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北京大 清華大 エリート学生十人の心の声 |
写真 黒 明
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多彩かつ単調 王 ロ(王に路)
大学生活とは何だろう? 以前、近所の兄さんに言われた言葉が蘇って来る。 大学1年、我が無知を知らず。大学2年、我が無知を知る。大学3年、我が知性を知らず。大学4年、我が知性を知る。この言葉を聞いた当時は、兄さんの機知に感心したが、その反面、言い回しが難しくてめまいがしたものだ。 「大学は知識を学ぶためにある」。入学前、こう考えていた僕は、大決戦にでも備えるように入念な準備を始めた。様々な計画を立てた回数は、食事の回数より多いくらいだった。朝六時起床。マラソン。英語の音読……ただし、結局はマラソン以外、実践できなかったのだが。
一日目、スタート地点に到着した僕は、すでに十数番目だった。それから、一番になってやろうと張り切って、すごい勢いで駆け出すと、みなも負けずにスピードをあげた。それでも、なんとかトップに立ったのだが、ゴールが分からなくて数百メートルも先まで走ってしまった。それに、一時間目の授業は、疲れて居眠りしてしまった。その時はうつらうつらしながら、今後、授業中は絶対に眠るまいと決心した。けれど、それからというもの授業中には、何の原因もないのに居眠りしてしまうようになった。 僕の周囲にはエライ人物が多い。寮の相部屋の同級生たちは、名作文学を山ほど読破していたり、天文学や地理にとても詳しかったり、あるいは、哲学や禅の世界に通じている。 一番驚いたのは、コンピューターの授業で、プログラミングの勉強を初めて一カ月もたたないころの出来事だった。僕が唸りながら作業している脇で、一人の女学生がゲームで遊んでいるのに気がついた。彼女はプログラミングは未経験だと聞いたことのあった僕は勘違いして、「諦めたんだね。僕もプログラミングは全然だめだ。そのゲームどこでコピーしたの? 僕にもやらせてよ」と話しかけた。彼女は続けて遊びながら、特に自慢でもない様子で「これ、私がプログラミングしたの」と答えた。まったく、その時の僕の思いは、ベットから寝ぼけてガクンと転がり落ちた瞬間そのものだった。 僕は笑い上戸で、ブスッとしていることがほとんどない。寮の同室の友人たちも同じで、僕らの部屋は、一番にぎやかで、笑い声にあふれていること、それに一番汚いことで、名声が轟いていた。抜き打ち衛生検査では、ふとんの中に食器があり、食器のなかに靴下があり、靴下のなかに鉛筆がある、という具合で、「最高」の評価を頂戴していた。 数学はまったくのロジックなので、みんなで論争するものではない。だから僕たちは、そのほかの話題――サッカーから文化、国際関係、軍旗のデザインまで――でよく論議していた。ある時、実際のところはどうでもいいような話題で、深夜二時まで論争が続いたことがあった。全員の顔は真っ赤、理屈を説き、実例を挙げ、分析をして、翌日は誰も話ができないほどだった。 きまりが悪かったからではなくて、単に喉が痛かったからだ。 僕は大学生活について、そううまくは書けない。大学生活は僕にとっては、多彩かつ単調、ロマンチックかつ退屈、そして自由かつ機械的な日々だった。1日12時間寝ることもあれば、1日15時間勉強することもあり、1日25時間遊ぶことだってできそうだ
最高の贈り物 高 潔
北京大学に入学した一年目、私は17歳になったばかり。あれほど長い間の夢が現実になったのに、自分でも信じられないほど冷静でした。 仕事が忙しい両親は、私の面倒をみる時間がほとんどありませんでした。私が高校三年の時は、ちょうど西安ラジオ音楽局の立ち上げにあたり、父は事務に追われて、何日も自宅に戻らないこともありました。母は勤務先で要職にあり、しかもその場所が遠く、しょっちゅう接待の席などにも出なくてはならず、朝早く家を出て夜遅く帰る毎日でした。 私は昼は、いつも自分で何か食べ物を探して済ませていました。夜には勉強の合間に眠ってしまうこともありましたが、家には誰もいないので、ふと目を覚まして自分がベッドにいるのを発見するだけでした。