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住民移転がもたらすもの 九七年末の統計によると、水没線以下に住んでいて、それより高地へ移住する人々は二十二万人。ほかに、水没線以上の別の地方につくられた新築区に移る人が十一万人に上る。 三峡ダム建設が始まる前に、中国ではすでに新安江、三門峡、丹江口などの大型ダム建設が行われた。移住者総数は二十万から三十万人。しかし資金のほとんどがダム建設費用にあてられ、彼らへの配慮はわずかなものだった。だからよく「ピカピカの建設、ボロボロの移住区」といわれたものだ。彼らの生活水準が移住後に向上するどころか悪くなったために、郷里へ戻る人の数も増大した。このため八五年以降は、それまでの大規模な移住についての考え方が見直され、建設と住民移転は同等に重視されるようになった。 水没線以下から高地への移住のメリットは、費用が多くかからないことだ。また郷土を離れたくない農民たちの理解を得るにも都合がよかった。しかしこれは、移住先の森林を乱伐し、山地を開いて畑にする環境への悪影響が出るため、積極的には進められなかった。 一方、ダム建設と生態環境の関係は、どのように考えられているか? ダム地区の生態環境は、ダムの寿命に直接影響を与えるばかりでなく、長江中・下流域の持続的な発展問題にも大きくかかわっている。三峡ダム周辺の山地は険しくて、人は多いが土地は少ない。そのため農民の密集耕作が、すでにこの地の生態環境を脅かすところまできている。この地区に占める森林面積は五〇年代の二六%から一七%にまで激減し、樹木がほとんど育たない痩せた土地になってしまった。専門家の分析によると、ここの生態環境はかなり悪化しており、森林―灌木―草地―岩山へとどんどん退化していく方向だという。 統計によると、ダム地区の土地総面積は二万千六百六十七平方キロで、土砂の流失問題が現れている土地が六二%を占める。そのうち土砂の流失がもっともひどい場所が三〇%以上。三峡ダム地区の土砂流出量は年平均一億五千五百万トンで、そこから長江に流れ出す土砂は四千万トンほどになる。三峡ダムが建設される流域はこれまでにも土砂流出量の最多地区となっていた。さらにこの地区は地質条件が複雑で、毎年増水期になると山崩れや土石流などの自然災害がよく起こっていた。それは人々の生命や財産に、大きな脅威を与えるものだった。このため、土砂流出を防ぎ、両岸に青々とした緑をよみがえらす三峡ダムプロジェクトは、早期に議事にかけられた。二十世紀最大の水害といわれた九八年の大洪水では、それらのマイナス面が浮き彫りにされ、三峡ダム建設の重要性が再確認されたのである。 生態環境を保護し、計画通りに建設を進めるために、国務院三峡工程建設委員会はダム地区の住民を二〇〇〇年八月から移転させることを決めた。計画は、移住者に補償金を支払うだけでなく、これまでの財産を保障した上で、移住後の暮らしの発展についても重視したのが特長だ。 同委員会の張宝欣移民局副局長は、この新しい政策を「発展的な住民移転政策」と呼んでいる。その趣旨は「移住ができ、新しい耕地や仕事があり、安住することができる。さらに経済も比較的発展した移住先で、先進的な生産技術と管理技能を学ぶことによって、徐々に豊かになることができる」というものだ。 移住先は、そのほとんどが沿海部の経済発展地区だ。たとえば上海市、広東省、福建省などで、これらはみな中国の改革・開放の窓口と見なされている。 国務院三峡工程建設委員会の郭樹言副主任が、移住者の補償について説明してくれた。「一人あたりの補償金は約三万元。その中の一万七千元は移住先の政府に振り分け、移住者の農業生産の準備やインフラ整備、および移住に伴う運搬費用などにあてます。