客家の人々と土楼の暮らし

文・写真 丘桓興

 
   

   中国東南部の沿海地帯に位置する福建省永定県には、巨大なとりでのような環形、方形の建物が立ち並び、その独特の構造は、世界建築文化の奇跡と呼ばれる。そこに暮らす客家は、移動の歴史、独特の風俗習慣が世界の注目を集め、今では観光を目的に訪れる人も多い。今回の旅で、私は独特の住居に泊まって数日を過ごし、広東客家の末裔の一人として、まるで、故郷に戻ったような心地になった。  

        土楼が築かれた理由

 永定県の人口は45万人。約四千棟の方形楼が、全県に広く分布し、360棟の環形楼は、大部分が湖坑鎮、大渓郷、古竹郷に集中している。

 私達がこれから向かう湖坑鎮には、大方形楼が169、小方形楼が220、大環形楼が80、小環形楼が16、そのほかの形の土楼が455棟あるという。大部分の土楼は、二、三百年前の清代に建てられたものだが、考証の結果、約六百年前の建設とされる「日応楼」の遺跡のほか、五百年前とされる「源昌楼」「徳聚楼」など、保存状態が良好な土楼もある。

 客家は、なぜ土楼を築いたのだろう。研究では、南方移住との関連が指摘されている。

 現在、広東省東北部、福建省西部、江西省南部、および湖南省、広西チワン族自治区、四川省、台湾省、海南省などに分布している客家は、もともと中国北方の黄河中流域に暮らしていた。

 西晋(265〜316)末年、長年続く戦乱から逃れるため、彼らは黄河を越え、長江を渡り、安徽、江西省の北部にたどりついた。これが第一回の南方への大移動である。 唐末には、黄巣を首領とする農民蜂起の戦乱が長江中.下流から広く南方に及び、彼らは、江西省東南部、福建省西部へとさらに南下した。

 三回目の移動は、元の南下により、南宋の皇帝が広東へ避難した時代のことだ。当時、江西、福建に暮らしていた客家は、それに従って広東へ移住し、福建、広東、江西三省の境界の山奥に暮らすようになった。

 清代には社会、経済の発展につれて、客家の人口は激増した。客家と土着民の間には武器を用いた争いが繰り返されるようになり、この時期に一部の客家は、広東西部、湖南、広西、四川、台湾、海南島などに移住した。これが第四、五回目の移動である。

 そして、どこにも移住せずに残った客家、特に土着民との接触が多い永定県の客家は、土着民との争いや匪賊の略奪、またトラなどの襲撃に備えて一族が集団で暮らすようになった。

 土楼には多くのエピソードが眠っている。たとえば、ある宴席で、二人の若い女性が、どちらの家の土楼がより高く立派か、言い争いを始め、互いに絶対に譲らないことがあった。この勝敗の結果といえば、実はふたりは同じ土楼の住人で、その土楼にあまりに人が多く、一族の女性が、土楼に嫁いできて3年にもなる、いとこの妻を知らなかったために争いになった、というような出来事の数々だ。

 土楼には、大小があり、大規模な例としては、四重の囲屋に囲まれた承啓楼がある。一番外側、一列目の囲屋は一周229・4メートル、高さ12・4メートル。4階建てで、毎階に72の部屋があり、あわせて部屋数は288にもなる。その内側の囲屋は、二階建てで、毎階は44部屋、あわせて88部屋となる。三番目の囲屋は、平屋で部屋数は36。一番内側には、公共の場所となる堂がある。

 建物全体に大門が一、中門が三、脇門が八ある。総部屋数は、412となり、毎日暮らす部屋を変えても、一年以上かけてようやくすべての部屋に住み終わるというほどだ。

 1986年、中国では「民家」をテーマにしたシリーズ切手を発行したが、この承啓楼の切手が最も人気があったという。

         建築技法の数々

 湖坑鎮新南村の衍香楼に到着した。迎えてくれた蘇野さんは68歳、以前は中学の物理の先生だった。蘇野さんは、土楼の住民たちによって選ばれ、冠婚葬祭や、土楼のさまざまな雑事をとりしきる人望厚いリーダーである「楼主」の一人でもある。私が広東省梅州出身の客家であることを告げると、彼はすぐ客家語に言葉を改めた。懐かしい言葉を聞いて、私は故郷に戻ったような気持ちになり、兄と話しているようになった。