昼間ずっと会えなかった両親に打ち明け話をしたいと部屋をのぞいてみても、二人は疲れ切って、ぐっすり眠っています。明かりをつけたままのことも多く、私がそっと明かりを消し、ふとんを掛けてあげていました。 自分の部屋に戻り、開いたままの教科書を見ると、淋しくなって涙が出てきました。でも、その後で責任感のようなものがこみあげてきて、それが私に勉強を続けさせることになったのです。大学入試の三日間も、母はよその両親のように私を試験会場に送ってくれることができず、私は自分でバスに乗り、会場に向かいました。ただし、母は私が安心して試験を受けられるように、毎日昼、家に戻り、食事を用意してくれました。家に戻ると、熱い食事ができあがっていて、そのあとすぐ休むことができ、午後はまた元気いっぱい試験を受けることができました。あとから考えてみるとあの三日間は、学校に上がって以来、最も幸せだったと思います。
髪の毛と人生 ホウ淑涌
子供のころから髪を切るのが嫌だった。だからずっと伸びるままにしてきたけれど、二度ばかり、強制的に刈られたことがある。最初は、六歳、遊んでばかりいて風呂にも入らず、髪にシラミがわいた時。見つけた父に怒られ、坊主にされて、長い間鬱々と過ごした。 そして二度目は、高校三年生の時だ。 高校の勉強は、学生生活のなかでも最も大変だと思う。まわりの友人たちは必死に食ベて寝てエネルギーを溜めこんでは、さらに必死に勉強し知識を吸収して、エネルギーを消耗させる毎日だった。けれど僕は、あまり向上心がなくて、必要な勉強時間以外は、休み時間にしていた。 子供のころ、木登りしたり、川に潜ったりしていた能力が、ここで発揮された。学校に上がると、その代わりがバスケットボールになった。中学校の時から始めてはいたが、高校になってからは、まったく新しいレベルに到達した。ドリブル、パス、ガード、フェイント、十八パターンの得点方法は、スタッフ・ショット以外、すべてマスターした。それ以外に、僕は歌やダンスが得意で、学校の文芸活動があると、掲示板の知らせには、およそ僕の名前が必ずあった。それに、他人と違った髪型が人の注目を集め、そのなかには初恋の相手もいた。 僕と彼女は一年半にもわたる「友達以上、恋人未満」の状態を経て、正式に恋愛プロジェクトを開始した。僕はとくに舞い上がりやすいわけでなく、恋愛は初めてだった。困惑か、それとも陶酔なのか、どちらとも言えないが、それは雲のように空中をふらふらとさまよっているような気持ちだった。 でも、僕たちは二年にわたる幸福と苦痛をともに味わったあと、別れた。その時は、夢の始まりにも終わりにも似ていて、自分の持っていたものが一瞬にしてすべて消えた。一夜の間に大金持ちから物乞いになった。 失恋した自分の行動はとても俗っぽく、小説やテレビで見るのと同じく、一人、部屋の隅に身を潜め、大声で泣き、酒をのみ、タバコを吸い、小刀で自分の指を傷つけたりした。ただ、人と違ったのは、五日目に、床屋に行って髪を切ったこと。これが僕の第二回目の坊主頭となった。そして人生の転換点になった。 その日は悲壮な思いで床屋に向かった。鉄のワナに脚をはさまれた狼のように、自分で脚を噛みきって逃げ出そうとしていたのだ。 「頭からやり直し」。これが床屋を出て自分につぶやいた第一句だった。あと半年で大学入試が迫っていた。このために、12年間待っていたチャンスを失いたくなかった。 それからの半年は12年間で一番必死だった。すべての課外活動を止め、食事の時間も移動の時間も惜しくて大急ぎで済ませ、当然、髪をとかすのも省略した。その狂気の様は、僕のもともと豊かだった想像力を以って事前に考えていた程度を、はるかに超えていた。 この半年の結果、それほど目立つ成績ではなかった僕が、大学入試の成績は全校一だった。ちょっとした騒ぎになり、特に僕の良からぬ過去を知る人々を驚愕させた。彼らは失恋の痛手は髪の毛と共に葬られたのだと思っているらしい。
夢を追って 孫燕君
