劉燕生さんは、「自宅でのんびりと映画を観る感覚は、映画館で観る感覚とはまるで違う」と話す

 コンピューターゲーム業界は、常に激しい競争にさらされている。30歳でゲームの営業担当の劉燕生さんは、ビジネス上の成功だけでなく、将来の生活の基礎を打ち立てることを目標にしている。緊張の一日を終え、リラックスするのに最適な場所は、自宅のリビングである。

 約30平米のリビングには、ホームシアター(中国語では「家庭影院」。日本とは違い、大画面テレビをスクリーンに代用することが多い)の設備と、34インチのカラーテレビが置かれている。自宅で本格的な映画や音楽を楽しむために、3年前に部屋と一緒に手に入れた。

 ホームシアターに、大画面テレビとスピーカーはどちらも欠かせない。書棚には映画とゲームを中心としたビデオCDやDVDがところ狭しと並ぶ。劉さんにとってゲームは仕事であり楽しみでもあるが、映画は純粋な趣味だ。

変わる映画満喫法

北京東方新世紀影院は、現代化された映画館で、6つのホールがある

 テレビが中国人の生活に入ってくる前には、映画が最も重要な娯楽だった。ただ当時の映画館は、いまとはだいぶ勝手が違う。多くの映画館に数百人、中には千人以上を収容できる大ホールがあり、チケットは五分(1分は1元の1%)から2、3角(1角は1元の10分の1)という安さだった。

 大学や政府機関、国有工場などでは、よく夏の夕暮れに、無料屋外映画観賞会が開かれた。誰もが小さな椅子を持ってきて、扇子で蚊を追い払いつつ、映画を観ながら夕涼みをした。あの頃の心温まる感覚を懐かしむ人は多い。

 1960〜70年代の「文化大革命(文革)」の頃には、八つの「模範劇」以外、ほとんど娯楽はなく、映画といえども「贅沢品」だった。

最新設備を備えた映画館。先進的な視聴設備やハリウッド映画の大作が、北京の映画業界の改革や発展を促進している

 その後70年代末から80年代初頭に、古い名作の放映が次第に行われるようになり、地方によっては、『連合艦隊司令長官 山本五十六』『哀愁』『サウンド・オブ・ミュージック』などの外国映画を「内部上映」という名目で観ることができた。当時、中国にも「実生活の反映」、「文革に対する反省」などの政治運動をテーマとした作品が登場して人気を集め、映画観賞が重要な娯楽としての地位を獲得した。

 多くの事業体や企業は、休日に放映される映画のチケットを従業員に無料で配り、福利厚生の一つとしていた。大きな事業体は映画館を借り切ることもあり、放映前のホールは知り合いばかりになったため、誰もが世間話に花を咲かせ、そのにぎやかさといったらなかった。

北京東方新世紀影院が主催した国際映画祭は、大きな注目を集めた

 95年当時、映画ファンは「大片」という新語を覚えた。この北京的な響きのある言葉は、巨額の製作費をつぎ込んだ大作外国映画を指す。中国で上映された最初の「大片」である『逃亡者』から『タイタニック』『ロード・オブ・ザ・リング』まで、ますます多くの良質映画が中国で放映されるようになってきた。中国の映画ファンは、最新映画を最小限の時差で楽しめるようになり、同時に、中国での映画のマーケティングもはじまっている。

 外国映画は魅力的だが、チケットはけっして安くない。2、3角だったものが突如2、30元に値上がりしたことで、観たくてもためらう中高年が増えた。もちろん、手が出ない額ではない。しかし、消費観念の変化について行けず、何年も映画館に足を運ばない人もいる。

1999年に開業した北京楓花園ドライブ・イン・シアター。1台80元で一晩中映画観賞できる

 ただ、映画館に行かないからといって、映画への思いが冷めたわけではない。単に、コンピューターゲームやインターネット、音楽、舞台、旅行など、娯楽の選択幅が増えただけのことである。

 このような競争に直面し、今日の映画館は、大きく変わっている。かつて主流だった数百人ないし千人程度収容の映画館はなくなり、多くに3〜6の小ホールが作られ、各ホールに80〜200前後の座席が設置されている。座席は間隔を広くとり、階段式に改められ、スクリーンを見やすいよう工夫されている。もう、前列の二つの頭の間から覗きみる必要はない。

