蘇州河に生きる
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老飯店で味わういにしえの大上海

             写真陸傑 文・陳序 朱慧

 
上海大廈の屋上で食事をすると、目の保養になり、口は満足する

 よく保存されたクラシックホテル(老飯店)がこれほど多いのは、おそらく上海だけだろう。納得のいく価格で、憧れの古いホテルに宿泊できるのは、おそらく上海だけだろう。歳月と歴史に刻み込まれた文化の景色は、表面からはうかがい知れず、仔細に味わう必要がある。その深い味わいは、古いホテルの階段の曲がり角にあるかも知れず、ランプの上にあるかも知れない……。

 
浦江飯店 セピア色の豪華な面影

贅を尽くした瑞金賓館の装飾や置物

 上海でタクシーを呼び、「浦江飯店まで」と頼むと、運転手はすぐにも「知ってる、知ってる。外白渡橋(ガーデンブリッジ)の北側にあって、海鴎飯店(シーガルホテル)のはす向かいだね」というだろう。今どきの運転手は知らないかもしれないが、1911年に上海工部局(旧時、官営工事などを司った省庁の一つ)はタクシーの営業許可を出し、市内に四カ所のタクシー乗り場を定めた。その第一号が、浦江飯店(当時のリチャードホテル)であった。

 リチャードホテルは1846年にオープン、1907年に現在地へと移転した。20世紀初め、極東地域では最も豪華でぜいたくなホテルであった。1897年11月5日、慈禧太后(西太后)の誕生日を祝うため、リチャードホテルのバーで盛大な舞踏会が開かれた。それは中国人と西洋人による、上海の開港以来初めての洋式舞踏会だった。

浦江飯店の四階建てのガラス張りの天井と階下をながめる

 中庭には高さ四階ほどのガラス張りの天井がある。その上層階から見おろせば、両側の壁には以前、ここに宿泊した世界的な有名人――アインシュタインやチャップリンなどの写真が掛けられていた。

 1950年代、リチャードホテルは浦江飯店と改称した。今はもう、贅をつくした当時の面影は色あせているが、いくつも連なるアーチ型の門、階段の曲がり角にある巨大なステンドグラス、木目の浮かんだ床板などからも、いにしえのネオ・バロック様式の装飾と、紳士淑女がゆったりとくつろぐ姿が想像できよう。

 浦江飯店は今、世界中から来る観光客の宿泊先となっている。4〜5人用ルームやドミトリールームを提供してから、留学生やバックパッカーがここの重要な顧客源となっている。好奇心旺盛な若者であれば、一日数十〜数百元でかつての栄華を味わうことができるだろう。

上海大厦 浦東とバンドが織り成す

浦江飯店は留学生やバッグパッカーのためにドミトリーを用意している

 外白渡橋の北側、蘇州河と黄浦江の合流点にたたずむ上海大廈(元のブロードウェイ・マンション)は、昔ながらの外灘(バンド)と活力のある現代的な浦東という、この都市で最もよく知られる風景を静かにながめている。246もの客室から異なる景色が楽しめる上海大厦は六十数年来、この一帯の盛衰と新たな復興を目の当たりにしてきた。

 ブロードウェイ・マンションは1930年、イギリスのある不動産会社が白銀500万両を投資し、上海不動産会社の外国人トップデザイナーが設計。1950年代までの極東地域では「現代的な高層建築の経典」と称えられた。

 当時の先進的な建築技術と、中国の建築会社六社の労働者たちの努力にもよるが、その21階という高さと、骨組みが総鋼鉄のものより三分の一の軽さとなったアルミ合金の局部採用は、落成時の誇りとなった。

外白渡橋から上海大廈を見上げる

 外灘の尊い景色をながめるブロードウェイ・マンションは、ときの風雲児たちや各界名士の寵愛を受けた。1934〜39年当時は、上海の欧米系商社の支配人、ハイクラスのビジネスマン、新聞業界の巨頭たちがこのホテルの常連客だった。友邦銀行の支配人や美亜保険会社の支配人らが17、8階に長期滞在し、匯豊銀行、怡和銀行、電力会社のハイクラスのビジネスマンが、ホテル両翼のマンションと客室に宿泊していた。

浦江飯店は留学生やバッグパッカーのためにドミトリーを用意している

 1951年5月1日、ブロードウェイ・マンションは新しい名前――上海大厦に改名した。その南に開かれた両翼と、質素で地味な褐色レンガの表面は、上海人が持つひかえめな価値観と、開放的で自由な心がピッタリ符合するかのようだ。

 ケ小平氏は、各年代にこのホテルに宿泊している。植民地文化が烙印された外灘と、かつては一面の農地であった浦東に目を向けたとき、彼にどんなインスピレーションがわいたのだろうか?