小さいころは特に高邁な夢を描いていたわけではなくて、周囲は田舎によくある出来事や人物ばかりでした。時々、母に連れられて県の中心の大きな町に行くだけで、自分がえらくなったような気がするほど、いつか大きくなって町で ュくということさえ、考えもしませんでした。 村では、そのころ大学はもちろん、高校に行く人もごく少なく、子供たちの望みは、中等専門学校にあがること、そして小さな畑を耕すのではなく、勤め人になることです。そのころ私は北京大学など知らず、北京といえば、天安門、北海公園の白塔、それに万里の長城しか分かっていませんでした。 それでも重点高校にあがると、世界の違いが分かりました。ここでは先生方も同級生もみな熱心で、こんな環境のなかにいるうち、私も自分の目標について改めて考えさせられるようになりました。両親はともに「分を守る」おとなしい農民で、特に教養というものはありません。小学校卒業の母が、家では一番多く字を知っている人でした。 両親は特に私に目標を与えたわけではありません。彼らは、額に汗し、土地を耕して得たお金を私にかけて、食べさせ着せて、そして学校に行かせてくれました。私は実際の行動で両親に報いるしかないのです。 成績が上がるにつれ、私の理想も大きく変化し始めました。山東を出て北京に、もっと広い天地に行きたくなったのです。ただ、この考えは私に有形無形のプレッシャーを与えました。自信と劣等感がないまぜになるなかで、志望校を決める段になって、長年憧れてきた北京大学を避けて、北京の別の名門大学を志願先にしました。でも運命は私をもてあそび、統一試験は北京大学の合格ラインを上回る成績でした。でも、もちろん北京大学には入ることができず、青島大学からの入学許可通知を得て、意気消沈してしまいました。 青島の海と山に身を置き、浜辺を散歩し、打ち寄せる波の音を聞いていると、心がまた刺激されました。こんなことで自分の理想を失ってはいけないと思えてきたのです。修士課程に進むこと、それも北京大学の修士課程に進むことを心に誓いました。でも、このような向上心と自信は長く続かず、学校の先輩たちの北京大学進学失敗の知らせを聞き、私はまた一歩後退しました。そしてまた北京の別の大学を志願したのです。そしてまたも運命のいたずらで、ただの一点の差で、上京することができなかったのです。 弱い心にまた大きなショックを受けました。ただ、私はもう大人で、簡単に諦めるわけにはいきません。仕事をやめ、受験の準備を始めました。修士課程の試験会場では、まわりはすべて北京大学進学希望者でした。同じ夢を追う人たちの姿に心打たれました。私たちは一番できる学生ではないかもしれないが、でも北京大学に挑戦する勇気は、みな持ちあわせているのです。 そこに至るまで長いまわり道をしたとはいえ、私はついに北京大学にたどりつきました。農村出身の女性にとって、北京大学で学問を続けられるなら、一生何の悔いも残らないことでしょう。でも、私の心は、だからと言って、うきうきした気分にはなりません。 夢を見るには足元の基礎がいります。生活の背景が黄色い大地であるなら、人はそこにあまりに高い理想を描くのは不可能ですし、自由自在にそこから飛び立つような想像をすることは難しいでしょう。少しずつ生活を変えていくことで、一生を賭けるに値する大きな夢が育まれていくのです。私はこうして一歩一歩進んできました。これまでの道を振り返ると、感傷的になってしまうのです。
北京大学の三角広場 陸寧波
北京大学のなかで、誰もが毎日必ず行く場所といえば「三角広場」だ。その名前は全国に轟いているが、でも実際の景色は人を拍子抜けさせる。それは、十数枚の鉄製の掲示板で囲まれた三角形の広場に過ぎない。そこには、様々な知らせやポスターが貼ってある。例えば、某作家の講座の開催日時。アメリカ留学資格獲得を目指すGRE班。失くし物の呼びかけ。毎日、昼休みや下校時間、三角広場は学生たちでいっぱいだ。何かを知りたい時、何かが欲しい時、あるいは、そんな理由がなくても、みなそこへ集まってくる。 私が三角広場の有難みが初めてわかったのは、大学一年の冬だった。掲示板に大きなポスターが貼られていた。著名な作家、余秋雨が日曜日の午後二時、視聴覚教育講堂で講座を開く! 私は驚いてそこに数十秒もぼうっとしていた。高校の時に、偶然、彼の著作である『文化苦旅』の紹介を見かけたことがあり、その本が欲しくて夢にまでみた。でも作者に実際に会えるなんて、夢想だにしなかったことだった。
