華北のSARS患者第一号が経過を初公表


 北京市の重症急性呼吸器症候群(SARS)患者第一号の徐麗さん(当人の希望により仮名)は今月21日、「中国青年報」にファクスを送り、自身の病気の経過を初めて公表した。

 徐麗さんは27歳で山西省太原市の出身。2月18日に広東へ出張し、22日夜、深センから広州へ向かう列車の中で疲労感と全身の寒気に襲われた。23日、山西に戻ると38.8度の高熱を発したため、太原市の病院で診察を受けた。徐さんは広州帰りであることを伝え「SARSではないか」とたずねて検査を受けたが、医者からは「SARSではない」と伝えられる。徐さんは誤診の可能性もあると考え、その夜再び診察を受けたが、検査結果は「風邪」だった。25日、熱が40度まで上がったため、今回は別の大型病院に行ったが、この日も検査結果は「風邪」だった。

 28日、夫に「中国で一番の病院へ行こう」と勧められ、徐さんは中国人民解放軍総医院・北京301医院で診察を受けることを決意。山西省人民医院の魏東光医師が付き添い、現地の救急車で北京に運ばれた。3月1日深夜1時に301医院に到着したが、その日は土曜日で入院手続きができず、ひとまず救急病室に入った。同室の患者は3人。徐さんは高熱と全身の震えが止まらず、この頃には絶望的な気持ちになっていた。

 一方、徐さんを送り届け太原市に戻った魏医師は、まもなく自身がSARSに感染していることを知った。同市ではほかにも看護師2人が感染していた。

 3日、徐さんは呼吸器科の病室に移った。徐さんの母親も39度の高熱を発していたが、病床に寄り添い、娘を看病し励まし続けた。翌4日、主治医は徐さんと家族に「病状が広東で流行のSARSと非常によく似ている」と告げ、急いで徐さんを隔離病室に移し、母親も入院させた。太原にいる父親も高熱を発し、気管支炎と診断されて数日間点滴を受けたが、病状は好転せず、5日に301医院で診察を受けた。同医院は伝染病の専門病院でなかったため、徐さん一家は解放軍302医院へ転院することになり、徐さんの夫が北京市救急センターに救急車の手配をした。

 北京市救急センター・救急科の羅恰主任は「301医院から302医院に移送する際、車両には何の防護措置も取られなかった。運転手も医者も、目の前にある危険をまったく認識していなかった」と振り返る。

 その後、302医院では医療従事者十数人がSARSに感染し、北京の医療従事者の感染第一号となった。301医院でも感染者が出た。4月14日に天津で初めて確認された感染者は、302医院で診察を受けたことがあった。

 302医院で徐さんと両親は同じ病室だった。やがて徐さんは熱が下がり回復に向かったが、父親は激しいせきが止まらなかった。

 3月7日、父親は病状が悪化して死亡。15日には母親もこの世を去った。

 3月12日、北京在住の徐さんのおじも徐さんと似た症状で、佑安医院に送られた。その後間もなく同医院で10数人のSARS患者が発生した。27日、同医院で研修した医師が郷里の内蒙古自治区臨河市へ戻ると、内蒙古にもSARS感染が広まった。

 3月22日、徐さんは退院して自宅へ戻った。

                   (「人民網日本語版」より)2003年5月23日