思い出のつまったミシン
牛秀茹さんは、私にとってお姉さん的な存在である。いまでは定年退職して、社区(コミュニティー)で住民委員会の主任をしている。 毎日、社区の衛生や治安維持に気を配り、住民たちの様々な問題の解決に力を貸す。社区の会議に出ることも、欠かせない仕事だ。すでに58歳になったが、いまでも清潔感ただよう服をまとい、落ち着いた振る舞いを保ちつづけている。 彼女のベッドのそばにはいまでも、中国人なら懐かしさを覚える、あの「蝴蝶」ブランドの古いミシンが置かれている。彼女は、「古い家具はすべて売り払ったけど、これだけはねえ。名残惜しくて」と手元に残した理由を話す。
ミシンは1970年に買った。物不足の時代だったため、このような大物は、いずれも購入券を手に入れて、ようやく買うことができた。ミシンの購入券は、夫が職場でくじ引きで当てたもの。いまの感覚なら、宝くじに当たったようなもので、同僚からは羨望のまなざしで見られた。 ミシンを手に入れたことで、頭が良く手先も器用な牛さんは、暮らしがどんなに大変な時でも、家族に清潔で恥ずかしくない服を与えることができた。季節を問わず、すべての衣類を例外なく彼女が作った。 生活費を切りつめ、綿布の購入券を節約するため、商店で買ってきた布を巧みに切り、つなぎ合わせ、市場で売られる商品と何ら遜色のない服に仕立てる。新しい服は、まずはお年寄りと大人が使い、着古したものを子ども用のものに作り直した。どれも立派なものだった。 人口大国として、数億人の衣類やふとんの需要を満たすことは、かつて中国政府の難題の一つだった。そのため、1950〜80年代まで、中国では布の購入券による供給制を行っていた。その間、ほとんどすべての中国人は、牛さんと同じように、知恵をしぼって節約しながら暮らしてきた。
衣類に関しては、丈夫で長持ちすることだけが唯一の関心事だった。そのため子どもの服を買う際などは、必ず大きめのサイズ選び、長持ちさせるようにした。 「新しい服は3年、着古してから3年、つくろってさらに3年」 これは、主婦なら誰でも知っていて、体感していた「節約の経典」である。衣類を作れなくても、つくろえることは、主婦としての最低条件だった。少なくない家庭のミシンは、つくろうために使われていた。当時の大多数の子どもは、つぎ当てのあるズボンをはいた経験があり、つくろい具合で、母親の技術がわかったものである。 「単なる衣類」から「ファッション」へ
1950年代から、中国の衣類のデザインは簡素化に向かう。50、60年代には、女性はレーニン服(旧ソ連スタイル)、男性は中山服(人民服)を着た。ほとんど他のデザインがなかったのだから無理もない。 60年代後半から70年代半ばにかけては、「文化大革命」の影響で、最も好まれたのは軍服である。すべての人が着たわけではないが、ほとんどすべての服が、軍服を模倣したデザインだった。当時の服は、色も単一的で、グレー、ブルー、グリーンのようなものしかなかった。 性別や年齢差に関わらず、誰もが同じ色とデザインの服を着ていたため、外国人は中国人のことを「青いアリの大群」と呼んでいたと聞く。
「文化大革命」終了後、人々はグレーやブルーの呪縛から徐々に開放されるようになる。70年代半ばには、街でスカートをはいた女性が見られるようになり、しばらくして、ジーンズやパンタロンなどを身につける人も増えた。それらは、当時は「奇怪のきわみ」で、「不良」だと見られたが、人間のおしゃれ心をさえぎることはできず、ますます多くのデザインや色が中国人の生活に入ってくるようになる。 1978年の改革・開放後、衣類の色やデザインが増えただけでなく、自分の好きな服を大胆に選び、求めることが可能になった。「ブルジョアの流儀」などのレッテルを貼られる恐れもなくなる。 80年代初頭には、新しいデザインの服が売り出されるたびに、多くの人がまねをしたため、普及のスピードには目を見張るものがあった。 八〇年代前後に、こんなことがあった。 筆者は牛さんと一緒に買い物に行き、黒地に小さな赤い花柄のあるサラサが好きになった。彼女はじっくり考えて、生地を節約できるよう、一枚の布から二枚のスカートを作ろうと提案した。二人でサラサを買い入れ、彼女が裁縫を担当。その結果、私は半値でスカート一枚を手に入れた。
あの夏、私たちは毎日のように同じスカートをはいて出勤した。このようなことは、当時はめずらしいことではなかったが、いまなら笑いものになってしまうだろう。衣類は個性化し、人との違いを強調するようになっているのだから。 改革・開放後、中国のアパレル市場には大きな変化があった。多くの著名な外国ブランドが中国に進出するとともに、独自のブランドも徐々に誕生している。季節ごとに開催されるアパレルの新デザイン発表会や様々なファッション週間、ファッションショーが、アパレルの流行を牽引する。 大学でアパレルデザインを専攻する優秀な学生が、業界から熱望されるようになる。このような若者は、国内外のデザイナーから新しいものを学び、中国の伝統的な文化的特色もとめどなく掘り下げて、独自のファッションデザインを国際レベルに押し上げている。2003年、中国で生まれた11のブランドが、初めて「中国ファッション」の名義でドイツのアパレル見本市に参加した。中国のアパレルブランドは、国際市場に進出をはじめている。 かつては中国人に知られていなかったファッションモデル業は、急速に中国のT字型のステージの上で発展し、世界にはばたきはじめている。ファッションショーが、庶民がもっとも楽しみにするエンターテインメントの一つにすらなった。都市の広場では、中高年が独自にファッションショーを開いている様子もしばしば目にすることができる。 クローゼットの変化