日々は川の流れのように過ぎていく。夕方6時、キャンパスの四隅におかれたスピーカーから美しい音楽が流れ出す。その大部分が名曲のメロディーに唐詩、宋詞の歌詞をつけたもので、聞いていると全身が空気に溶けていくようだ。夕日がキャンパスの上空を染め、その下を鞄をもった多くの学生が急ぎ足で行き来する。そこには、うまく言えないけれど、確かにある種の情緒がある。 1999年5月、すべての中国人の怒りは、駐ユーゴスラビア中国大使館の被爆事件によって燃えたぎっていた。ニュースを聞いて約3分後、寮の窓の外にシュプレヒコールが聞こえた。私は走り出し、まず情報交換の場である三角広場に向かった。到着すると、私はすでに出遅れていたようで、そこは何重もの人垣に囲まれ、入っていくこともできなかった。およそ、何かを貼ることのできる場所には、反アメリカのスローガンが貼られていた。私の怒りも次第に高まってきた。人もだんだんと増えてきて、別の学校からきた学生たちや、記者もいた。長く体に溜めていたエネルギーと情熱がこの一瞬に爆発したようだった。 事件はすでに過去となり、日々はまた以前と同じように流れている。でも私は、あの時から北京大学を真に愛するようになった。私は、激情が身体に溢れる感覚が好きだ。若者には、情熱があっていいのではないだろうか。あの一瞬以上に私に、自分は炎帝、黄帝の子孫であり、北京大学の一員であると感じさせてくれた時はない。
奮闘は続く 楊徳竜
私は悠久の歴史の地として名高い河南省夏邑(夏王朝時代から続く町)に生まれた。よその土地の人々にとっては驚くべきことだろうが、ここでは貧しく日々の食べ物さえろくにないような家でも、中庭には子供たちが何人も走りまわっている。子沢山をもってよしとする農村の遅れた思想によるもので、しかも人々はそれが男の子であることが重要で、男が多ければ何も恐れるものはないと考えている。この土地では、男の子が多い家は、金持ちの家よりもずっと威勢が良かった。
少年時代の私は聞き分けがよく、学校ではよく勉強し、家に帰ると庭で武術の練習、しかもそれは一年中休みなしだった。終日、勉強と鍛練を続けるなかで、私は次第に人に誇れる体と成績とを獲得していった。私に武術を学ばせようとずっと思っていた父は、次第に迷い始めた。親類や隣近所は、私を「末は清華」だと話しあい、父には勉強をやめさせないよう忠告した。父はよく考え、ついに私に大学受験させることにした。 12歳、中学に合格、家を離れ見知らぬ土地での生活と勉強が始まった。自由な生活への夢は、たちまち苛酷な現実にとって代わられた。ホームシックになり、食欲はなく、勉強にはついていけず、上級生からはいじめられた。幸いにも私はここでおじけづいてしまうことはなく、かえって勉強に励むようになった。他人が遊んでいる様子を見て、自分も怠けたくなると、いじめられた時の光景や、父の厳しい視線が浮かんできた。 一学期の期末試験は全校一位だった! 父はそれを知って慰められたような笑顔をみせ、励まされた私はもっと頑張りすべてのエネルギーを勉強に注いだ。その結果、毎学期、全校一位になっただけでなく、全県の統一試験でも第三位になった。重点中学というわけでもない私のいた中学では、それは想像もできないような事件だった。先生や同級生の私を見る目はかわり、奮闘努力することの喜びを初めて知った。 3年後、県で最もレベルの高い高校に進み、ここで目標は清華大学進学に定まった。河南省には、15万七千人の理科系受験生がいて、清華大学の河南省からの募集人数は、ただの60人だった。 1998年、私の高校から史上初めて、清華大学への合格者が二人出て希望がわいた。模擬試験の結果が良かったので、高校2年で、飛び級で清華大学を受けることにした。疲労困憊し、痩せてしまったほどの一カ月が過ぎ、どのように上京するかうきうきと考えていたころ、不合格の知らせが届いた。棒で殴られたように、突然目が覚めた。でも自分は常に勝ち続けるヒーローなどではないのだ。失敗で猛反省し、二度と奇跡などあてにせず、ひたすら勉強を続けた。 勝利の日がついに来た。18歳の誕生日、合格通知を受け取った。その時は、飛び上がるほど喜ぶのかと思っていたが、むしろ冷静だった。十年間の苦労と、十年間の望みがとうとう実を結んだ。このためにつらい思いをして、多くの涙を流した。そう思うと、私の鼻の奥が少しむずかゆくなった
