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現代中国 ――母と子のゆれる想い |
母性愛について改めて考えてみると、誰もがみな複雑な感情を抱くのではないだろうか。「母親というのは湿った綿入れのようなものだ。脱げば寒いし、着ると気持ちが悪い」。魯迅はかつてこんな言葉で、巧みにそれを表現した。 そして現代の中国では、社会の激しい変化が、親子関係にさらに複雑な影響を与えつつある。本特集では、国内のメディアに映し出された、母と子の様々な声を聞いてみたい。(編集部) |
愛しすぎる母 文芳
父は30年前にこの世を去り、私は九歳から母と二人きりで、20年以上も暮らしてきた。私達には一蓮托生、という言葉がぴったりだった。私は母のただ一つの心の支えで、母は結婚にせよ就職にせよ、私がすべて母の言葉に従って人生を送るのが当然と思っているようだった。母は私を溺愛していて、私が結婚相手を探すなら、母と同じくらい私を愛する人間を探すべきだと思っていた。
けれど、1992年、結婚相手を探すころになると、私達はしっくりいかなくなった。母は私の相手が少しでも私に対して冷淡なところがあると、ひどく心配した。 ある人に紹介され、つきあい始めた男性は、白菜が好きだった。私はその反対に白菜が嫌いだったのだが、ある日、食事の時、彼が私の皿に白菜をのせたことがあった。「なんてことだろう、私はお前が小さいころから嫌がるものを無理矢理食べさせたことは一度もないのに」。母はすぐ言った。この男性も、自分の母親とは相当に仲が良く、二日も続けて彼が姿を現さないと、彼女はがまんができないようだった。彼が私とデートをするたび、母親はハンガーストライキを打った。 若かった私は怒りっぽく、母にそのことを言い付けた。母はすぐさま彼に説教を始め、しかもかなり言葉が過ぎたようだった。しばらくして彼は、結婚しても私の母とは一緒に暮らせない、お母さんと自分と、どちらを取るのかと言われた。その時の私は迷うこともなく母を選び、初めての恋愛は失敗に終わった。 その後、知り合ったのが、今ではもう別れた夫だ。初めのうち母は、いつものように彼が私によくするよう願っていた。ただ、それからというもの、私達が仲良くなればなるほど、奇妙なことに母は怒りっぽく、しかも物憂げになっていくことに気がついた。結婚が近付けば近付くほど、母と私の衝突は激しくなった。恋愛であれ、結婚であれ、母は私が離れていくことに対して、はっきりとは説明できない苦痛と恐れを抱いているようだった。母にとっては、おそらくそれは、無意識のものだったかもしれない。 結婚前に私は部屋を分配され、やがてその部屋で結婚生活を始めた。母はその部屋を母と私の家だと思っているようだったし、夫は当然、彼と私の家だと思っていた。だから家の統治権は誰にあるのかが、常に争いの種だった。喧嘩が絶えず、耐えきれなくなった母は家を出て、外で診療所を始めた。そのころの私は、仕事が終わるとまず母のところに行き、週末は夫の実家に顔を出さなくてはならなかった。母のところでは夫の話題を出しただけで喧嘩になるので、時には家のなかに入るのも、ためらうほどだった。 夫はとても内気でマザコンの気が濃厚、何でも自分の母に意見を聞いていた。彼の母と私の母も仲が悪かった。土曜日の午前中、夫の実家に行き、帰り道、私は一人で母に会いに行く。「あっちの家にまず行って、その帰り道に私のところに来たんだね」。母にはこう言われる。姑のところに行くと「どこからきたんだい? あっちに行ってから、ついでに食事だけのためにここに来たんじゃないかい」 ついに私達は離婚した。夫は持てるだけの家具を全て持ち去っていった。がらんとした家のなかで私はダンボール箱に座り、インスタントラーメンの夕食をすすった。 離婚後、母はずいぶん気が楽になったようだった。私達はまた一緒に生活を始めた。だが私達には話すことがもう何もなかった。その時、私は母が、私を度を超えて愛していて、私を失うのをひどく恐れていたのが分かった。だからあれほどもめ事を引き起こしていたのだ。 98年2月、母は病気になり、数カ月の間に三度も危篤になり、ついに世を去った。病院から一時帰宅を許されたある日、母の髪を洗ってあげると、母が枕の下から百元を取り出した。「ほら、お小遣いをあげる。お前にハンドバッグを買ってあげようと思ってたんだよ」。母は嬉しそうだった。 今も、その笑顔がすぐ目の前に浮かんでくるのだ。 かなえられなかった願い 嘉 男