移住者に直接発給するのは一万三千元。水没する住宅の敷地や質がそれぞれ異なりますから、一人ひとりの補償額は完全には一致しないのです」 さらに郭副主任は「移住者のインフラ整備費は、移住先の道路、電気、水道などの改善に役立つし、生産準備費は移住先の資源開発にあてることができる。生産能力と生活の条件がみるみる改善されることを、彼らはその目で直接確かめることができるのです」と力説するのだった。 第一次の移住先となった安サユ省長豊県と上海市崇明県、広東省博羅県の政府は、移住者のためにそれぞれ住宅を新築し、ベッドやテーブル、椅子などの家具やキッチン用具、さらには耕地を平等に分配した。また彼らへの貸付金は無利子にし、その子どもたちには、小・中・高校の学費と雑費を減額するなどの優遇措置をとった。 国としては、ダムの水力発電が開始される二〇〇三年以降は毎年、電力収入のうちの一部を移住者の生活支援にあてる方針だ。
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「家に着きましたよ!」 移住者の最多地区・重慶市雲陽県の人々が、上海市崇明県まで移動すること二千百キロ。百五十世帯六百三十九人を乗せた客船「江渝九号」は、長江を東へと下り、四日目にしてようやく崇明島南門港埠頭に到着した。河岸にはそれを歓迎する人たちが大勢詰めかけ、客船が到着すると同時に一斉にドラや太鼓、爆竹の音が鳴り響いて、たいそうな賑わいだった。移住者たちは、思いもよらない盛大な歓迎ぶりに、じわりと胸が熱くなるのを覚えていた。 客船から降り、崇明の土地をまず踏みしめたのは、雲陽県南渓鎮の小柄な中年男性・徐継波さん。彼は郷里のガジュマルの苗木を新居前に植えようと、庭先から掘り起こし鉢植えにして持ってきた。先祖伝来の家宝のようなガジュマルの苗木を、どうしても捨て去ることができなかったのだ。 「老郷、家に着きましたよ!」と徐継波さんの肩に手を当て、遠来の移住者を温かく出迎えたのは、崇明県の陸鳴副県長だ。「老郷」という言葉は、もともとは同郷人同士の親しみを込めた呼び方なのだが、ここでは地元の人たちが親愛の情を込めてそう呼んだのだ。 崇明県はこの時から、徐継波さんたちの第二の故郷になった。中国には「賓至如帰」(心温かな接待に、客が自分の家に帰ったような安らぎを覚えること)という四字熟語があるが、徐さんたちは崇明県に着くなり、まさに帰郷したかのような歓迎を受けたのだった。 地元の人たちはつぎつぎと、新しい「老郷」の荷物運びを手伝った。大きなものは衣装ダンスから、小さなものは野菜の種まで……。また猫、犬、ウサギなども主人に連れられ、九十時間の長旅をした客船を降りて新居に入った。 そのあまりの賑やかさに、陳代福さん(六八)が連れてきた二匹の子犬がワンワンとほえ始めた。旅の間は二匹とも竹かごの中でぐっすり眠っていたのだが、見慣れない土地を見て不安になったのだ。陳さん夫婦と二人の息子の家族、同郷の張林さん一家の新居は、崇明県の中心部から二十キロほど離れた港西鎮湾北村にあった。新築された住宅は二階建てが四棟。通りに面してそびえたつかのように美しく、ひときわ人の目を引いた。 住民となる四家族は新居に入った途端、驚きのあまり声を失った。床面積はそれぞれ少なくとも百五十平方b。部屋五室にバスルームが二間ある新式の間取りで、建築素材もみな新しいものだった。 応接室には、大きな段ボール箱が一つ置かれていて、中には崇明県政府からの贈り物――電気炊飯器、ホットプレート、扇風機、湯沸かし器、カバンなどが入っていた。さらにはしゃもじや茶碗、大皿、箸に至るまで「老郷」たちのためにすっかり用意されていた。また村からは、プロパンガスやコンロ、お米、塩、砂糖、衣類用洗剤、トイレットペーパーなどの食品や日用品が贈られていた。