 客家語は、中国八大方言の一つといわれていて、客家の目印となっている。ほかの方言に比べ、客家語には、中原の古語が多く残っている。例えば、「黒」を「烏」、「柴」を「樵」など、古語で表現する。また客家は、南方への移動の際、シェ(ミ)族、ヤオ(瑶)族などの方言を吸収しており、例えば、客家語では、母親を「アウェ」と、シェ族の古語で呼ぶ。

 私は、荷物を置き、蘇さんとともに土楼の内外をまわった。それから土楼の背後の山を登り、村の中央を金豊渓と呼ばれる川が流れ、その両岸に、二十棟近くの環形、方形の土楼が立ち並ぶ風景を眺めた。

 衍香楼は、山の斜面の少し高い位置にあり、建物の背後には松や竹などの緑が豊かに茂る。土楼の前には、アスファルト道路と小さな市場があり、さらに斜面を下ると、金豊渓がある。その支流の小さな川の岸辺で、三人の女性たちが、小さな石橋の上で、野菜を洗ったり、洗濯をしている詩情あふれる姿が見えた。

 衍香楼は環形で、直径40メートル、高さ15メートル、四階建てで、それぞれの階には、34の部屋があり、建物全体では、136部屋となる。一階は、厨房、食堂、客間として使い、二階は、倉庫として、穀物、ラッカセイ、サツマイモ、タロイモなどを貯蔵する。三、四階は寝室となる。建物の中央には、前堂、中堂、後堂の三つの建物があり、ここが公共の場所となる。中堂は、祖先の位牌をまつる祠堂となり、後堂には観音菩薩がまつられている。三つの堂の両側には、半円形の棟があり、一棟は浴室、別の棟は物置に使う。

 土楼には、西向きの大門と、四カ所の階段がある。また井戸が二カ所にあり、良質の水がわく。今では、山の泉の水を利用した水道が各家の台所、浴室などにひかれたため、水汲みに出る手間も要らない。

 衍香楼の前には、複雑なカーブを描いた石垣があり、非常に珍しいものという。これは、土楼を建てた当時、環形楼を石垣でまるく囲むのは、あまりにも単調だと、わざわざ竜の姿のような複雑な曲線を描く石垣で囲み、建物に躍動感を添えるよう配慮したためだという。石垣の端の門楼は、軒が高くそりかえり、その姿は、頭をもたげた竜に似ている。石垣の外の片側には、ブタの小屋があり、もう片側は、厠と農具を置く物置小屋となっている。建物の中は、静かで清潔そのものだ。

 夕食後、蘇野さんと、ほかの二人の「楼主」である蘇国慶さん、そして蘇恒瑞さんの三人とともに、公共の場所である中央の堂の中で話しあった。

 彼らは、この住まいの長所として、地震、火災などへの防災能力をまずあげた。

 建物の底部の壁は厚さ1・5メートル、頂部は0・7メートル。このように上下の壁の厚さが違い、さらに内側に傾いている環形の壁は、求心力があり、さらに建物の柱、梁などは、縦横に組み合わされ堅牢さを増す仕組みとなっている。

 環形楼の土壁は強固で、壁を築く前に、幅2メートル、深さ1メートルの溝を掘り、石を入れる。そして石の上に、さらに高さ1メートルの石の基礎を築く。

 壁土は粘土で、これは最も粘度の高い、田の底の土を使うのが最も理想とされている。ただし、先に土を「精製」する過程が重要で、雑草などをとり除き、その上に水をまき、その後三日間積んでおき、手で握れば、すぐまとまり、地面に投げればさっと散る状態になって初めて使用することができる。

 壁を築く時には、10センチごとにスギの枝と竹を割ったものを入れる。こうしたスギと竹は「壁骨」といわれ、土と一体になって壁をさらに強固なものにする。

 衍香楼は、建てられてから121年の間に、七回の地震にみまわれている。なかでも、最も激しかった1918年2月13日の地震は、前後十分も続き、住人たちは立っていることもできず、田の水は十数メートルもはねあがった。当時、多くの方形楼が倒壊したが、衍香楼など環形楼は損害を受けなかった。

