最後のインタヴュー場所に相応しかった。
阿城が来る前、彼の著作を撮ろうと、本を机上に並べた。こういった撮影の達人の岩崎さんによって、タバコ、ライター、お茶の入ったビンが本とともによい具合に並べられた。夕暮れの光が差し込み、絶妙な写真が出来上がった。そして、いよいよ阿城氏の登場である。
やや興奮しながらぼくはインタヴューの趣旨を阿城に説明した。これまで、インタヴューしたひとびとの多くが、真の文人だと賞賛していたのがこの阿城であったのだ。あがっていたのか話を巧く説明できない。
話題を振ろうと、岩崎さんが撮影したばかりの本に話を向けた。「これは私の本ではない」「えっ、阿城さんではないのですか」「そう、でも私の本ではない」ぼくたちは状況が理解できず、一斉に血が引いていった。いったいぼくたちは、この小さな寒い部屋で何をしているのだろうか。
実はぼくが持ってきたのは、阿城の本ではなくて、阿成の本であった。書名もいかにも阿城ふうに仕立てられている。混乱するわけだ。そんな混乱はぼくたちだけでなくよくあるらしい。この悪夢のような数分は、でも、結果的にはよかった。一気にリラックスできたからだ。
1949年に北京に生まれた阿城は、文革に遭遇し、多くの同世代の少年少女がそうであったように、田舎に下放されていった。山西、内蒙古、そして、雲南を転々とし、79年に北京へと帰ってきた。その際の経験をもとに作り上げた短編小説『子供たちの王様』が映画化されたことは、記憶に新しい。
北京に帰っても、大学を受けることはしなかった。まるで、科挙を放棄した文人のように振舞った。さまざまな仕事をやった。映画助手もそうであったし、物書きもそうだ。86年アメリカへと赴き、現在まで行ったり来たりの生活をしている。
もっとも、今回の阿城へのインタヴューは、そんな彼の履歴や文学観を聞くものではなかった。彼を包むオーラのような中国人の知恵を探ろうとするものである。話の糸口にといくつかの簡単な質問を準備していった好きな本、好きな場所、好きな季節、というように。
どんな運動が好きですか。縄跳び。このひとことで、彼の嗜好がよくわかった。バイオリンを弾き、絵を描き、草花を育てることに関心を持つ。料理が得意、なにしろ、四川料理のコックだったのだから。旅行はあまり好きではない。かつてあまりにも多くの場所に行ったからだ。
そもそもこの連載企画は、現在を生きる北京の文人たちの姿を肌で捉えることにあった。かつて、しばらく住んだ北京が持っている都市の姿を、才豊かなひとびとと語らうことで、より深く理解したいと思ったのである。同時に、50歳代を目前に迎えたこのぼくの今後の人生モデルを探し出すことでもあった。
体力も衰え、気力も少なくなっていく、そんな時にどうすればよいのか。目下ぼくの最大の懸案事項だ。そして、それを阿城に尋ねてみた。「そう、目標を決めて、現在を犠牲にしながら、何か達成することはやめたほうがいい。大切なのは過程、プロセスのこと」。阿城は「過程」、「過程」と何度も口に出して言った。
縄跳び、草花、料理、音楽、絵画、阿城が好むもろもろのことを並べて見ると、まさに「過程」を楽しむ彼の姿が彷彿とする。「それに、50歳代というのは、人生でもっとも素晴らしい時期なんだよ。今までばらばらだったすべてが一挙にひとつに向かって収斂していく、そんな年代だ」
結論は簡単だった。「日々是楽」。この言葉はよく考えれば、ぼくの田舎の家の座敷に懸けられた額の言葉でもあったのだ。連載の最後としてはやや出来過ぎなこの阿城へのインタヴューが終わりかけた時、部屋を貸してくれた老人の門衛氏が帰ってきた。60歳になろうとしている彼にとっても、「過程」は大事に違いない。
快楽主義とも異なるこの人生の哲学を、阿城はどこで獲得したのだろうか。下放された農村で、大地に縛り付けられ、そこから一歩たりとも逃げられない農民たちとの遭遇が、彼のこの「過程」主義を育てたのかもしれない。
本は、アメリカの図書館でたくさん読んだ。世界中の中国語の本がそろっていて、そこにないものは世界中から取り寄せてくれる。日々の生活のため、わずかな費用を稼ぐのなんて難しいことではない。借りた本の中からでも生きる哲学は獲得できる。「過程」を大事にしな。
成功した人間だけが言う資格のある言葉だとはわかっていても、そこには多くの真実が隠されている。「今、新しい家を作っている。倉庫のような作業場で、きっと気にいると思うよ。できあがったら招待して、手作りの食事を食わせてあげよう」来年が楽しみだ。
12回の連載が無事終わり、結論めいた言葉を獲得したぼくたちは、帰りに近頃はやりのキノコのしゃぶしゃぶを食べることにした。出汁のために入れられたスッポンが、恨めしそうに首をこちらに向けていた。可哀想ながら、スッポン君の「過程」はもちろんすでに潰えてしまっていたのだが。(2002年12月号より)
村松 伸(むらまつ
しん)1954年生まれ。東アジア建築史・工学博士。78年東京大学工学部建築学科卒業後、81〜84年清華大学留学を機に中国に淫す。著作に『中華中毒』など。本欄の題字、イラストも担当。
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