まさに微に入り細に渡る配慮だった。 ふるさとの雲陽県では、柴やわらでご飯を炊き、料理を作っていたので、彼らはプロパンガスの使い方がよくわからなかった。そこで湾北村の呉開明村長は、彼らのために二日分の食事をサービスすることにした。 初日の昼食は白切鶏(ゆで鶏の辛味ソースかけ)や紅焼魚(魚のしょうゆ煮)、マコモダケと細切り肉の炒め、それに四川っ子の大好物・酸辣白菜、ビールやソフトドリンクなど。続く何度かの食事でも、料理は豪華でおいしいことこの上なかった。 翌朝になると今度は、港西鎮派出所の所員が四家族に表札と『ガスの安全使用通知書』を配った。午後は所員が町まで案内し、顔写真をそれぞれ撮影した。できるだけ早く身分証の手続きを済ませるためだ。それは彼らがこの時から上海市民になることを意味していた。 続いて崇明県の電話局は、一家に一台ずつ電話を設置した。望郷の念にかられるだろう彼らの心のケアのためだ。設置費を千二百五十五元から二百五十元と五分の一まで下げ、電話機は無料サービスとした。これでその日から電話が使えるようになった。 崇明県に移住した六百三十九人のうち、小・中・高校生は百四十一人。彼らが就学する学校の受け入れ態勢もすでに整っていた。 崇明県は中国一の経済都市・上海に属し、教育事情も進んでいた。移住者たちはみな、自分の子どもを受け入れてくれる最新の教育システムにたいそう感動した。子どもたちが通っていた郷里の学校とは違い、ここでは系統的で進んだ教育がなされていたからだ。 移住者の各家庭にはまた、二冊のパンフレットが配られた。一冊は『移住者生産生活指南』、もう一冊は『農業実用技術手帳』。この二冊は、移住者の暮らしと仕事に役立ち、地元住民との意思疎通と交流を図るためのよきアドバイザーでもあった。 崇明県は中国第三の島・崇明島にある。中国地域経済学者の侯景新博士は「崇明島は上海の経済発展を刺激する、新たな『成長株』です。ここ五〜十年の間に崇明島は輝かしい発展段階を迎えるでしょう。それは移住者に大きな繁栄の舞台を提供するに違いありません」と期待を寄せる。 広東省へ転居した人々も、好運を感じていた。広東は全国でも生活環境に恵まれているので、転入権と戸籍を獲得できたことは彼らにとって望外の喜びだった。
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新生活が始まった 重慶市巫山県大昌鎮から広東省博羅県福田鎮大小塘村に移住した彭美定さん(六〇)夫婦は、新居のドアをそっと押し開けた。彼らの目に飛び込んできたのは、広々とした明るい部屋と美しい家具の数々。老いた二人にとって、それは長旅の疲れと故郷への未練を吹き飛ばすかのような喜びで、思わず笑みがこぼれるのだった。 彭さん夫婦と息子、娘の家族は、それぞれ一軒ずつ新居を分配された。彭さん夫婦と息子の家族は、故郷では一つ屋根の下に住んでいた。三室しかない古くて窮屈な家だった。それが今では、それぞれに独立した家がある。新居はこれまでの家とは比べ物にならないくらい、明るくてきれいだった。 彭さんは嬉しさのあまり、新居の中を隅々まで見て回った。そして思わず、強い四川なまりで「たいしたものだ! 素晴らしい!」と感嘆した。 時計はすでに正午を回っていた。夫婦が食事を済ませていないことを知った福田鎮政府の幹部・高さんは、すぐに厨房に入って、ご飯を炊き、おかずを二つ作った。彭さんは喜んで、ふるさとから持参した名酒の四川老窖を取り出し、高さんに勧めた。 「さ、さ、今度はこの盃を飲み干して。彭さんと私は同じ福田鎮の仲間『老郷』じゃないか」と高さんも彭さんと乾杯して言った。 「飲もう! 福田鎮の『老郷』たちのために!」。彭さんも嬉しそうにそれに合わせて盃を上げた。 