 北京の映画館には、空気清浄機を設置し、「森林で映画を観る映画館」とうたっているところもある。映写機と視聴設備もだいぶ変わってきた。デジタル映画館、3D映画館、豪華映画館などが増え、北京や広州のような大都市では、かつては映画の中でしか目にできなかったドライブ・イン・シアターも誕生した。優美な自然に囲まれた観賞環境と、自動車という自由な活動手段により、楽しみの幅はますます広がっている。

変化の早い「テレビ時代」

最近の快適で優雅な環境の映画館は、若者に人気

 映画離れに最も大きな影響を与えたのは、実際にはテレビの出現だった。

 大都市の一般家庭にテレビが登場したのは70年代半ば。筆者の家でも76年に最初のテレビを買った。上海製の9インチ白黒テレビだった。家でラジオを聞くことに慣れた私たちは、単なる小さな箱から突然刺激的な世界を目にできるようになり、まるで世界が一瞬にして近づいたように感じたものである。

 最初の数年は、テレビを観るために、テレビのある家に近所中の人が集まった。子どもは「特等席」を占めるために、早くからその家で待っていたものだ。当時は、テレビ画面の大小や粒子の荒れなどを気にする人はいなかった。

劉さんは様々な映像CDを所有している

 81年には、日本のテレビドラマ『姿三四郎』が放映され、多くの人の心を奪った。中国で初めて輸入されたこの外国テレビドラマによって、庶民はドラマが何かを知り、多くの人が夜になるとテレビの前に座る習慣を持つようになった。

 当初の興奮が覚めると、人々はテレビに完全さを求めるようになる。より見やすくするために、画面より若干大きい拡大鏡をテレビの前に置いたこともあった。当時は、青、緑、赤の三色が印刷されたビニール製の透明シートがはやっていて、テレビ画面に貼り付けた。慰めではあるが、これで白黒テレビが「カラーテレビ」に早変わりしたのである。

 80年代以降、テレビが都市で普及し始め、白黒から本当のカラーの時代に入った。そしてテレビは、贅沢品から必需品に変わった。画面はますます大きくなり、29インチや34インチのテレビは言うまでもなく、多くの人が、40〜50インチのプロジェクションテレビを買う。

 テレビのデザインもますます豊富になった。画面は球面、平面などがあり、ブラウン管は真空管から液晶、プラズマなどに進化し、さらに最先端のプロジェクションテレビも登場、映画との差がどんどん縮まっている。

 テレビ番組も、かつてのように夕方に数番組が流れるだけという状況ではなくなった。朝から晩までひっきりなしに番組が流れ、衛星技術の応用で、チャンネル数も数十まで増えている。

 しかし劉燕生さんが毎日観るのはニュース番組だけだという。「小さい頃には小さな白黒テレビしかなく、チャンネルは少なく、チャンネルを変えるにもテレビの前でボタンを押さなければならなかった。それでも当時、テレビを観る時間が一日で一番楽しかった。しかし今では、テレビに興味を持てなくなった。3メートルも離れたソファーにのんびり座りながら、リモコンを持って、数十のチャンネルを順番に見ることができるが、それでも何を見たらいいかわからない。結局、DVDを観るか、テレビを消してインターネット接続をすることになる」

充実するコンテンツ

電子音楽・映像出版物の増加、特に各種の国内外の映画、テレビドラマのDVDの誕生は、庶民の娯楽の幅を広げた

 劉さんは、小さい頃からの映画好きだが、いまではほとんど映画館には行かない。時間がないのが主な理由だ。極上の作品でなければ、映画館で観る価値はないと思っている。DVDを買ってきて、自宅で繰り返し見ることも、一つ楽しみである。

 近年、中国人の住環境は大きく改善した。面積が広くなっただけでなく、部屋の防音効果も高まった。多くの人は、自宅のリビングに音響設備を置き、友達が来れば一緒に映画やテレビを観て、カラオケを歌う。立派であるだけでなく、楽しい雰囲気を演出できる。音楽マニアともなれば、自宅に専門設備を添えつけ、特別仕様の防音ルームを作ることもある。