 この地震で、衍香楼近くの、1693年に建てられた環極楼には、30センチもの亀裂が入った。けれど、不思議なことに、次第に亀裂はまた自然に閉じられていき、あとには一筋の跡が残るだけとなり、耐震技術の水準を人々に示してみせた。  また建物の防衛能力にも目をみはるものがある。環形楼、方形楼は、とりでのようでもあり、一、二階の外壁には窓がなく、侵入することができないようになっている。三、四階には、窓があり、採光と通風の役割を果たすと同時に、銃眼にもなる。四階の階段には踊り場が設けられ、そこには周囲を見張る展望台がある。このほか、建物の敷地内には、水源となる井戸、食糧貯蔵庫、臼や杵など、食糧加工の道具もあり、敵の襲撃にも長時間耐えることができる。

 土楼の大門は、石造りのアーチ型の門に木の扉を取り付けたもので、その戸板の厚さは、10センチ、表には厚い銅板を打ちつけ、太い木の棒をかんぬきにし、斧で門を壊されたり、突き破られたりするのを防ぐ。戸板には銅板がはってあるとはいえ、大火が燃えさかれば、焦がされる可能性もある。このため、門の上部には、防火水槽が設けてある。炎に攻められても、水槽から戸板の表面に水を流すと、火を消し、門を守ることができる。

 しかし、衍香楼にも、欠点はある。一階には、壁の外に斜めに伸びた煙突があり、調理の煙を排出するのに役立っているが、この煙突が詰まると中の住民がいぶされる可能性もある。

 この教訓を生かし、1912年に建てられた振成楼では、煙突が土壁の内部に設けられた。煙がどのように壁の内部を流れ、屋根のてっぺんから排出されるのかは、今もって謎だという。

          集団生活の営み

 衍香楼には現在、11世帯が住む。みな、すでに世を去った蘇谷香の末裔だ。客家は、兄弟が分かれて住むのが習慣だが、ふつうは一人が一階のある部屋を分配されると、その真上の部屋がすべてその人に所属することになる。蘇さんは、大門に近い、南側の三間と、その真上の二、三、四階の、あわせて12部屋を使っている。いとこや兄弟が多く、部屋が足りない場合は、長男が土楼に住み、弟たちは、外に家を建てる。

 もし元の部屋の主が他の地方や、外国に移住した場合は、部屋には鍵がかけられたままとなるか、あるいは、兄弟、親戚たちが使うことになる。

 中央の三つの堂は、全住民の公共の場所だ。特に蘇谷香の肖像画がある中堂は、土楼の心臓部ともいえる場所で、住人たちの話し合いがここで行われる。お客が訪れれば、ここが応接間となる。嫁取りの時には、ここが結婚式場になる。娘が嫁に行く時には、家族はここに団欒を象徴する篩を置き、その上に料理を置いて食事をし、その後、娘は先祖に別れを告げ、頭に篩を載せ、父親に手を引かれてかごに乗る。老人が亡くなれば、通夜の場所となり、旧正月には、みなが集まり、年越しの宴会を開き、芝居を見て、賑やかに楽しむ。このように、一つの場所に一族が集まるのはまさに団欒の喜びといえるだろう。

 一族はみな同じ「天街」(廊下のこと)を通り、お互いに助けあう。山深いこの地では、買い物も不便で、不意の来客の時など、家の主人が焦っても、ここでは、近所が互いに助けあう。ある家からは、干しシイタケや干しタケノコ、別の家からは、干しイカ、さらにニワトリや酒さえも次々に届けられる。

 宴席には、当の家長のほか、一族の長老たちが招かれ、各家の代表が相伴をつとめる。そして客は各家の酒や、肴に一通り箸をつけ、もてなしへの感謝の心を表す。一族揃ってのもてなしと、豊富な酒と肴は、主客をともに感動させる。里帰りした女性と婿となった男性には、各家が持ち回りで宴席を設け、我が家の婿とみなしてもてなす。

 一族の推薦によって選ばれる三人の楼主は、みなを率いて冠婚葬祭をとりしきり、もめごとがあれば解決をはかり、農業を営み、建物の管理に伴う繁雑な事務をさばき、国内外からの観光客や研究者を接待するなど実に多くの役目をこなす。例えば、土楼の清掃作業では、一世帯五日ずつの持ち回りで門、廊下、中央の堂、中庭などを清掃する。毎年、旧正月には、学生たちを率いて、全楼の大掃除を行い、清潔を重んじる習慣を養う。土楼の大門の開け閉めも、門のそばに部屋があり、早寝早起きが習慣の蘇野さんが行うという。