自己責任 辛 勇
僕が生まれる以前から父は仕事で香港に行っていた。中学二年生の時、母も香港へ行った。この世に生まれて以来最大の喪失感に襲われたが、同時に自立した。高校入試の時は母に電話で相談したが、彼女はただ一言「自分で選びなさい」というだけだった。その結果、僕は全市のトップレベルの高校に合格した。高校の三年間は、大人になるための大事な期間であり、この時に僕は自分の人生に最も影響をおよぼすだろう、ある選択をした。 ある日、香港から母と姉が戻ってきた。午後、姉が学校に電話してきて、僕にすぐ家に帰るよう言った。それは、香港への定住許可が出たという知らせだった。家族はみな喜んでいたが、僕は窮地に陥った。香港へ行けば、また母にいろいろ面倒をみてもらえる。たぶん、将来的にはチャンスも多いだろう。家族のなかでは僕だけが大陸部に残っていたので、これでやっと一家団欒ができる。家族はみな僕が当然香港に行くものと思っていて、ただ僕だけが違う考えだった。 母と離れた数年、僕は完全に一人の生活に慣れた。学校でもよい成績をおさめていたし、自分の将来に対しても自信に溢れていた。大陸部の経済発展は素晴らしい勢いで、展望は明るい。香港はすでに祖国に復帰していることだし、自分は大陸部に残ろうと決めた。でも家族には何と言ったらいいのだろう? 家に戻ると、ドアの中から親戚や友人たちの話し声が聞こえてきた。そっと開けると、家族は僕を見てとても喜び、特に母が一番喜んでいた。 「おかえり、ずいぶん遅くなったね。早く鞄を置いて、スープをお飲みよ」 僕は黙々と部屋に戻り、ベッドにごろりと寝転んだ。ドアが細く開いた。 「荷物はまとめたかい? 明日の午後、出発だよ。飛行機のチケットはもう買ってある。起きておいで」。僕はゆっくりと起き上がり、のろのろと台所に向かい、母に自分の決意を話すことにした。「母さん、僕はここが好きなんだ。残ることにしたよ。ごめん」。母は言いかけた言葉を飲み込み、何も答えなかった。沈黙! 僕も何も言わず、また自分の部屋に戻った。長い時間がたって――少なくとも僕には長い時間に思えたのだが――母が入って来た。その表情からは笑顔が消えていた。母はベッドに座り「まだ、荷物をまとめてないのかい?」と言うとまた立ち上がった。ドアまでいくと、長いため息をついて振り返り、「もしお前が残るにしても、香港で手続きを済ませてからだよ」と言う。その声は小さかったが、はっきり聞き取れた。谷底に落とされたようだった僕の心は、また躍り上がった。 大学入試が近付くと、家族は香港で進学するよう言う。僕はまた自分の道を貫くことになった。ただ家族には僕の計画は話さなかった。母と姉は僕に何度も「外省の大学を受験するんじゃないよ」と言ってきた。それが彼女たちのただ一つの要求だった。広東省では、両親たちの多くは、子供たちがよその大学に行くことを望まない。ただ彼女たちには気の毒なことに、僕はその望みさえ満足させることができなかった。彼女たちに聞かれるたび、「合格してから教えるよ」としか言えなかった。 志願表には、嫌でも何でも四大学しか記入することができない。清華、北京、復旦、上海交通大学、を書き込んだ。四つともだめだったら、香港だ。自分にはこう言い聞かせた。 そして、誰にハッパをかけられたわけでもないが、僕は清華大学に進むことになった。
支えてくれた人たち 劉 剛