こうして二人は、この初めての酒を交わした。 町を見学した後、家に戻った彭さんが腰を下ろしたところへ、牛飼いの何さんがやってきた。が、残念なことに二人は言葉が通じない。地元の人の言葉を借りれば、まるで「鶏対鴨講」(ニワトリがアヒルに話す)といったところだ。 中国の方言は地方によってまったく異なる。田舎の年老いた農民などは、標準語がほとんど話せないのだ。そのため地方の者同士が話を交わすというのは、非常に難しいことだった。福田鎮の高さんは政府の幹部で標準語が話せたので、彭さんにも聞き取れたのだ。 移住者たちにとってとくにありがたかったのは、広東省博羅県及び上海の崇明県、安サユ省の長豊県が彼らの定住後すぐに、広東語、上海語、安徽語の学習クラスをそれぞれ開設してくれたこと。居住地の方言を理解し、言葉の壁が乗り越えられれば、地元社会に溶け込む基礎ができるからだった。彭さんも広東語を学び始めたが、それまでは身ぶり手ぶりと目の表情を使うだけで、近所の何さんと意思の疎通を図っていた。 地元の人たちも新しい隣人に、なにかと気を配ってくれた。 ある時、何さんは彭さんを連れ、彭さんに分配された田畑を案内した。彭さんは水田には苗が植わっており、畑には大根の苗が五 以上も生長しているのを見て、目頭が熱くなるのを抑えきれなかった。 彭さんはこれまでずっと、田畑を耕してきた。人が多く、土地が少ない彼の故郷では、一人あたりの耕地はわずか〇・五ムーだった。それがここ博羅県では一人あたり一ムーと、ちょうど倍に増えたのだ。ましてや広東省の年平均気温は四川省より高く、二期作が可能だ。彼が満足したのはいうまでもなかった。 あぜ道に立ち、青々とした苗がそよ風に吹かれてゆらゆら波打つ光景を見ながら、彭さんは未来への明るい希望が沸いてくるのを感じていた。 転入先の政府は耕地の重要性を理解しており、できるだけ移住者たちの希望通りとなるよう質・量ともに地元農民と平等に分配した。 上海市崇明県の場合を見てみよう。 国際都市・上海では、郊外の農民一人あたりの耕地面積はわずか〇・三ムーだ。その中で、移住者の耕地を確保するために、上海市政府は土地があり住民の少ない崇明県を彼らの定住先に決めた。こうして移住者に地元の農民と同じ一人あたり平均一ムーの分配が確保された。 ところで今回改めて分配された土地のことで、移住者と地元農民との間にもめごとが生じなかったのか? これに対し、崇明県の陸鳴副県長は「新しく分配された土地は村民委員会が検討し、調整したもの。上海市内に就職した農民たちが放棄していった耕地を、今回の分配範囲に含めました。だから耕地が均等に確保できたのです」と強調する。 彭さんと同じように崇明県に転入した陳代福さんは、これからも稲作を主な生業とするつもりだ。また暇があれば漁をしたり、ポップコーンを売って小遣い稼ぎをしたいと思っている。蓄えがあれば晩年は安心だし、万が一病で倒れたとしても余裕をもって暮らせるからだ。 陳さんは今回、故郷から二枚の魚網を持参したが、ポップコーンを作る道具は置いてきてしまった。このため彼は近く郷里をたつ娘に、その道具を忘れず持ってくるよう電話した。 冒頭で紹介した童興楽さんと同じ時に、安サユ省長豊県水家湖農場に移り住んだのは向天輝さん(三〇)。彼は、親の代の農民より商才があった。「田畑には穀物を植えるもの」という伝統的な考え方を捨て、一家六人に分配された六ムーの土地にビニールハウスを造り、野菜のほか花や苗木などを植えた。こうした方が簡単に収入増が図れるからだ。 向さんは以前、重慶市南陵県の貧しい土地に住んでいた。一家には一・四ムーの畑があっただけ。灌漑が容易ではなかったので、植えるのはせいぜいトウモロコシくらいだった。「もし移住しなければ、望みなんてあったものか!」と向さんは苦しかった過去を思い出し、吐き捨てるように言った。