 一族が集まって住む土楼では、なにか意外な出来事があるとお互いに助けあう。

 95年のある夜、蘇恒瑞さんの隣の蘇海平さんの部屋から、誰かがベットから床に落ちたような、ドン、という音が聞こえ、続いて奥さんと子供の悲鳴が聞こえた。恒瑞さんは急いで隣家の門を叩いた。すると海平さんが床に倒れ、あたりは血まみれになっていた。急性胃潰瘍による大出血だった。恒瑞さんは、急いで彼を背負い、階段を駆け下りた。この時、一族は全員出て来て、ある者は車を呼び、ある者は必要な品を準備し、ある者は金を取り出し、すぐに湖坑鎮病院に送り届けた。救命措置を経て、海平さんは命をとりとめた。

 2000年9月10日、衍香楼は、120周年を迎え、全楼の老若男女と、海外に移住した後代の約300人が集まり、中央の堂に35の宴席を設けて、その歴史を盛大に祝った。

       祖先崇拝と客家の公祠

 衍香楼は、1880年に建てられた。土楼を建てた蘇谷香は、貧しい少年時代を過ごした。ある日、家に米がなくなり、母親が三升の米を人に借りたことがあった。米を貸した相手は、「こんな白い、上等の米をお前は返すことができるのかい」と母親に言い放った。その話を聞いた彼は憤り、米を相手に突き返した。

 一家はひもじい夜を過ごしたが、この経験が彼を発奮させ、13歳で町に出て丁稚となった。その後は上海の薬屋に奉公し、少しずつ金をためて、ついに自分で薬屋を開き、事業を始めた。

 当時の上海では、刻みタバコの商売が巨利を生んでおり、彼は、次の事業として故郷の農民たちにタバコを栽培させ、自分で刻みタバコに加工して、上海で売った。このタバコの事業で財をなし、土楼を建てた。そして子孫の学問を奨励するため、土楼の名前を衍香楼とつけ、「書香」の家が代々続くよう願った。このように楼や堂の名前、それに門の両側に飾られる「対聯」には、故郷を思い、子孫への希望を託すのが客家の伝統なのだ。

 その後、上海では、外国からタバコが大量に輸入されるようになり、刻みタバコは競争に敗れた。しかし不撓不屈の精神に富んだ客家は、後退することなく、南洋、そしてアメリカに向かい事業を発展させた。

 現在、衍香楼からは、約六百人の華僑が生まれている。例えば、インドネシアだけをとってみても、鉱山事業、木材、ゴム、石油、薬品、食品、不動産と彼らの関わる事業は、広い範囲にわたる。

 偉大な先祖たちの創業の歴史を語る時、楼主たちは、中堂の屏風に掛けた蘇谷香の肖像画を尊敬の眼差しで眺める。

 中国には祖先崇拝の伝統があるが、この、かつての霊魂崇拝に基づく古い習俗は、流浪のなかで、自ら事業を起こし奮闘する客家に特に顕著だ。それは、一族が集まって、祖先の墓や、祠、家系図を作る習慣にも見られるし、子供の誕生、就学、就職、昇進、遠出からの行き帰りなどの時に、必ず祖先の位牌が飾られた祠堂に参り、焼香し、拝礼する日常的な礼儀作法にも見られる。]

 祝日にはいつにもまして、ふだん離れている家族や親戚のことが思われるのは、よくあることだが、伝統行事にあたって一族が集い、祖先を偲ぶ習慣のある客家にとっては、それはなおさらのことである。

 一年のうち、最も盛大な行事である旧正月では、年越しの食事をしたり、年始の挨拶回りをしたり、獅子舞や、竜の舞を行ったりするほかに、最も重要なのは、やはり祖先をまつる行事である。

