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中国文学の遺伝子 北京にいる間、大江氏とは、私的な場でも多くの話をしたが、中でも彼の人生における母親の影響の大きさを繰り返し聞いた。大江氏によると「文学への啓蒙を開いてくれた最初の師は、中国文学に深く傾倒していた母でした。その日記に残っていた記述によると、30年代初期、母は父と共に中国を訪れています。2人はまず上海に行き、そこで魯迅が創刊した『訳文』を買いました。これは、外国文学作品の翻訳紹介、および批評専門の文学雑誌で、それから長い間、母の愛読誌の一つになりました。1936年、母は新聞で中国の著名な作家、郁達夫が東京を訪問するというニュースを知り、一歳を過ぎたばかりの私を夫と姑に預け、一人、東京に二週間でかけ、彼の講演を聞いたのです」 中国文学を愛した母によって、大江氏は幼い時からその薫陶を受けた。父からは唐詩、宋詞、および明清時代の小説など中国古典文学を学び、母からは中国現代文学の影響を受けた。少年時代の大江氏は、魯迅や郁達夫など中国の作家の作品群から、直感的に文学の美を味わい、理解した。 送別会の席上、彼は同席した黄宝生・社会科学院外国文学研究所所長(サンスクリット文学研究者)や、陳衆議・同副所長(スペイン文学研究者)に、誇りをこめて語った。「ごく幼いころから母によって中国文学の影響を受けました。私の中には、中国文学の血が流れ、私の体には、中国文学の遺伝子があります。郁達夫などの中国の作家の文学作品がなければ、今日、日本の大江健三郎の存在はあり得ません」 大江氏の両親は、旅の途中、琉璃廠に立ち寄り、そこでとても美しく高価な墨を二個買い求めた。一つは黒、一つは赤の墨は、その後大江氏の人生に大きな役割を果たすことになる。 大江氏が話してくれたところによると、七人の兄弟姉妹のなかで、一番容貌が劣るのが彼だった。母は彼の結婚相手が見つからないのでは、といつも心配していた。ただし健三郎少年も、一つもいいところがないわけはなく、耳は郁達夫によく似た大きな福耳だった。母はこの息子が、将来はきっと郁達夫のような有名大作家になると堅く信じていた。家庭は豊かではなく、七人の子供のなかで、大学に行かせることができるのはただ一人、という条件のもと、母は、大作家になると信じた息子を選び、東京で学問をさせることにした。出発にあたって母は、かつて琉璃廠で買い求めた墨を丁寧に包み、さらにある有名画家の住所を書いた紙を彼に手渡した。東京に着いた大江氏は、画家を訊ね、かなりの額を手にすることができた。この墨を売った資金で、大江氏は数年の学生生活を送ることができ、職業作家への道を歩むことができた。 数十年が過ぎ、四国の森から世界へと羽ばたいた大江健三郎氏は、ノーベル文学賞を受賞した。母にこの喜ばしいニュースを伝えた時、彼女は淡々と言った。「アジアの作家の中でノーベル文学賞に最もふさわしいのは、タゴールと魯迅です。健三郎は、それに比べたらずっと落ちますよ」。ここまで語って、彼は感動を込めてつけ加えた。「そう、私の前にはタゴールが、魯迅がいます。私にとっては、彼らは文学の巨匠です」 記念館に響く歌声 9月29日、大江氏は初めて報道陣に囲まれることもなく、北京の歴史ある湖、什刹海の南岸にある郭沫若の故居をひそかに訪れた。静かな横町にある四合院の中庭には、大きなイチョウが植えられ、芝生の上には銅像が立つ。そこには石畳の小道を通って行くようになっていた。大江氏は歩調を速めて近付き、服を整え、亡き友の銅像に向かって三度、丁寧にお辞儀をした。そして、知らせを聞いて駆け付けてきた、郭沫若の娘である郭平英さんの姿に、「似ていますね!」と興奮していた。応接室に入ると氏は、郭沫若の子供たちの生活と、記念館の様子を聞いた。傍で見ていると、それは、思いやりのある年長者が後輩たちの暮らしぶりを気にかける態度そのものだった。 彼は、1960年の第一回訪中時に、郭沫若氏と会っている。ただし郭沫若のことは、もちろんそれよりずっと前から知っていた。郭平英さんの案内を受けて、彼は展示室を見学し、残された遺品や写真、資料などを一つ一つ丁寧に眺めた。郭沫若の人生をそのままたどるような一時だった。創造社の同人たちを写した記念写真の前では足をとめ、郁達夫の耳をつくづくと眺めた。そして、まるで新大陸でも発見したように興奮して、私達を振り返った。「母はいつも、私の耳が郁達夫にそっくりだと言っていたけれど、なるほど本当に似ている。