母亡き今となって、母と話したいと強く思う。生前は、深い交流がほとんどなかったからだ。 この状態は、私の子供の時からの反抗と、母の短気が原因だった。 記憶を探ってみると、傷ついた思い出が次々に蘇ってくる。子供時代、母の助手として必要な時にはちゃんと責任を果たすよう要求され、できないと罵られ、殴られた。
中学時代のある夏休み、綿入れの上着を縫うよう言いつけられ、勉強が忙しかったため、その日の午前だけで、必死で縫い上げたことがあった。ところが縫い目が粗かったのが、母の気に触り、母は私の作品を引き裂き、もう一度やり直すように言いつけた。この時、母は川岸のように、私の心はついにそこを離れ、遠くにさまよっていく小舟のように思えた。 今になって思うと、反抗された母はもっと苦しかったことだろう。子供は男女五人、それぞれの反抗に対して、私達に向かって憂さ晴しすることもできなくなっていた。 結婚後、両親と一緒に窮屈なところに暮らしていた上の弟が、うっかりして母が丹精したケマンソウを踏みつぶしてしまったことがあった。「おっきな目を開けて、なんだってわざわざケマンソウに向かって歩いて行ったんだね?」と母は弟を叱った。弟は頭に来て、あんな花は役立たずだから、と答えた。母は怒り心頭に達した様子で、鉄鋤を手に取り、鶏小屋から出ていた一羽のメンドリを殴りつけ、メンドリの腹からタマゴが飛び出したほどだった。母はそれから野菜畑に穴を掘って、死んだメンドリを埋葬していた。 母は山東人、1963年、新婚後、すぐ父について、当時の中ソ国境近くに移り、何年もその辺りで引っ越しを繰り返した。そして最後に国境近くの小さな町、綏芬河に落ち着いた。 母の人生は苦労の連続だった。5人の子供を育て、ブタやニワトリを飼い、水を汲み、薪を割り、縫い物もこなし、そのうえ炭坑で石炭を積んだり、れんが工場でれんがを運んだりしていた。一家の生計を支えるための激しい労働の日々は、安らかな気持ちになど、とてもなれないものだった。気持ちがすさんでいた母は、いつもとげとげしく、私は自分の殻に閉じこもっていた。そしてこんな気持ちにも変化が起きることなど、当時は気が付きもしなかった。省都で勉強していた二年間、休暇で戻るたび、母は編み物を手に子供たちの部屋にやってきては、私に話しかけた。私はテーブルの前に置いた本に没頭し、心はまるでそこにないままに適当に相手にするだけだった。話が続かないまま、母はしばらくすると部屋を出ていった。私は自分の誤りに全く気がつかなかった。 母の変化にはっきり気づいたのは、1994年の春だったと思う。私はついに家を離れることになり、意気揚々と駅に私を送る自動車に乗り込んでいた。車の窓から、集まった人達に挨拶をしている時、母が建物の入り口に出て来ているのが目に入った。これは彼女の習慣からは考えられないことだった。私の目は曇り、母の表情は見えなくなった。私と母の間にあった、塵とホコリで汚れきったガラスは、今、母の手で拭かれ、曇りなきものとなった――と私には思えた。私達はお互いをはっきりと見ることができるようになった。ただし、触れ合うことはできないままだった。 もしも母に残された時間がもうそれほどない、と知っていたら、私と母をガラスで隔てたままにするという過ちは、犯されなかったに違いない。 1995年、山東省威海で、私は遂に温かい家庭を築くことができた。国慶節の一週間の休暇に、東北へ旅行することにした。一番下の妹の家に暮らす母にも会うこともできた。でも私は母と食事することもほとんどなく、昔の同級生や同僚に会うことにかこつけては、母と多くを話そうともしなかった。帰る日、去っていく私達を見送り、母は門の前に長いこと立っていた。これが母の立っている姿を見る最後になろうとは、当時の私には知るよしもないことだった。 1996年の春、妹から電話が来た。母が私達の家にしばらく住みたいと言っているという。私は断った。私達の家は古くて狭かった。母はまだ若く、時間はじゅうぶんにあると思っていた私は、私達が遠く離れているのをいいことに、まず自分の家を整えることを先にしようと思った。 部屋を分配され、鍵を受け取った時は、すでに冬だった。母の望みが実現できるとまず思った。だが、その日、母が肝臓ガンにかかり、入院したという知らせを受けた。ただ呆然と受話器に向かい、別れていることの悲しさ、距離の残酷さが胸にしみた。ハルビン腫瘍病院の病室に横たわった母は、黄色い紙の人形のようだった。部屋の準備ができ、病気が治ったら迎えに来ると、母に話しかけた。彼女の黄色く濁った目が一縷の望みに光ったようだった。淋しげに母は言った。「30年も離れていたんだ。故郷に一度帰って、海鮮でも食べられたら、成仏できるってものさ」。母の言葉は、ガラスのように私の目と心を刺し、涙と血が流れた。