 1999年10月1日、中国建国五十周年の国慶節は、上海大厦の浦東を望む客室とバルコニーを持つバンケット・ルームが、早くも予約でいっぱいになった。上海人と外国人が、そこでいっしょに盛大な打ち上げ花火を観賞したのである。

瑞金賓館 貴族化した人生景観

 初めて瑞金賓館を訪れた人は、ロビーやフロントがなかなか見つからないだろう。それは、「瑞金二路」という通りに面した庭園式の別荘群だ。広大な庭園の中に、四階までの新しい別荘や古い洋館が12、3館、たたずんでいる。いったいどれが本館なのか、しばらくハッキリしないだろう。

 老上海人の目には、瑞金賓館はクラシカルな庭園住宅の代表として映る。それは、イギリスの富豪ヘンリー・モリスが1920年代に建設した「モリス庭園」と、40年代に上海を風靡した「三井ガーデン」から構成されたものだ。瑞金賓館と改称されたのは、新中国成立以後のことである。

 小川に懸かる小さな橋や庭の回廊、じゅうたんのような緑の芝生……。4万8960平方メートルの広大な敷地には、イギリス風、日本風、現代風に分かれてそれぞれ独立した三カ所のガーデンと、それに見合った別荘式の住宅が置かれ、それが敷地の九割近くを占めている。今の上海では、これに匹敵するガーデン式のホテルを探すのは難しい。歩くたび景色の変化が楽しめるよう、工夫されているのであった。

庭園つき別荘風の瑞金賓館

 客室は70室と少なく、この広い庭園には相反するのだが、一歩中へ入ると、そのわけがすぐにわかるだろう。60平方メートルの広い寝室と応接室、円卓を置いて景観が楽しめるバルコニー、広い階段と玄関、反響が聞こえる広々とした廊下は、贅を尽くした豪華さである。また、ここは骨董ワールドでもある。洋式のクラシック建築の中には、いたるところ中国式の骨董文物がある。

 そうした文化の魅力によって、瑞金賓館はヨーロッパからの多くの客を引きつけてきた。彼らは、東方に根づいた洋風建築にとくに興味があるようだ。その上品で美しい貴族的な雰囲気は、さらに日本のビジネスマンや観光客を引きつけている。数年前には二人の香港女性が訪れ、1203号室を指定した。しかし、それは香港スターの張国栄が映画の撮影でここに滞在したからで、宋美齢女史が宿泊した部屋とは知らなかったようである。

和平飯店 上海人の海上の夢

 1929年、上海の外灘には、すでに数多くの瀟洒なビルが建てられていた。しかし、和平飯店(当時のサッスーン・ハウス)の落成は、やはり大きなセンセーションを巻き起こした。この13階建て、高さ77メートルの花崗岩で作られたビルは、当時「極東地域で最も高いビル」と称された。

 その後は「和平飯店」と改名されたが、今なお外灘では一番の高さを誇り、外灘のそれぞれ風格の異なる二十あまりのビルと、一種独特の風景を形作っている。

飯店イギリス式バーで有名なオールドジャズバンド

 ほとんどの上海人は、和平飯店が上海で最もよいホテルだと思っているだろう。1992年、和平飯店は国際ホテル組織による「世界の名ホテル」の国内唯一のホテルとして評価された。それは、すばらしいしつらえだけでなく、このクラシックホテルの輝かしい歴史に対する表彰であり、称賛であった。長年来、このホテルには多くの世界の著名人が出入りした。バーナード・ショー、チャップリン、宋慶齢、魯迅など……。

 和平飯店のイギリス式バーには、有名なオールドジャズバンドが控えている。バンドのメンバーたちは、1940年代からここで演奏していたが、後の政治運動により、サックスやドラムから離れざるを得なかった。改革・開放後の80年、彼らは再びバーに請われて戻り、かつての楽曲を演奏した。現在、この平均年齢75歳を超える老ジャズメンは、上海の外灘で最もノスタルジックで、最もモダンな一つの伝奇となっている。

 ※上海のクラシックホテルは、今月号の「上海スクランブル」でもご紹介しています。(2003年7月号より)