どうです、似てませんか?」そして体をひねると私達に耳を見せた。後で大江氏に贈られる予定になっている写真集の中にも、同じ一枚があると郭平英さんから聞いて、彼は嬉しそうに笑った。そして母の遺影の前に捧げます、と言った。 郭沫若が少年先鋒隊(ピオネール)のために作詞した歌の展示の前では、彼はすぐ内容を見てとり、大声で歌いだした。その場にいたみなも声をあわせた。大江氏は手をふって拍子をとり、顔は上気していた。40年前の第一回の訪中時、千人あまりの北京の先鋒隊員と、この隊歌を歌った時がよみがえったようだった。 夜、ホテルに戻ると、彼は二つの封筒を私に差し出した。一つには人民元が、もう一つには、日本円が入っていた。それは、彼が北京で行った講演やサイン即売会の謝礼だった。彼はそれを、日本の一作家という名義で、貧しさのために就学が困難になっている子供たちを助けるための関係機関に寄付するよう、私に託した。私は、大江氏がそう大富豪というわけでないことは了解しているが、それでも、ぶ厚い封筒を受け取ることにした。老作家のこうした行為は、もちろん中国人民に対する深い感情の表れであるとともに、中国の学齢期の子供たち全てが、明るい太陽のもと、あの少年先鋒隊の歌を高らかに歌えるように、と願ってのことだと思ったからだ。あのお金は、中国少年児童基金に確かに寄付しましたと、私は今、彼に報告したい。彼の善行によって、少年先鋒隊に参加できる子供がきっと何人か増えたに違いない。 長年の謎が解けた 9月29日夜、それは大江氏が北京で過ごす最後の夜だった。予定通り、長安大戯院に向かった。滞在中に中国伝統の京劇か越劇を観賞することは、彼自身の希望だった。 演目は、『三たび祝家荘を打つ』。子供時代、父から『水滸伝』を含む明清時代の小説を習っていた大江氏にとっては、内容は周知のものだろう。小説中の任侠の徒が、弱きを助け、強きをくじく物語は、祖母や母からも語り聞かされ、それは健三郎少年の想像力を豊かにふくらませ、長い時を経て、大江文学の一部となったに違いない。 舞台の両側には、細長い字幕スクリーンがあり、言葉の障害に関わらず、劇の粗筋はつかめるようになっている。物語の進行につれて大江氏は、大笑いし、眉を寄せ、緊張し、また愉快になった。舞台のなかにすっかり溶け込んでいるのが見てとれた。この一時は、大江氏の中国文化に対する親愛の情を深めただけでなく、ほぼ半世紀にわたって、彼にまとわりついてきた不可解な謎を解くものになった……。 主人公である「命知らず三郎」石秀が舞台に出ている間、氏は何度か、役者たちがその名前を「サンラン」と呼ぶ、中国語の音を耳にした。その音は、彼にとって不思議に親しい響きがあった。母は少年時代の彼を「サンラン」、という愛称でいつも呼んでいたのだ。自分は「ケンザブロウ」なのに、なぜ「サンラン」なんて呼ぶんだろう……? 母は一度も教えてくれたことはなかったし、周囲の大人たちも、きちんと説明できなかった。母は、三年前すでに亡くなり、謎はそのままになった。 この日、何度も「サンラン」という音を聞いて、大江氏は幼年時代を、そして優しかった母の声を思い出し、心は舞台を離れ、四国の森のなかの村をさまよっているようだった。 そして「サンラン」の音を聞くたび、ステージ横の字幕に「三郎」の文字が出るのを見て――ついに大江氏の頭に稲妻が走った。母は自分の名前を中国語で呼んでいたのだ! そこにはどれほどの深い思いがこめられていたことだろう。短い愛称には、我が子への望みと、中国文化への憧憬が凝縮されていたのだ。初めてこの愛称を聞いた時から約65年、そして母が亡くなってから三年が過ぎて、とうとう彼は知った。母上にそれを報告する時には、ついでに三度目の中国訪問で出会った人、そしてまだ見ぬ人、すべての中国人が心から彼を歓迎したことも添えて、喜んでいただきたいと思う。 文学の血縁 9月27日午前9時半、中国社会科学院外国文学研究所の会議室は、いつもの静けさとはうってかわり、熱気に包まれていた。集まった人々はみな興奮していた。中日両国の作家、学者、評論家による座談会が今から始まるのだ。中日の創作の世界での最高峰を代表して、丸テーブルの片側には、四国の森から出でた大江健三郎が、もう片側には、山東省高密県のコーリャン畑から出でた莫言が座った。彼の小説『紅高チサ』は、『紅いコーリャン』の原作となり、張芸謀を世界の映画界へと飛躍させた。年齢的にはかなり隔たりがある二人だが、多くの共通点があった。その一つは、彼らは共に外国文学から多くを吸収し、それを自己の血肉としてきたことである。