アカデミー賞5部門でノミネートされたアメリカ映画『コールド・マウンテン』が北京東方新世紀影院で行った出演者と観客の対面会。輸入映画の放映初日のこのようなイベントは初めてだった(写真提供=北京東方新世紀影院)

 劉さんが買ったホームシアターの設備は、1万元以上を掛けてそろえた。彼に言わせれば、大した設備ではなく、本当のマニアにとっては、「入門段階」という。一般家庭には、ホームシアター用の大小様々なスピーカーはないが、テレビ、ビデオCDやDVD(映像CD)のプレーヤーはそろっている。

 こんなプレーヤーがあれば、休日を快適に過ごすことができる。映画だけでなく、お年寄りは伝統の戯曲、子どもはアニメーションを選べばよく、せっかちで、テレビドラマを一回ずつ見ていては待ちきれない人などは、映像CDを買ってきて、連続で見てしまうこともできる。堪能することが目的なのだから。

 そのため今では、大量の作品源が必要になっている。市場の需要に応じて、CDや映像CDの専門店も次第に都市のあちこちに広がった。同時に、街角や自由市場の隅などではよく、古いダンボール箱に色とりどりの映像CDを入れている売り子がいる。これは、こっそりと海賊版を売る違法行為のため、市場の管理人などの姿が見えると、すぐに逃げていなくなる。

デジタルテレビの誕生は、中国のテレビ業界の発展を促進した。中国では2004年、ケーブル放送から模擬的なデジタル放送への転換を全面的にスタートさせた

 海賊版を買う人がいるからこそ、売り子が存在する。買い手は正規版よりも少し安い値段で手に入れたいために買う。このような状況は、中国が現在、計画経済から市場経済への転換期にあり、庶民の法律意識が低く、知的所有権の関連法律や市場の公平な競争の規定に対する理解が不足しているから生まれている。

 国家版権局によると、96〜2003年までに、中国税関が取り締まった海賊版CD類は3億枚以上になる。96年からこれまで、中国政府はすでに、182本の海賊版生産ラインを取り締まった。しかし、すべてのラインが外国からの密輸品であり、中国にはまだ、このような設備を生産するノウハウはない。

北京超音波音響花園は、音響設備や視聴設備の国際ブランドを扱う専門店で、業界関係者やマニアが常客となっている

 この種の知的所有権侵害は、明らかに、中国経済の発展、特に音楽・映像、出版、映画業界に多大な損失を与えている。また、中国のイメージを著しく損ねている。そのため、政府は数年来、一貫して密輸や海賊版の取り締まりの努力を続けていて、知的所有権保護の宣伝を強化し、音楽・映像製品の市場を規範化しようと努めている。

 いまでは、専門店で正規版CD類を購入できるだけでなく、一定規模の書店には音楽・映像の専門コーナーが設置され、各種商品を販売している。品揃えは豊富で、歴史的な名作だけでなく、最新映画、人気のテレビドラマ、演劇、地方演芸などの映像CDもある。料理、手芸、太極拳、ヨガなどの教材CDは実用的で、何でもそろっている。ホームシアターの人気は、今後も年齢を問わず高まっていくに違いない。(2004年7月号より)




▽北京で最も古い映画放映の記録は1902年。外国人が持ち込んだものだった。

▽1907年、北京に「平安電影公司」という専門の映画放映所が誕生。外国人が経営し、チケットは極端に高価だったため、一般市民とは縁がなかった。

▽1918年、北京大学法律学部の学生・羅明佑は、外国人による映画独占の局面を打ち破るため、「真観影戯院」を設立した。現在の「中国児童劇場」である。

▽1949年には、北京の映画館は26軒だったが、いまでは70軒をこえた。

▽1958年、中国初の白黒テレビが誕生。天津721廠製造の「北京ブランド」の14インチ白黒テレビだった。1970年には同廠で中国初のカラーテレビが誕生。

▽1978年、日本から上海電視機廠(いまの上海広電グループ)が中国初のカラーテレビ生産ラインを導入。「金星ブランド」のカラーテレビを生産。