寝台車に母を寝かせ、発車寸前、私が下りなければならない時がきた。母に何か言いたかったが、母は薬の作用で深く眠っていた。母は永久に私の気持ちを知らないままになった。一週間後、これが最後の別れになったことを知らされた。 1996年12月2日、月曜日の早朝。職場に着いた私に、上の弟から電話がかかってきた。「姉さん、母さんが今朝、亡くなったよ」。時間も、私の感覚も思考もとまったままになった。壁の水晶時計が時を刻む音だけが聞こえ、涙がただ流れた。 息ができない 苗 文
一人っ子の私は、母の怒鳴り声をいつも聞かされて育った。母は父に対していつもイライラしていて、自分の仕事もうまくいっておらず、家をストレス発散の場所にしていた。父がちょっとでも言い返すと、母はすぐ「離婚」の二文字を叫びたてた。覚えているだけでも、私は、母が書いた離婚協議書を五枚は破り捨てた。私はこんな家庭に心底うんざりしていた。 中学にあがると、両親にことわりなしに友達の家に泊まるようになった。とにかく静かな場所が必要だったのだ。大学入試の志願書には、地方の士官学校を希望した。士官学校は、ほかの大学より合格通知が来るのも、学期が始まるのも早い。一分でも早く家と両親から離れ、一人暮らしを始めたかった。 私の行動は母を激怒させた。合格通知が届いてからは母は多少静かになった。いよいよ家を出る時、母は私に呼びかけたが結局何も言えずに、ただ私をぼんやりと眺めていた。 仕事を始めてからは、寮に暮らすようになり、ごくたまに家に戻るだけだった。家ではただ父と将棋をさし、母の父に対する不平不満を聞いた。自分の心の苦しみは両親には言えなかった。少年時代から我慢し続け、今はさらに忍耐強くなっていた。 ある日、家に帰ると母が古いアルバムを眺めていた。その中に、私が以前破いてごみ箱に捨てた離婚協議書が挟まれていた。その時の母には、これまで見たことがないほど、どことなく弱々しかった。あたりかまわず怒鳴り散らしていた、以前の母と違って見えた。 母はその日、私に語った。これまでずっと何事もうまくいったためしがない。結婚ものっぴきならない事情があったからのことで、父はいい人だが、自分にはふさわしい人間ではない。「離婚協議書は、お前がごみ箱に捨てたのを見つけたのさ。そして、これからは、離婚のことは、お前には決して言わないようにしようと決めたのさ」と母は言った。
その時、母が老い、私を頼りにしているのを強く感じた。以前の自分の行動について、急に彼女に申し訳なくなってきた。突然、心を打ち明けたくなった。私は自分が今、恋愛中であることを母に告げた。 まったく思いかけなかったのは、ガールフレンドについて触れたとたん、母はまた怒りだしたのだ。望みの全てをお前にかけていたのに、と母は言った。昔のお前はまだ物事をよく分かっていなかったが、今なら母親の思いを分かってくれるだろうと思っていた。それなのに、その女性が自分の望む条件に全く合っていない、と母は続けた。おかしいことには、母があげた学歴、家庭環境、身長などの条件のなかに、「息子が彼女を好きかどうか」は全然含まれていなかった。長い間生きてきても、母はまったく人生を理解していないのだ、と私はしみじみ思った。 それから何度か母と話してみたけれど、相変わらず母は納得せず、どうしたらいいかわからないままだ。恋人への愛情と家族への愛情の板挟みの状態が続いている。母が何もかもうまくいかない人生のなかで、私の人生に理想を見出そうとしても、私はそれに応えられるかは、自信がない。母の言いなりに人生を送ることは、もちろんできない。母の私への愛と関心を以前は理解できなかったが、今はよく分かるし、受けとめられると思う。でも、それと同時に息苦しさも感じてしまうのだ。 娘の秘密 賈 蘭
