美しい水郷

自分の木舟に各地からきた観光客を乗せ、水郷の遊覧を案内する「船娘」の呂美玲さん

 呂美玲さん(52歳)は、各地からやってきた観光客を木舟に乗せて水郷・周荘の遊覧を案内する「船娘」(女性の船頭さん)だ。周荘に住んで数十年になるので、ここのすべての川、すべての石橋を熟知している。たくさんの人が自分の故郷を気に入ってくれるのを見ると、心の底からうれしいという。

 周荘は江蘇省蘇州市の近くに位置し、900年の歴史を誇る水郷の古鎮だ。四方を水に囲まれているため、「咫尺(短距離)の往来、皆舟楫(舟)を要す」という自然環境にある。また、川や湖に隔てられているため、歴代の戦火や戦乱を免れ、水郷の古い建築様式が完全に保存されている。小さな橋や水の流れ、家屋などが昔の面影を伝え、窮屈で騒々しい生活を送る都市の人々にとって、あこがれの場所である。毎日、国内外からたくさんの観光客が訪れ、江南水郷(長江下流以南の地区)の詩歌や絵画のような世界に酔いしれる。

4世代が一緒に住む呂美玲さん一家

 呂さんによると、周荘の生活がよくなってきたのは、十数年前からだという。彼女は周荘鎮東浜村に住む農民だ。かつては3ムー(1ムーは6.667アール)余りの水田を請け負っていた。当時、田植えや稲刈り、草刈り、養豚が村人たちの日常の仕事だった。

 水郷では川が道となる。舟は各家庭にとって欠かすことができない交通・輸送手段だ。「13歳ごろにはもう舟を漕いでいたわ。刈った稲や草を舟で運ぶ必要があったからね」と呂さんは話す。そのころ、周荘の人々は苦労して働いても、収入が少なかった。「暮らしが苦しかったから、女の子は学校に通えなかったのよ」。呂さんはそう言って、読み書きができないのは仕方ないことだと考えている。しかし、学校に通ったことがないため、共通語も上手に話せない。周荘の「船娘」として、観光客とより深く交流できないことはとても残念だという。

観光業の発展

呂美玲さんの娘の石鳳娟さん(中央)は、高校を卒業した後、周荘のガイドとなった

 1980年代、周荘の苦しくて貧しい暮らしに変化が起こった。改革開放の初期、衣料品や革製品、シルク製品などを生産するいくつかの郷鎮企業が設立され、農民たちはそこでお金を稼ぐことができるようになったのだ。

 呂美玲さんの夫も建築会社で大工仕事をした。暮らしにゆとりができたため、呂さんは娘を高校までやって、きちんと卒業させた。また、90年には4万元で2階建ての家を建てた。当時、農業のかたわら、古鎮を訪れる観光客を三輪車に乗せて遊覧する副業もしていた。

 周荘の名声は日に日に高まり、観光客が増えた一方、問題も出てきた。観光客が酔いしれたのは水郷の清らかで古風な美である。しかし、当地の農民たちに実益をもたらした郷鎮企業により、汚染が進み、環境が破壊された。

 故郷の美しさを保護し将来性のある観光業を発展させるため、当地の政府は、郷鎮企業の操業を停止・廃止した。そして大量の資金を投入して古鎮のインフラを整え、同時に旅行会社を設立して観光業の健全な発展を推進した。

石さん一家は2階の部屋に住んでいる

 呂さんも当地のほかの農民と同じく、完全に農業から離れ、周荘の観光サービス業に従事している。子どものころの野良仕事で培った能力「舟漕ぎ」が思いがけず役に立ち、現在の仕事となった。 

 呂さんは1993年、4000元をはたいて一艘の木舟を購入した。そして、旅行会社の統一的な管理のもと、順番に従って観光客を乗せている。この仕事で得る収入は、1年で3万元だ。

 呂さんの家は4世代が同居している。最高齢者は70代の舅姑で、一番下は4歳になる呂さんの孫だ。当地の政府は土地を失った農民たちに対して補助を行っており、舅姑には毎月それぞれ200元余りの補助金がある。夫は勤めていた会社から退職金をもらっているし、旅行会社で働く娘と娘婿の収入も悪くない。一家の暮らしは、かつてに比べるととても楽になった。

 周荘の川を行き交う木舟の形、色はどれも似通っている。「船娘」たちもみな、青いサラサの衣装に身を包んでいる。これは彼女たちの仕事着で、旅行会社が規範と美観を考慮して統一的に作ったものだ。彼女たちは慣れた手つきで木舟を漕いで川を行ったり来たりする。観光客を喜ばせるために、方言を用いた民謡を歌う「船娘」もいる。よく観察すると、「船娘」のほとんどは中年の女性だ。「今の若い娘たちが舟を漕げると思うかい? 彼女たちには必要ないよ。うちの娘だってできないさ」と呂さんは笑いながら話す。

仕事を終えて家に戻ったあと、食事の支度をする石さん

 娘の石鳳娟さんは現在27歳。高校を卒業後、周荘の旅行会社でガイドをしている。彼女の夫は同じ会社の管理者だ。石さんは「実は、私も舟を漕ぐことはできるのですよ。ただ、母のように上手ではありませんが」と話す。