移住に先立ち鎮政府が責任者を派遣した昨年五月、一家に六ムーの分配が可能だと知った彼は、すかさず第一次移住に名乗りを上げた。農民にとっては土地が一番大切で、その土地から金が掘り起こせる――と思ったからだ。 彼は身を乗り出して言った。「もしも移住者が集まり、政府の優遇措置を得て、情報を集め野菜作りに精を出せば、三〜五年で規模を拡大し事業を興すことができる。その頃には資金もたまるだろうから、再投資して全省を市場にするんだ。大規模なインターネット販売も立ち上げたい。僕はきっと社長になれるよ」 彼が豊かになる夢は、もはや幻想ではなくなっている。「発展的な住民移転政策」の規定では、土地と生産に関する資料を配布するほかに、転入先政府ができるだけ早く移住者の生産技術を高め、相応の措置をとり、豊かになるよう導くことなどが記されている。 向天輝さんが未来に希望を抱いているのは、彼の七歳になる息子・向浩文君が転居後すぐの新学期(昨年九月一日)から、長豊県の立派な小学校に入学することができたからだ。 優れた教育を受けた子どもが成長すれば、父親よりも実力がつく。素晴らしい前途が開けるに違いない。向天輝さんはそう考えている。 もっと若い人たちも、自分の理想を抱いている。 彭敬虎さん(二九)は「三峡移住者」と呼ばれるようになったその日から、自分の運命や暮らしに変化が起きたことを感じていた。彼はもともとマイクロバスの運転手で、家には二台のバスがあり、年収は十万元。移住者の中では「富裕戸」(裕福な家)だった。彼は上海の崇明島に移住した後、貯蓄の上に移転補償費を加え、崇明県銀行から貸付金を得て、小規模の自動車運輸公司を設立した。事業をさらに展開させたのだ。 また広東省博羅県に移り住んだ彭美定さんの娘は、博羅県で工場の仕事を探していた。博羅県には現在、建材、製薬、紡績、電子など三十業種、千以上もの企業がある。企業は移住者一家に一人以上の求人案内を出している。だから彭美定さんの娘は仕事が見つかったも同然だった。 転入先の政府は、移住者のためにあれこれ策を講じている。しかし不慣れな土地での新しい環境は、彼らにとってやはり大きな悩みだった。 上海の崇明島に転入した余勝林さん(二五)は、二歳の男の子の父親だ。新生活の話になるとまず「ここはとにかく物価が高いよ」とこぼし始めた。豚肉やジャガイモなど食品の市場価格は、故郷の雲陽県と比べても倍から数倍高い、という。 雲陽県の農村では、水は小川から汲むことができたが、崇明島では一トンの水に一元を支払わなければならない。炊事に使う柴、わらなどの焚き物にプロパンガスが取って代わり、ボンベ一本に六十元がかかる。 上海の物価高は、低収入で貯蓄も少ない余勝林さんいわく「やりきれない」ものだ。雲陽県では自動車修理の手伝いをして年収五千元、物価の安いふるさとでは、それでも十分な稼ぎだった。しかし今はまったく違う。それで彼は、前より高収入の見込める仕事を崇明県で探したいと願っている。 余勝林さんと同じ時に崇明島に入った余徳春さん(五三)が当惑するのは、ここの気候が合わないことだ。崇明島に着いた翌日は大雨で、その蒸し暑さには閉口した。そこで夏ござを敷いて寝たのだが、やはり寝苦しさは変わらなかった。「故郷の河口村だったら、長江でひと浴びしてから床に就けば、ぐっすりと眠れたものさ」。そう懐かしく思い出す余徳春さんだが、一日も早くここでの生活に慣れたいと切望している。 こうして「世紀の大移住」とうたわれた、三峡ダム移住者の新しい生活がスタートした。不慣れな生活はしばらくは避けられないだろう。しかし国の事業を支援して故郷を離れた彼らの勇気と英断は、みなが認めるところだ。移住先での一層の繁栄と幸せを、だれもが願わずにはいられないのである。 (2001年2月号より) |