娘は中学に上がるころから、だんだん言うことを聞かなくなってきた。娘と気持ちを通わせるために、いろいろ知恵をしぼってみても、目覚ましい効果はあげられていない。ある日の朝、娘の部屋にある『オックスフォード英中辞典』を借りようとして、娘の日記がそこにあるのに気づいた。ぱらぱらと手にとってめくってみると、字がぎっしり、ところどころに挿絵までがある。人の日記を盗み読んだりするのは恥ずかしいことだから、そこでやめておいたが、日記のことが頭から離れず、辞典を返す段になって遂にその日記を読んでみることにした。 断っておくが、私に未成年者に対する監督保護権があるからとはいえ、もちろん娘の日記を読んだりするのは、よくないことだ。 娘の日記は微に入り細にわたり、ところどころ暗号で記されている。一部の文章は激しく私の心を乱し、別の部分は、ひどく腹立たしいものだった。でもだからといって娘を責めたりする理由はない。実際のところ、もっと早い時期から、娘の日記には気がついていて、それで彼女の心の内を知りたいという気持ちは頭の片隅にいつもあった。 正直にいうと、娘の鋭さに私の顔は赤くなった。家庭では目上の者とはいえ、娘と私は人格的には平等である。若い世代の本当の考え方を知ることは、子供たちと気持ちを通わせるのに必ず役に立つことだろう。私は大決心ののち、娘の同意を得て、彼女の日記の数日分を選んでみることにした。 日記から ×月×日 学校から戻ると、母さんが机の上に置いた離婚証明書を指さしてみせた。 昔、両親が喧嘩して、離婚すると怒鳴りあったことがあった。その時、私は離婚ということがよく分からなくて、学校で友達に聞いた。クラスの友達は、離婚というのは、お父さんとお母さんが別れて、子供はどちらか一方につき、もう一方が養育費を払うんだよ、と言った。クラスには両親が離婚した子がすでに九人いて、私は十人目になる。 父さんと母さんは、今日、離婚した。だからこの日は覚えておかなくちゃならない。一1999年四月11日、父さん44歳、母さん43歳、私は十五歳半。両親は私が小さいころから喧嘩ばかりしていたから、別れたほうが良かったと思う。そうすれば私も一方をなだめたり、仲裁したりしなくてよくなる。喧嘩の時は、いつも私が二人の訴えを聞く役だった。お前の母さんはどこが悪いとか、父さんをどう思うとか、もう心底うんざりだ。 二人はいつも家柄がつりあわないとか身分がふさわしくないとか言っていて、ちっとも心が通っていなかった。二人はお互いに軽蔑しあっていた。それならお互いを避けたほうがいいだろう。両親は問題を複雑にしすぎていたと思う。やっていけないなら別れればいいだけだ。要するに両親は、ほんとに暇だったのだろう。私のように、試験に追いまくられ、クタクタになっていれば、そんなエネルギーはとても残らない。
さっき父さんが荷物をもって出ていき、門のところで私に言った。「洋洋、来週の週末は、父さんが学校に迎えにいくからな」。私が無視していると、父さんはため息をついて、階段を下りていった。父さんが荷物を整理している時、母さんはベランダでずっと泣いていた。何をいまさら泣くことがあるの? 父さんのことを思うと、心ががらんとするようだ。父さんは……。 ×月×日 高校入学試験が終わった。結果がどうであろうと、かまいやしない。私の成績はずっと悪くないから、たぶん、重点高校進学は問題がないことだろう。試験会場を出るとすぐ、結果はどう、と母さんに聞かれた。どうしてああなんだろう。私は採点の先生じゃないから、結果がすぐ分かるわけじゃないし、友達と正解を話し合ってみても、はっきりとは分からない。いわゆる保護者たちというのは、まったくお笑いだ。子供には大出世してほしいし、それでいて、試験は子供の天賦の才能をすり減らす、なんて批判する。勝手に言わせておけばいい、みんなちっとも現実を見ていない。 ×月×日 母さんが今日、例の男の人と結婚することになったけど、と私に意見を聞いてきた。何も言いたくなかった。母さんと例の男は、もう長いこと行ったり来たりしていた。私の前では隠していたけど、私は母さんに変化が起きていることは、はっきり感じていた。母さんは男と出かけて、時には夜とても遅く戻ってきた。はっきり言って、世界で一番、私を叱る資格がないのは、母さんだと思う。 何も言いたくなかったのは、父さんのことを思ったからだ。