 ガイドの仕事はとても忙しい。時には、1日に3、4回、観光客を案内する。昼食はほとんど外ですませる。4歳の息子を幼稚園に預けているが、夜、お迎えに行くのを母親の呂さんにお願いすることもしばしばだ。「私たち夫婦の月給は、合わせて5000〜6000元になります。十分ですよ。都市部の人々の生活とあまり変わらないのです」と石さんは言う。

生活の変化

 確かに、呂美玲さんの家は、内装や家具から日用品にいたるまで、都市部の住民の家とほとんど変わりはない。異なるのは、台所にはレンジフードがついたガスレンジ、それに電気炊飯器や電子レンジまであるのだが、レンガづくりのかまどを今でも使っていることだ。

 「炒め物はガスレンジを使ったほうが速くておいしいのだけど、ご飯を炊いたりお肉を調理したりするのは、やはりかまどを使うね。ガスで調理するよりおいしい気がするんだよ。特に、「蹄膀」(豚のスネの部分)を調理するときは、弱火でゆっくりと1日かけて煮込まなければならないから、かまどを使ったほうがよりおいしくできあがるよ」と呂さんは話す。

 周荘の人々はかつて、「蹄膀」をめったに口にすることができなかった。新年や祭日、または大切なお客さんが来たときだけ、食べられた。しかし今は違う。家庭でいつでも作ることができるばかりか、この地のみやげ物ともなっている。万三食品という当地の食品メーカーが作る真空パックの「万三蹄膀」は非常に人気が高く、年間120万個を売り上げるという。

孫と一緒に遊ぶ呂さん。一番楽しいひとときだ

 呂さんの「船娘」の仕事は、一週間に3〜4日やればいいので、それ以外の時間は家事をしている。毎朝早く、朝市で野菜を買う前に、公園へ行って体を鍛える。「たくさんの人が公園へやって来るよ。あそこには体を鍛える簡単な器械があるからね。中高年の人たちは毎日やって来て運動しているから、顔なじみとおしゃべりするのさ」と呂さんは話す。

 自宅のベランダには、布靴を作るための「ゴーベイ」が干してある。「ゴーベイ」とは、ぼろ切れを糊で幾重にも厚く張り固めたもので、伝統的な布靴はこれを刺し子縫いにして靴底とする。都市ではあまり見かけなくなった。呂さんは笑いながら、「ここの人々は家で作った布靴を履く習慣があったんだけど、若者たちは好まないね。私は孫と自分の分を作るつもりだよ。幼い子どもにとって布靴は履き心地がいいのよ。転びにくくもなるしね」と話す。

 呂さんが今、一番気にかけていることは孫のことだ。孫にはしっかり勉強してもらい、お父さんやお母さんよりできる子になって欲しいと願っている。

 周荘の人々の生活は変化の最中にある。しかし、古き良き周荘の生活の一シーンや伝統的な技術は、旧市街地に保存されている。鍛冶屋、酒蔵、老虎竈(大きい湯沸かしかまど)そして機織女、竹編み職人などは、かつての暮らしを今に残し、語り継いでいる。彼らは呂さんと同じように、今日の周荘を構成する一部分なのだ。(2006年3月号より)


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双橋
 水郷の橋は非常に味わいがある。周荘には、元、明、清の時代に建設された石橋14本が今でも残されている。「双橋」は、その中でも特に有名な橋。もとの名を「鑰匙橋」(鍵の橋)といい、拱橋(アーチ形の橋)とけた橋(橋げたを水平に架け渡し、橋台と橋脚で支えた橋)で構成されている。2つの橋は鉤形に架けられ、橋の下の空洞が片方は四角く片方は丸いため、昔使っていた鍵に似ていることから、「鑰匙橋」と呼ばれた。

 1984年、米国留学中の中国人青年画家・陳逸飛は、「双橋」を題材として油絵『メモリー・オブ・ホームタウン』を描いた。この絵は、米オクシデンタル石油のアーマンド・ハマー社長の画廊に展示され、大きな反響を呼んだ。そして同年11月、ハマー社長は中国を訪れた際、この絵をオヒ小平に進呈した。

万三蹄膀
 周荘の商店にはすべて、「万三蹄膀」の看板がある。伝えられているところによると、元代末から明代初期の富豪・沈万三が婿をとる際、18個の「紅焼蹄膀」(蹄膀のしょう油煮込み)をもって媒酌人に感謝の意を表したことから、「蹄膀」は周荘で大切な客を接待するときや婚礼のメーンディッシュとなった。

家庭の収入
 周荘の人口は現在、3万人近く。労働人口の65%が観光業と関係のある仕事に携わっている。「船娘」やガイドのほか、小さな商店や民宿を開いたり、食品加工や運送を行ったりすることで、人々は豊かになった。多くの家庭が年収10万元以上。

周荘は江南の有名な水郷だ

 
本社:中国北京西城区車公荘大街3号
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