僕は農村出身、家のおもな収入源は、父が面倒をみていた30匹の羊です。上には祖父、祖母、下には学齢期の僕と妹、両親の負担はとても重いものでした。僕のいた中学は、故郷の鎮の中学で、農村の学校だったため、環境は決してよくはなく、合格して進学することだけが、環境を変えるただ一つの道だと分かっていました。だからいつも自分の前にいる人に追いつくようにし、最後には全校二位の成績で、広渠門中学宏志班にあがることができました。 このクラスは、北京の貧困家庭出身で、成績優秀、品行方正の生徒たちのために設けられたもので、まさにある同級生の表現どおり、井戸の中に落ちた人間に投げられた救命ロープとでもいえるものです。高校三年間の学費、教材費はすべて免除され、学校の先生たちは、父母のように生徒たちに接してくれました。 入学したばかりの中秋節、別のクラスの生徒たちが家に帰ることができない僕たちのクラスの生徒を家に招いてくれました。僕は李屹昆という生徒の家に呼ばれ、彼はご馳走を作ってもてなし、食事のあとは様々な話をして、都会に来たばかりの僕達の心を温めてくれました。 学校では先生たちがよく生徒たちを助けてくれ、なかでも韓先生は、よく服をくれたり、ほぼ毎月、僕に生活費として50元を渡してくれました。大学に合格すると韓先生はさらに600元を渡し、よく勉強するよう励ましてくれました。3年間の先生、同級生、それに様々な人たちの恩は、一生かかっても返せるものでなく、ただ良い成績で報いるしかありません。 農村の中学から高校に入ったばかりのころは、ただ慣れませんでした。たぶんそれは農村と都市の教え方の違いによるところが大きいのかもしれません。僕はいつも勉強することが多く、しかも難しいように思え、宿題さえやり終えることができませんでした。同じように思う同級生も多く、僕たちのクラスは、夜遅くまで頑張り、一番遅い時は夜中の二時になりました。でも、すぐ効果が出たわけではなく、授業中は集中できず、一種の悪循環をひきおこしたのです。それで夜更かしをやめることにしましたが、成績はあがらず、高一時代は、悩みと迷いのうちに過ぎました。高二になると勉強方法がつかめるようになり、成績も少しずつあがりだし、高二の最後の期末試験では、全校第一位になり嬉しくてたまりませんでした。 高三になると、成績が下がりだし、また奮闘が始まりました。毎日午前4時には自習室にむかい勉強を始め、大学入試が近付くと、もっと必死になりました。僕の成績はそれほど良くなく、二度の模擬試験の結果も芳しくなく、清華大学の合格ラインには3、40点も足りませんでした。自分の能力に自信がなくなりましたが、先生たちやクラスメートに励まされて、やはり清華大学を志願先にしました。結果は622点の成績で合格でした。 もちろん嬉しかったけれど、クラスメートと同じく学費が先決問題になりました。ここで僕たちは多くの援助を得たのです。村の人々、県民政局、鎮政府があわせて5000元をカンパしてくれ、県民政局が僕のかわりに四年間の学費を払ってくれることになりました。僕は全県の人々の希望を担って清華大学に進み、新生活が始まりました。 これから先は長い道程ですが、僕を助けてくれた人たちのことは決して忘れることがないと思います。
人生が巡る季節 馬 莉
私が生まれた家庭は芸術的な空気に包まれていた。父は画家で、幼い私に芸術的な教養を身につけさせようと、ダンス、音楽、書道などの習い事をさせた。ただ好き、というよりも、父から受けついだ全身に流れる血のせいか、私は絵画に天賦の才を受けたようだ。高校では、美術専攻を志望し、芸術の道へ、はずむ足取りで一歩を踏み出した。 絵画の創作は苦しいことでもある。劣悪な生活条件の農村に行き写生をする時は、一カ月もそこに住みこむ。蚊に刺され、風に吹かれ、太陽にさらされ、気分がめいってくる。そんな時いつも、滝のような汗を流しながら創作に熱中する父の姿が脳裏に浮かんできた。 高校一年のある夏、父が全国美術展に参加することになった。父はそのために太行山脈を歩き回った。そこにはどれほどの父の足跡が残っていることだろう。戻って来ると、父は小さなアトリエにこもり、休むことなく創作を続けた。食事の時間も忘れてしまうので、母はいつも私を呼びにいかせ、私はいらいらしながら窓の外から叫んだ。 ある日、どのくらい出来たかが見たくなり、アトリエに向かった。狭く暗い廊下を進んでいくと、奥のドアの隙き間から一筋の光がさしている。ドアをあけると、キャンバスの前に座っている父の汗だくの背中がみえた。床には使い古した絵筆と絵の具のチューブが散らばっている。私がそばに近寄っても、父は気がつかない。この瞬間、奇妙な感動におそわれた。芸術の路上では、私には父の背中だけがみえる。私がもっと良い創作ができれば、父を追い越すことができるだろう。なぜなら私は父の娘なのだから!