父さんの代わりがあの男になってしまうことに同意するなんて、残酷すぎる! あの男は、時々車を運転して母さんと私を街に連れ出したり、食事をご馳走したりしてくれたけど、それは母さんの機嫌をとりたいからだけだ。私はちっとも楽しくなかった。ある日、私が夜、映画を見にいきたいというと、彼は長い説教を始めた。夜は危ないとか、女の子は何かあったら終わりだとか、後悔先に立たずとか、でも本当は一番気をつけなくてはならないのは、ああいう離婚歴のある男なのだ。 まったく自分のセンスの良さをひけらかす、あの態度は鼻持ちならない、ただの文化公司の副マネージャーに過ぎないのに。大金持ちのフリをしているけど、運転している車は会社のもので、それがなければ、いつも大混雑の汗臭いバスに乗らなきゃならないくせに。あんな大人たちがこんな簡単なことも分からず、私のような子供のほうが分かっているとは、悲劇的! 意外な娘の態度 その日、私は娘と本当に心を通わせようと思い、娘に言った。「洋洋、母さんはお前にあやまらなきゃいけない。お前の日記や手紙を見たりしてはいけなかったね」。驚いたことに娘は憤慨もせずに微笑んで「見たら見たでいいわ。別に隠し事があるわけじゃないし。内容によっては、面と向かって言うより、書いたほうがいいからね。私は母さんが日記を読んでいることは、ずっと知っていた」という。 私は自分の思いをまとめたいこと、それには彼女の日記を引用する必要があることを告げた。彼女は少し無言になってから、それなら名前を変えて、と言う。「クラスの友達に家族との関係がこんなだって知られたら終わりよ。それに担任の先生に知られたら、それこそ、おしまい」。彼女はまるで大人のように腕を組み、さらにゆっくりと言った。「でも、実はどうでもいいの。ほんとの心の中は、まだ完全に出していないから」 その時、私はもう驚きもしなかった。ただ重苦しい失望と混乱があった。これほど複雑な娘に対して、母たるもの、ただ何の方法もなく、受け身でいるしかないのかもしれない。一体、どうやって娘と気持ちを通わせることができるだろう? 社会調査 都市の家庭教育における母親像 2001年2月、北京市崇文区婦人連合会、崇文区家庭教育研究会が、同地区の12歳から16歳の子供たち500人と、その家庭に調査を行った。「家庭教育における母親・現状調査と考察」と題されたもので、結果には中国の都市家庭の母親の姿が映しだされている。 調査の内容は、母親の道徳、文化、心理、子供の養育面などについて、母親自身の自己評価、子供の評価、および周囲の社会人の評価を行い、現代の母親の家庭教育におけるイメージをまとめたものだ。 母親の親和力 調査の結果ではまず、母親が家庭教育において、学習面に明確な目標を持っていること、また母親の愛情が家庭教育での親和力になっていることが映しだされた。母親たちはみな自分の半分は自分のもの、あとの半分は子供のもの、というような意識を持っていた。母親たちの66%が家庭での話し合いのなかで回数の多いものとして、家庭の運営、子供の問題をあげ、最も多いものとして、子供の将来についてと答えた。 子供たちのほうは、62%が母親から多くを教わった、と答えた。56%が、家庭のなかで一番自分を理解し、守ってくれるのは母親だと答えた。「心のなかの母のイメージは」について、「友達」は45%、「コーチ」は37%。 これからの課題 ただし子供の社会的役割についての調査の項では、母親たちが自分の子供を「私有財産」扱いしている姿が浮き彫りになった。そのため教育理念の基本は、子供の出世、家庭の幸福、両親の期待がベースになっている。「道徳」「知識教育」「人間関係能力」「健康」「個性の育成」の五項目のなかで、「知識教育」つまり「学習面、成績」を重視する母親が56%、「道徳」が23%、「個性の育成」や「人間関係能力」は10%にも満たなかった。 子供の教育における母親の考え方は、「五重五軽」にまとめられる。すなわち「成績・知能を重視、道徳・生活能力を軽視」「生理的発育を重視、心理的発育を軽視」「生活の安逸を重視、心の教育を軽視」「子供の出世を重視、自身の教養を軽視」「子供の保護を重視、一家の調和を軽視」というところだ。また子供の教育面において、家庭教育と学校教育の足並みが揃っていない面も明らかになった。ある場所では過保護に、ある場所では厳罰主義が貫かれていた。
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