 大晦日の夜、衍香楼の老若男女は、沐浴をして、服を着替え、家ごとにニワトリ、魚、肉、果物などを携え、五キロほど離れた一族の共有の祠である公祠に参り、祭りをとり行う。そして公祠に宿る祖先の霊を土楼の祠堂に連れかえり、家族揃って年越しのご馳走を食べる。その後の半月、毎日、朝夕、祠堂に参り、正月十五日の元宵節には、祖先の霊をもとの公祠に送りだし、最後に、供物をみなで分ける。

 清明節は、中国人が墓に参り、祖先をまつる重要な伝統行事だが、当地の習わしには特色がある。先に年代が遡る遠い祖先の墓に参り、その後、近い祖先をまつる。しかも、それを清明節の前に終わらせる。そして最も盛大なのは、みなが集まって、一族を興した先祖の墓に参る日だ。この日は土楼の住人総出の行事で、足の不自由なお年寄りさえも、かごに乗ってでかける。みな供物をかつぎ、ドラや太鼓を打ち鳴らしながら祖先の墓へ向かう。墓地に着くとリーダーが祭文を唱え、みなは長幼の序に従って並び、お辞儀を繰り返す。祭りが終わると、その場にかまどを作り、供物を煮て、みなで味わう。

 毎年春の墓参りは、祖先を偲び、一族が団結し、一人一人が精神を奮いたたせる意味があると同時に、楽しい野遊びでもある。だからみな喜んで参加するのだが、特に、お菓子をもらえる子供たちにとっては、またとない楽しみになっている。

 祖先崇拝と一族の団結力は、世界各地の客家に、福建省寧化県の石壁村に客家共有の祠を共に祭る新習俗をもたらした。

 石壁村は考証によると、唐末以来、128姓の客家が、石壁村に140回にわたって移住してきて、その後、また世界各地に移住しているため、ここは客家にとっての揺籃の地となっている。1985年11月、客家公祠の成立以来、毎年陰暦8月1日になると、海外から多くの客家が訪れる。

 2000年11月には、福建省竜岩市で、世界客属第16回懇親大会が開かれた。過去、香港、シンガポール、台湾、日本などが会場となり、今回は福建省竜岩市で開かれることになったのだ。世界各地から訪れた二千あまりの客家代表は、さらに石壁村を訪れ、盛大に祖先を祭った。私自身もその場に立ち会うことができ、客家たちの祖先に対する敬愛の情に深く打たれた。

 石壁村で、私は東京からやってきた胡熹章さんと知り合いになった。彼が完璧な客家語で私に教えてくれたところによると、胡さんの故郷は、永定県の下洋鎮で、二百年前、台湾に移住し、その後、日本に移って、すでに六代目になる。今回、石壁村を訪れ、客家であることに改めて誇りを覚えたという。客家はよく「先祖の田畑を売っても、先祖の言葉は売るな」という。胡さんは、日本で暮らしていても、家では客家語を使い、伝統行事で一族が集まる時も、もちろん客家語を話し、中華料理を食べる。「二人の息子は、客家語が話せるだけでなく、客家の文化をよく研究しています。長男は、慶応義塾大学に学び、卒業論文は、『客家の源流を論じる』でしたし、次男は、中国文化を忘れることなく、大学は台湾に学び、大陸をよく旅行しています……」

 これは客家独特の故郷への思いと中国文化への思いの表れといえるだろう。

          長寿の秘訣

 夜が更けて、蘇野さんは、私を三階の寝室に案内してくれた。扇形の寝室は、約12平方メートル。両側の壁に窓があり、通気がとても良い。足元は以前、木の床だったが、今では、どの家も模様入りのタイルを敷いている。これは美しいだけでなく、防音の効果もある。部屋の右側には、ダブルベッドとタンス、左側には、イスとテーブル、その脇にはまたカラーテレビがあり、全体にとても心地良い。

 旅の疲れか、それとも土楼の静けさのためか、私はぐっすりと眠り、外が明るくなって、ようやく目を覚ました。

 土楼には、静けさだけでなく、長所がたくさんある。夏は涼しく、冬は温かい。夏は厚い土壁が焼け付くような陽射しをさえぎり、冬は吹き付ける風から人々を守る。また土壁は、湿気も防ぐ。雨期になると、コンクリートの壁には水滴が浮き出すが、土壁は湿気を吸い取り、リューマチを予防する。