今日の普通の中国人は、身だしなみをますます重視するようになっている。一着を2、3季連続で着ることはめったになくなった。季節に合わせて衣替えするだけでなく、TPO(時と所と場合)でスーツ、カジュアル、スポーツ、中国風、ワンピースなどを着分け、イブニングやタキシードまでクローゼットに準備している中国人もいる。 服選びでは、人々はファッション性とブランド名を重視するほかに、自分に合う服を選ぶようになっている。年齢、職業、体型、顔の形などのすべてを考慮する。 若者が、デザインや色を重視するとすれば、少し上の世代は、質を第一に考える。 70年代以前、中国人の衣服はほとんどが安い綿製品だった。当時の人々は、ポリエステル繊維にあこがれていた。誰もが綿よりも丈夫でまっすぐと伸び、きれいだと思っていたからだ。いまでは、生地の品種は多すぎて見分けがつかないが、庶民がポリエステル、ナイロン、その他の人造繊維などの服を身につけてみて、最終的にもっとも快適なのは、やはり天然の綿、麻、シルクだと気づいている。
牛さんにはいま、なかなか自分に合った服が手に入らないという悩みがある。市場にあふれる大多数の女性用衣類は、ほとんどが若い女性向けにデザインされたもの。デパートで気に入ったデザインがあっても、往々にしてサイズが合わなかったり、サイズが合っても流行遅れの商品だったりする。 牛さんのような中高年に差しかかった女性は、体型に変化が現れてはいるが、年寄り風にダブダブのファッションをする気はない。やはり、上品に美しいファッションで若々しく見せたいと思っている。 中には体型に合う服もあるが、値段が高すぎる。牛さんは、有名ブランドだからといって、他の衣服の2倍も3倍もするような値段設定には不満がある。倹約家の彼女は、消費観念においては、若者と距離ができてしまった。 ますます服が増えているクローゼットを眺めながら、「まだまだ十分着られる服が多い。穴も傷みもない。ただ、流行遅れになっただけで、着なくなってしまうんだから」と嘆く。そこで彼女は、捨てるには惜しい服を農村に住む親戚や北京に出稼ぎに来ている労働者に譲る。農村の生活は都市ほど発達していないため、貧しい人たちを助けることになるからだ。これなら無駄ではない。 「美しい日々」を織り上げる
かつてよく、「女の子は針仕事ができなければ、お嫁にも行けない」と言われた。これは、いまの女の子には鼻先であしらわれるだろう。ずっと前に、針仕事の能力と、嫁に行けるかどうかは、関連性がなくなっているからだ。しかし、もし器用で働き者なら、日々の暮らしがより良いものになるのは間違いない。 私が子どもの頃には、母親がセーターの編み方の手ほどきをしてくれた。しかし辛抱強くなかったので、しばしば途中で放棄してしまい、今でもレベルは低いままだ。牛さんは違う。すばらしい腕前があるため、当時、少なくない難題を解決できた。 いま、自分でセーターを編む人はますます少なくなっている。しかし、クローゼットのセーターは逆に増えている。多くの主婦が、秋になるたびに商店で新しいセーターを手に入れるからだ。最近のセーターは安く、デザインが多く、手編みよりも精巧で、時間と体力を節約できるのだから、歓迎されて当然かもしれない。 牛さんも、買ってきたセーターは自分が編んだものより精巧だと認めていて、ふだん自分が着るセーターも買ってきたものだ。しかし夜になると、セーターを編みながらテレビを見るのが好きで、何もしないと落ち着かないほどだという。
多くの女性にとって、編物や裁縫の技術は、趣味でもある。生活が豊かになったあとも、生活に必須の技術ではない手芸が、依然として、生活に彩りを与え続けている。 ここ数年の北京では、「クロスステッチ」の小さなお店が若い女性に人気だ。店では各種の布、針、糸、それに図案を提供し、顧客は自分の好みに合わせて各種図案をリュックサック、カーテン、クッション、テーブルクロス、装飾画などに縫い付ける。多くの若い女性は、服やセーターを作ることはできなくなったが、暇つぶしになり、芸術的な「針仕事」であるクロスステッチが気に入っている。 「美しい日々」は、彼女たちの一本の針と糸で徐々に織り込まれていく。(2004年5月号より) |
▽中華全国商業情報センターの統計によると、2003年11月までに、全国の重点大型小売り企業のアパレル商品販売総額は358億2000万元となり、各種アパレル商品は計1億8644万着売れた。 ▽税関の統計によると、2003年1〜11月、中国のアパレル関連商品の輸出総額は469億3000万米ドルだった。同種の商品輸出の主な貿易パートナーは、日本、香港、アメリカがベスト3である。 ▽中国服装協会の2002年末の調査によると、中国の機織りアパレル企業は4万9600社、就業者数は410万人、機織りアパレルの生産能力は140億着で、すでに完全な工業体系を作りあげている。 ▽1950年、中国全国の衣類生産総数は5600万着でしかなかったが、78年には6億7000万着に増え、2000年には117億着になった。 ▽中国は1950年代から布の購入券による生地の販売制限が始まった。全国の綿布生産量は、77年になってようやく100億メートルを突破し、82年でも150億メートルにすぎなかった。購入券制が83年12月に取り消されて以降、すべての紡績品が自由に公売されるようになった。 |
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