また彼らは互いを認めあっている。大江氏は、ノーベル賞受賞式でのスピーチでも、何度も莫言について触れている。 9月30日朝、彼らは貴賓楼飯店でまた落ち合った。空港に向かう前に、莫言が大江氏につきそって、中国現代文学館を見学する約束になっていた。三日前の座談会の時に比べ、今度は、二人ともリラックスしていた。座談会特有の堅苦しさが消え、友達どうしの楽しさと穏やかさがあふれていた。 市民の日常生活を体験してみるため、二人の作家は、すぐ近くの繁華街、王府井の朝から開いているファーストフード店に入り、まったく普通の人のように腰を下ろした。服務員が運んできた豆乳と、小麦粉を練って油で揚げた「油条」という中国特有の食品を前にしても、大江氏にはものおじした様子は、ちっとも見られない。彼は慣れた手つきで、「油条」を豆乳にひたし、口に運んだ。そして「好吃、好吃」と何度も繰り返した。実は彼の小さいころ、家でもよく「油条」を食べていたそうだ。それは母が中国で作り方をマスターしたもので、けれど北京のものと比べてみると少し太く、しかも長かったという。 昨年五月開館したばかりの現代文学館のホールで、大江氏は乞われて同館の賓客名簿に、彼の尊敬する中野重治の短歌を残し、その名簿を莫言にまわした。ハ謇ウ(老舎の息子)館長の熱心な勧めに応じて、莫言は、「廟堂に入らずば、己の卑小なるを知らず」という言葉を記した。大江氏は傍らでそれを見ながら言った。「私は莫言さんのこの言葉に賛成です。中国現代文学館のこの廟堂に入らなければ、自分の卑小さが分からないことでしょう」 直筆原稿の展示室では、彼は、ガラスケースの中に置かれた魯迅、老舎、茅盾、朱自清などの文学界の巨人たちの原稿に見入り、感嘆の声をあげた。直筆原稿をつぶさに見学し終えたあと、大江氏は頭をあげて文学館の関係者に聞いた。「どうして莫言さんの原稿は、ここにないのでしょう?」。文学館の担当者が答えるのを待たず、顔を赤くした莫言は、あわてて答えた。「私はまだ若造です。どうしてこのような偉大な作家たちと一緒に並ぶことができましょう」。大江氏は、まるでその言葉がまったく耳に入らなかったかのように、真面目な顔で文学館の関係者に言った。「莫言さんは、世界のトップクラスの作家です。彼の原稿はまさにここにふさわしいと思います」 文学館を出る時、大江氏は、自分が長年愛用していた筆記具を取出した。それは万年筆と毛筆が両用できるよう、ペン先が取り替えられるようになったもので、彼は使用法を丁寧に説明してから、贈り物として莫言に渡した。先に社会科学院外国文学研究所の関係者に託して、献辞を記した『大江健三郎全集』を莫言に渡してあったのだが、それだけでは思いを尽くせない、とでもいうようだった。それは日本の作家の中国の作家に対する称賛であり、また、老作家から若い作家への期待が込められているようだった。その情景を見ていると私の頭には、大江氏が別の場で語った言葉が再び浮かんできた。「我々の文学上の血縁関係は、非常に近しいものがあります。莫言さんほど私の文学の資質に近い人間は、ほかにはいません」 日本人は信じられる 30日の昼、中国現代文学館を離れ、飛行場に向かう車のなかで、私の携帯電話が鳴った。それは「聯想FM365」ポータルサイトのチャットルームを担当している呉玲偉さんからだった。彼女は、ある若者から、どうしても大江氏に伝えて欲しいと託されたことがあるという。彼女のチャットルームでは、最近ずっと「日本人は信頼に値するか」というテーマで討論を続けてきたが、いまだに結論はでていない。ただしこの若者個人は、ついに結論が出たという。彼は、大江氏の今度の北京訪問での行動や言葉から、日本人も信頼できるらしいと思った、という。若者からの伝言を伝えた時、大江氏は大きく心を動かされたようだった。しばらく沈黙が続き、彼は高ぶる感情を抑えるように、ゆっくりと、そしてはっきりと私に言った。「彼に伝えてください。彼の結論に私はとても感激し、感謝しています。私の今度の中国訪問の中で、いちばんの贈り物です」 搭乗ゲートから大江氏は、飛行機の入り口に向かって歩いていった。しばらく歩いたところで、彼は突然身を翻し、手を振っている私達を見つめた。その瞬間、彼の顔は凝固したようで、体もほとんど動かなかった。そうして五秒か、あるいは十秒か、そのままの姿勢が続いただろうか……。やがて彼はまた、すばやく身を翻し、歩調を速め、二度とこちらを振り返らずに遠ざかっていった。 (2001年4月号より) |