 朝、土楼の主婦は、すでに起きていて朝食をこしらえていた。トリのぶつ切りの醤油煮込み、牛肉とセロリの炒めもの、骨付きブタ肉とダイコンの煮込み、それにブタ肉とハダカエンバクの葉の炒めもの、「満天星」と骨付き肉のスープと盛沢山だった。

 「満天星」は、野に育つ漢方薬材で、春になると小さな白い花をたくさんつけるため、このような名前がついている。この根を煎じると、甘く、しかも消炎、精神安定に効き目があり、しかも肝炎を予防する。農民たちは、今ではこれを植えて、各地に卸している。

 村の山地では、漢方薬材のほか、カキ、ナシなどの果樹栽培も重要な収入源となっている。カキは甘くて皮が薄く、広州や香港などに売られる。平地では、コメ、ムギ、タバコを植える。コメとタバコは輪作にし、これは収入と主食を確保できるほか、虫害を少なくする方法でもあるという。このほか、農民たちは、山のふもとのちょっとした平地も大切にして、サツマイモやラッカセイなどを植える。

 客家が多くすむ地域では、土地が少なく、人口が多い。過剰な労働力となった青年たちは出稼ぎに行く。蘇野さんの家では、三人の息子たちはみな結婚し、それぞれ福州、竜岩、晋江市に出稼ぎに行ったり、正式に就職したりしている。孫たちは土楼に残り、旧正月など祝祭日には、一家が集まる。

 蘇さんの母上は、95歳の高齢だが、目も耳もしっかりしていて、杖さえも使わない。一日三回の食事は家族と共にし、食欲も旺盛だ。蘇さんは、食事のたびに、まず老人に飯をよそい、赤身の肉や、野菜などをいちいち母に箸でとりわけている様子は、まさに孝行息子の見本のようだ。

 蘇さんの話では、衍香楼には、長寿のお年寄りが多く、彼らの誇りになっている。楼内、それに厦門、福州市をあわせると約200人、そのうち90歳以上は4人、80から89歳は7人、70から79歳は18人。山東や広東などの長寿村と比較しても、土楼の長寿ぶりは際立っていて、まさに「長寿楼」の名に恥じない。

 夏は涼しく、冬は温かく、湿気のない土楼の環境、周囲の豊かな自然、清浄な空気。飲食に注意し、老人を敬い、互いに睦まじい土楼の暮らしこそが、その秘訣といえるだろう。

         風雨橋の民間信仰

 新南村の金豊渓には、二本の橋がかかる。一本は、アメリカ在住の華僑、蘇福祥の末裔によって建てられた石造りのアーチ橋。もう一本は、木の橋で、長さ30メートル、幅4メートル、橋の上には屋根があり、村人たちは欄干沿いのベンチに腰かけて世間話をしたり、休憩したりする。人々は、これを雨風から守ってくれる橋という意味で、「風雨橋」と呼ぶ。

 この屋根は、そもそも、橋に重量を加え、洪水でも流されないように工夫されたものだが、後には、通行人の休憩、社交、宴会などに使われ、橋の上に市が立ち、納税所がおかれて、多彩な橋の文化を繰り広げた。

 橋の東側には、橋の神をまつる廟があり、広さ、高さはともに約1・5メートル。焼香が絶えることなく、村人は平素からこの神に安全を祈る。毎年、春の始めになると、各家ではお布施をし、操り人形劇団を招いて、橋の西側で三日間、芝居を続け、神に奉納すると同時に、村人も大いに楽しむ。

 私はいくつかの土楼を訪ね、どこにも観音が祭られているのを目にした。観音は、大慈大悲と考えられ、災害から庶民を守るとして、広く信仰されている。陰暦の毎月1日、15日、衍香楼では、観音菩薩に焼香し、供物を捧げる。2月19日の観音の誕生日、6月19日の観音成道日、9月19日の観音出家日には、劇団を招いて芝居を催す。この時、屏風をとりのぞいた中堂は、舞台になり、土楼の住人たちはもちろん、その友人、村人たちが集まって楽しむ。

 観音が広く信仰されているとはいえ、客家には特に固定的な宗教を信じているわけではない。旧時は、仏教、道教など様々な神が同居していて、老人たちは家に病人が出たり、災いがあると、祠堂で焼香した。彼らは、どの神がどの宗教であるか、明晰に区別しているわけでなく、自らを慰め、災いから身を守るものとして神を信仰しているのだ。

