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粗末な小屋を持つ鋼鉄製のはしけ船が10数艘、蘇州河の河面を走っていた。高さ468メートルの東方明珠テレビタワーから見下ろすと、1艘1艘がアリかイナゴのように、ひたすら河を進んでいくのだ。それらはあまりにも小さくて、風景画においては、ただの点を思わせた。船首に現れる白い波しぶきだけが、その進行方向をハッキリと示していた。
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大上海の河流をのんびりと行く小船。一体どこへ向かうのだろうか? |
多くの人の眼には、それらは船として映るだけだろう。しかし、だれが知るだろうか? 船それぞれに一つずつの家が――蘇州河を漂泊する家があるということを。
身を刺すような寒風が吹きすさぶ夜、その中の一家を訪ねた。主人の名は、趙軍さん。今年28歳になる。3年前、江蘇省建湖県からやって来た当時はまだ独身で、蘇州河で運搬業にあたる父を手伝っていた。その後、今から2年前に結婚した際、父から船をゆずり受けた。趙軍さんは船主になった。水上生活者はそれを「家」とも言う。彼は一家の主になった。
趙軍さんに会った時、日はとっぷりと暮れていた。彼は黒く波打つ蘇州河の河辺に立っていたが、その向こうには、やはり暗闇に覆われたはしけ船が、いっぱいに停泊していた。いくつかの船室からは、温かな黄色い光が漏れていた。
趙軍さんは、ホカ弁が数個入ったビニール袋を手に提げて、すまなそうにこう言った。「あなたたちからの電話が遅かったので、ごちそうが用意できなかったんですよ」
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往来の絶えない蘇州河のはしけ船 |
ここは、上海市東北部の蘇州河の支流だ。私たちは趙軍さんに従って、河岸をつたい、浮き橋(多くの船を浮かべ、その上に板を渡した橋)の踏み板を渡っていった。一つの船を越えると、また一つの船を越えた。つまり、水上生活者の家々を越えていったのである。
趙軍さんの船は、最も端に停泊していた。はしけ船には、河底の土砂がうずたかく積載されており、蘇州河特有の臭気を放っていた。この半年来、彼は蘇州河水域を往復しては土砂を運んだ。土砂をすくい、積載したはしけ船は、それを再び桟橋まで運び、大型船へと積み替える。大型船は、さらに長江口(長江が海に注ぎ込む河口)まで行って、土砂を捨てる。こうして、大きな渦潮ができる汽水域(河と海の合流点)を埋めるのである。蘇州河の整備のために、彼の持つ「土砂運搬船」のような船が、ここでは一段と増えていった。
ドン、ドン! 私とカメラマンの頭は、船室の門枠に次々とぶつかってしまった。陸上で暮らすため、船上生活には慣れないからだ。
「さ、さ、どうぞお座りください」。趙軍さんの父・趙春年さんは今年54歳。私たちを呼びながら、船室に二つしかないという四角い腰掛けを、袖できれいに拭いてくれた。
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船人たちは堤防のもと、家族のように親しい近所付き合いをしている |
この船は鋼鉄製で、ディーゼル・エンジン付きのはしけ船だった。重さ約60トン、船体の長さは20メートル以上。船室は低く、電池でつける電灯が一つあるだけだった。8年前、趙さんの父がそれを買い取ったころは、蘇州河におびただしい数の船が往来した「船の黄金時代」であった。父もこの堂々たる運搬船の隊列に参加し、浙江省から赤レンガや黄土をいっぱいに積み込んでは、上海へと運んだ。拍車をかけると、一回で数百元(1元は約15円)から千元もの大金を稼ぐことができたという。
父と子の生活は、こうしてスピーディーに「まずまずの暮らし」になる予定だった。「船を買ったお金は借金でした。それで一日も早く返済し、自分の船にしようと願っていました」。しかし、良い事は長く続かなかった。ここ数年、4、500トン級の大型船も、黄土の運搬を始めた。同一の運賃のため、はしけ船のような小型船は、みるみる蘇州河から締め出されたのである。
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船の上ではあるが、若者は同じように外の世界に関心を持つ |
しかし、新しい転機がまた蘇州河に訪れた。1990年代以来、上海市民や地元政府を問わず、蘇州河の整備や環境改善への要求がグンと高まった。また、上海経済の多年にわたる着実な発展は、蘇州河の整備のための投資の支持をとりつけた。
1996年、上海は開港してからの百年で最大の環境整備プロジェクト――蘇州河環境総合整備プロジェクトをスタート。延々23・8キロにわたる蘇州河の市街区流域は、史上初の大工事現場となった。趙家の船は、幸いにも整備プロジェクトに「徴用」された。
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趙軍さんと項利娟さんは、同郷の集まりで知り合って間もなく結婚した。妻は夫について、岸から船へと移り住んだ |
夜7時、それぞれの船に装備されたディーゼル・エンジンの音が、河辺をとりまく静寂を打ち破った。そばに停泊する何艘かの船にいた人たちが、大きなかけ声をかけた。土砂運搬船は、蘇州河が満潮時になると一斉に出発するのだ。私たちも操縦室に乗り込み、河面の状態を見張る趙さん親子の仕事を手伝ったり、続いて彼らと話したりした。
10年あまり前、趙軍さんの父は江蘇省北部の片いなかで、5ムー(1ムーは約6・67アール)の畑を耕していた。いつか自分が蘇州河の船人となり、生計を立てるとは思いだにしなかったという。現在は、この曲がりくねった河川と一時も離れられない間柄である。それは趙さん親子だけでなく、趙軍さんの妻と、まだ2歳にならない娘も同様だ。妻はもともと上海のある食品工場で働いていたが、結婚後は岸を離れて船へと移った。
蘇州河に、だんだん夜霧が立ちこめてきた。趙軍さんは船室の両側に草木で編んだ防風用のシートを下ろした。すると、5平方メートルにも満たない操縦室が、ダイニングルームになった。
「奥さんもお子さんも、ずっと船の上ですね。長久の計ではないのでしょう?」と聞くと、「やっぱり陸上の家を買いたいですよ。でも、それほど簡単ではないのです」。彼は現在、蘇州河の整備プロジェクトのため土砂を運搬、一カ月に3000元あまりを稼いでいる。しかし、一艘の船で四人家族を養わなければならない。負担が重くのしかかる。
「蘇州河を整備し続けてくれるなら、私にもずっと仕事があるし、稼げるのですが……」。彼はそう、冗談を言って笑った。
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苦しみもあれば楽しみもある水上生活 |
蘇州河には、趙軍さんのような水上生活者が、どのくらいいるのだろうか? 彼らはどこからやって来て、どこへ行くのか? 彼らの未来はどのように発展するのか? 残念ながら地元の各部門に聞いたとしても、その答えを知る者はいない。
趙家に別れを告げて、蘇州河岸に屹立する堤防(コンクリート壁)を越え、潮のように人々が行き交う上海の街に再び戻った。知っている人は、ほとんどいないかもしれない。この高い壁の向こうに、一艘一艘のはしけ船が停泊している。百年来蓄積された、悪臭の漂う黒い土砂を降ろす夜明けを待っている。そして、さらに多くの運送契約と、最終的には漂泊の日々との別れを待っている、ということを……。
(2003年4月号より)
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