蘇州河に生きる
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さようなら 給水ポイント

                 写真陸傑 文・鄭小明

 

 上海の公共給水ポイントは、新中国の成立初期につくられてから半世紀もの歴史をきざんだ。その盛衰のうつりかわりは、上海の都市建設のあしどりをある側面から記録した。

 

給水ポイントの多くは、バラックが並ぶ横町にひっそりと隠れていた。そこには生活の経験と、隣近所の関心が集まっていた(1998年撮影)

 50年前、新中国が成立したばかりのころ、上海のインフラ施設は、ずいぶんと立ち遅れていた。当時上海には、楊樹浦やユ「北、南市、浦東などの地に浄水場があったものの、給水量には制限があり、その施設も不足していた。百万あまりの市民たちに、水道水が行き渡らなかったのである。

 バラック地区における生活用水の問題を解決するため、上海市人民政府は、多数の給水ポイントを市民のために無料で設けた。料金は、水一リットルでわずか七分(分は、元の百分の一)という安さ。それにより、広大なバラック地区の住民たちが、井戸水や河の水を飲む代わりに衛生的な水道水が使用でき、飲めるようになったのだ。解放後の30年間、給水ポイントの数はみるみる増えた。1970年代末には、全市で4490カ所にも達した。

「さようなら、給水ステーション」のプロジェクトは、住民たちに福音をもたらした

 初期の給水ポイントは、バラック地区の中心にあった。そこには大きな貯水池があり、いつでも水が満たされていた。混みあうころには、人々は貯水池からじかに水を汲み上げた。水を汲むとき、並ばなければならない時間をはぶくためだ。

 貯水池には、さらに重要な役割があった。つまり防火用水である。周囲100メートルには消火栓がなく、横町(弄堂)は狭い通りで、消防車が入り込めない。火災のときはその水こそが、数百戸からなる住民の「救命水」になったのである。

 人々はここで毎日、顔を会わせた。それは小さな社会となった。朝早くから、騒がしさで目が覚めたほどだ。顔を洗い、口をすすいで、馬桶(簡易便器)を洗う。その騒がしさや、親しみのあるあいさつの声で、人々の新しい一日がはじまった。日曜祭日の休みには、野菜を洗ったり、洗濯をしたりして、それはにぎやかな場所だった。

給水ポイントの傍らに貼られた住民たちの納金表。これも昔の記憶となった
取り壊される給水ステーションとの最後の別れ(1999年3月撮影)

 人々が世間話に花を咲かせて、ニュースがすぐに伝わった。隠し事のない、透明な環境だった。住民委員会が情報を集め、発表をするセンターにもなった。食糧・生地の配給キップの給付や学習会の開催について、傍らの壁に通知が貼られた。夏には、子どもたちの遊び場となった。桶の水を頭からかぶり、暑さをしのいだ。わんぱく小僧が貯水池の中へ飛び込むと、当然のように近所の人が叱りつけ、親が戒めた。

 現在の中年世代のほとんどは、若いころ、水汲みをした記憶があろう。桶二つをてんびん棒で担いで、数十〜百メートル以上にもなる道のりをせっせと運んだ。毎日通学する前に、自宅の水がめを満たさなければならなかったのだ。

 給水ポイントの数と管理は、年月がたつにつれて変わっていった。初期のころは一般的に、竹ふだを買って水に換えた。住民委員会が管理者を一人配置し、一分のお金で竹ふだ七本、つまり桶七個分の水が買えた。70年代には、給水に管理者を置かず、人々の自主制をうながした。80年代初めになると、市政府は多額の資金を投じて、給水ポイントの多くを屋根つきの部屋で囲った。90年代には、竹ふだもいらなくなった。毎月、家族の人数によって料金が決まり、手間がはぶけて簡単になった。

給水ポイントの標識も、いまや骨董になってしまった

 しかし、給水ポイントでは、現代的な生活ができなかった。洗濯機を買っても使えない。シャワーを取りつけるのは、さらに不可能な「夢」であった。90年代、上海は大規模な「旧市街区の改造」計画をスタートし、住民たちが移転した。給水ポイントも百カ所までに減ってしまった。

給水ポイントで水浴びをして涼をとる。かつてはよく見られた光景だ

 南市は、旧市街区である。上海で最後まで残った給水ポイントの半数が、この地区にあった。古い家屋が密集し、横町はじつに狭かった。上海市水道公司(会社)滬南管線所の従業員が、各家を回り、リサーチをした。一人がやっと通り抜けられるほどの狭い横町を掘りすすめ、水道管を埋め込んだ。やがて多くのハードルを乗り越え、困難を克服して、水道管を各家へと敷設した。

 最後の給水ポイントを取り壊すのが、彼らの仕事の目標だった。住民たちが家庭で水道が使えることが、彼らの仕事の動力だった。そして、住民たちから贈られた謝辞の書かれた赤い紙は、彼らにとって最高の賞状だった。

 半世紀も働いてきた給水ポイント。それを取り壊す機械の音が鳴り響いた。水道管が地下に埋められ、各家の蛇口から水がジャージャーと流れ出た。それは、上海のある歴史物語のフィナーレを予告していた。今日ではただ、給水ポイントの場所を示したホウロウ製の標識だけが、歴史のあかしとなっている。

 さようなら、給水ポイント!(2003年6月号より)