         独特の二次葬

 午後、西の方角の方形楼から爆竹の音が聞こえてきた。話を聞いてみると、アメリカ在住の華僑、蘇汝恭さんの法事ということだ。彼は70を過ぎて亡くなる前、たとえ遺骸を故郷に葬ることはできなくても、墓の土を故郷に持ち帰って埋めてもらうことを強く望んでいたのだった。

 数日前、故人の兄と甥は、世界客属第16回懇親大会に参加した機会に、土を小さな袋に入れて携帯した。そして彼らは、和尚と道士を招き、法事をとりおこない、故人の位牌を蘇氏の宗祠に安置し、老人の魂がついに故郷に戻ったことを示した。そして最後に土を山の斜面に埋め、墓を作った。

 客家の死者の葬り方では、まず先に「買水」を行う。川に硬貨を放り込み、神から水を買ったことを示してから、それを持ち帰って死者の体を清め、服を改め、親類や知人に死亡通知を出し、祭壇を設け、納棺をし、その後、出棺して山上に埋葬する。このあたりまでは各地の民俗的習慣とそれほど変わらない。

 客家の葬儀特徴は、それから3〜5年して、遺骨を拾って再び埋葬する「二次葬」を行うことだ。陰暦の8月1日から寒露までの20日間に、遺族は、ふさわしい日を選んで、墓を開け、遺骨を拾い、これを椿油で清める。客家はこれを「牽起来」(眠りから起こす)と呼ぶ。その遺骨を人体の構造に従って「金オウ」という瓶におさめるが、この行為は「シ焉vと呼ばれる。その後、死者の名前と生没年月日を丸い蓋に記して「金オウ」を封じ、レンガと土で墓を作る。

 このような習慣は、客家の大移動と関係があるといわれている。彼らはどこに移動しようとも、先祖の遺骨を瓶に入れ持ち運び、定住してのち、それを埋葬した。遠くまで墓参りにいけない彼らは、このような方法をとるしかなかった。早くも六千年前、陝西省西安の半坡人は、瓶を用いて未成年者を葬る習慣があったという。客家には、このような古代からの埋葬の習慣がずっと継承されているのかもしれない。

        何よりも教育を優先

 夕日のなか、子供たちが鞄を背負って家に帰ってくる。新南村培正小学校は、環境も校舎も美しい。特にインドネシア在住の華僑、蘇運仁氏の寄附で、彼の母親の名前をつけて建てられた校舎、珍蘭楼はひときわ立派だ。古びた土楼群のなかに、白亜の三階建てのビルが立っている様子は、特に目をひく。

 教育を重視するのは、客家の伝統だ。「詩書を読まねば、目が見えぬに同じ」という言葉が村には伝えられ、子供たちに学ぶ心があれば、家庭はどんなに貧しくても最大限の努力をして、学問をさせる。

 また一族には、一族の祖先が残した共有の畑や山があり、その収入の大部分は、子弟たちの教育に使われる

 改革開放以降、村人の教育への関心は高まり、海外の華僑も競うようにして寄附を続け、故郷に校舎や宿舎、図書館などを建てている。新南村などいくつかの村は、湖坑鎮中学から十キロあまりもあり通学に不便なため、1985年、村のリーダーたちの指導下、村人と華僑は資金百万元をつのり、僑南中学を建てた。

 勉学を重んじる衍香楼では、子供たちが言葉を話せるようになると、周囲の大人は唐詩を暗誦させるという。土楼の子供たちは、みな学校に通い、未識字者は一人もいない。国内の土楼の末裔は200人、そのうち大学の教師が六人、中学の教師が18人、小学校教師が29人、そのため「教師楼」とも呼ばれている。

 1992年、衍香楼出身の華僑は、資金二万元を募り、助学基金会を設立した。楼主たちは、毎年の利息の動きを見ながら、大学生と勉学、運動、素行に優れた「三好学生」を援助する。その金額は多いとは言えないにせよ、子弟たちの学習を奨励する。香楼と、海外に暮らす末裔を併せ約800人の中で、博士は2人、修士は10人、学士は118人、そう語る蘇野さんの顔は誇りに輝いていた。(2001年7月号より)