地下での生活はまったく耐え難いものだった。冬は寒くじめじめし、本のページさえ、湿気でいつも皺がよっているほどだった。冬の深夜、外には強風が吹き荒れ、地面に近い窓には、吹き飛ばされた小石やゴミがあたって音をたてていた。夜は、いつも真上の階の水洗トイレの音で目が覚め、ごく薄い天井板の上の排水管に汚水が流れていく音が聞こえた。厳寒の時期には、私と同室の友はベッドを寄せて、互いの体温で暖を取った。地下室には私のような受験生がたくさんいて、なかには何年も続けて不合格になり、それでもまだ努力している若者もいた。彼らと一緒にいると、勉強への熱意に満ち、暖かい家庭にいるより、自覚がわいた。 時間は飛ぶように過ぎ、苦しい補習も、大学入試もすべて終わった。焦りの日々のなか、ついに清華大学からの合格通知が、美しい蝶のように手元に届いた。長年の理想がついに実現したのだ。
真の清華人 張 凱
大多数の人とは違って、僕は中学時代には清華大学に対して、特に崇拝の念はもっていなかった。だから、清華か北京大学でなければ、という人達のことは理解できなかった。その反対に、清華大学を志願すべきかどうか、かなり長い間迷った。 大学一、二年を終えて初めて、清華大学を崇拝するようになった。清華大学はその深く内包するものによって、様々な面で学生たちに影響を及ぼす。ここでの時間が長くなるにつれ、僕は真の清華人と自分との隔たりをだんだん感じるようになった。 清華大学の建学は、屈辱の歴史だった。清華の学生は一代、また一代と誰もが中華を振興し国辱を晴らす、という願いを抱いていた。入学後、最も多く聞いた言葉は、「清華を選択した者は、責任を選択する」というものだ。大多数の清華大学生は、自分の肩に中華振興の責任がかかっていると自覚している。聞一多、朱自清から朱 基総理、そして在校生にまで、この伝統は連綿と続いている。 清華に入学する前は、僕はこの問題に関してあまりよくわかっていなかった。もちろん口先で表面的に発言することはできたが、それと清華の伝統とは遠く隔たるものだ。ここでは大言壮語を聞くことはなく、ただ学生たちの行動からそれを感じとることができる。つまりこれが「行動は言葉にまさる」というものだ。清華の校訓は「自強不息、厚徳載物」である。崇高な目標を抱いて初めて、人は強くなることができる。社会に対して責任感をもってこそ、私利私欲を捨て、厚い徳を積むことができる。一代一代の清華の学生がこの二点において努力したからこそ、今日の清華がある。 清華の学生として生きることは、疲れることでもある。真の清華人であろうとするほど、自分が至らないことを知るばかりだ。小学校から高校までいつも一番であった僕は、自分でも天狗になっていたが、清華に身をおいて初めて井戸の中の蛙であることがわかった。 清華では、ある面において自分より優れた人間がいくらでも見つかるし、もっと言えば全面的に自分より優れた人間だっている。クラスには、僕も含め大学入試の成績が省内ベストテンの人間が十数人もいるし、国際数学オリンピックの金メダリストもいる。競争は残酷極まる。入学してまもなく僕は自分の新しい位置を知ることになり、それは苦痛に満ちたものだった。
清華の生活は苦しい。僕から若者の笑いは失われ、両肩には責任が重くのしかかる。白髪の教授が授業のために、苦労して自転車をこいでいる姿を見ると、心が打たれる。ある教授が僕に贈ってくれた言葉をよく思い出す。「新苗の青天に伸びるを望む」。先輩たちはすでにじゅうぶん我々の手本となってくれている。我々に怠けられる理由などないだろう。
(2001年8月号より) |