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私営経済の23年 |
文・李耀武 写真・郭 実ほか
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特集1 復活した起業家たち 民営企業はまた「私営企業」とも呼ばれ、そのなかには個人経営者、郷鎮企業、三資企業(中外合弁企業、中外合作企業、全額外資企業)が含まれる。 中国の私営企業は50年代、中国経済から姿を消した。当時の指導者は、私営経済は資本主義であり、制限と改造が加えられるべきだとした。その後まもなく中国には国営企業と半国営的性格の労働者が所有する集団(所有制)企業のみが存在するようになった。 ただしその後の20数年で証明されたのは、経済形態の多様化が経済発展にとって必須であることだった。なぜなら国営企業が一切の経済活動を包括することは不可能であり、不適切である。それは国民の商品に対する千差万別のニーズを満たすことができず、市場には商品が不足し、生活の各方面に不便をもたらした。 1978年、中国の歴史は重要な分岐点を迎えた。同年12月、党の11期3中総で、指導部は思想解放し、50年代以来、長く人々をしばってきた極左思想をやめ、経済の領域に、理性と現実に基づいた指導を復活させた。ここで30年近く禁じられていた私営経済が息を吹き返すことになった。改正後の最新の憲法では、私営企業を肯定し、それを社会主義市場経済の重要部分であるとしている。これは私営企業が勢いのある成長を経て、いまや中国において欠かすことのできない存在になったことを表している。 勢いは雨後のタケノコ 1978年には、政府は私営企業に対しその発展を支持する政策を制定したわけではなかったが、私営経済はとどめることのできない勢いで出現した。1980年前後、中国の都市や村では、様々な雑貨などを売る屋台や、小さな店、作業所などがあらわれ、商業、工業における「個体戸」(個人経営者)と呼ばれた。彼らが従事するのは主にサービス業、飲食業、日用雑貨の売買などだった。また当時は、農副産物の加工、販売を行う場所も生まれた。利益のために奮闘するこのような個人営業者たちは、わずか数年の間に、長期にわたって品物が不足しさびれていた市場に活気と喧騒をとりもどした。 ある個人経営者の勇気 1980年初め、中国中南部の安サユ省蕪湖市。40歳過ぎの男性、年広九さんという個人経営者は、五香瓜子(香辛料をまぶして炒ったスイカのタネ)を売っていた。ある日、彼はこれまでの人目をしのんだ商売のやり方を改め、屋台を目抜き通りに移動させ、さかんに客によびかけた。多くの個人経営者が排斥され緊張が絶えなかった当時は、こうした行動は勇気のいるものだった。 彼の行動をたたえた記事がその日、ある小規模な新聞紙上に発表されると、翌日から年さんの屋台は朝から晩まで客が押し寄せる騒ぎになった。一日の売り上げは、前年一年分の売り上げをさらに上回り、蕪湖の瓜子市場は、彼の独占となった。
売り上げが激増したため、年さんは、個人営業の規模をさらに拡大し、何人かの従業員を雇い、経営者となった。 やがて中国の庶民が、個人経営者のなかの「万元戸」(年収が万元の単位になる人)を羨望のまなざしで眺め始めたころ、年さんはすでに「百万元戸」となっていた。それはおそらく当時はただ一人の「百万元戸」だった。だが、こうしたことは「出る杭は打たれる」となりやすい。 当時の人々は、政府の工商部門の役人も含めて、一人の人間がこれほど多くの財を成すことに対して理解できず、「奴は資本家ではないか?」とか「従業員の血と汗を搾取しているに違いない」などと疑ったり、彼の店を封鎖し、罪を裁くよう提案する者までいた。 噂はケ小平の耳にまで伝わり、1984年、ケ小平は、店を閉鎖したり、犯罪とみなしたりする行為を制止した。ケ小平は、「雇用」という形態や、百万元の大金持ちの出現は恐れるに値わず、それよりも、彼を罰すれば、多くの個人経営者に影響を及ぼすばかりでなく、人々が政府の政策に対して疑いを抱くと考えた。
経営者への転身ブーム 1987年、党の13回全国代表大会は私営経済に対し、一つの定義を下した。それは「国有経済の必要かつ有益な補完物」というものだった。 この意向の影響で、個人経営者ブームの10年ののち、私営企業のブームが起きた(関係の工商部門によれば、従業員八人以下は個人経営者、9人以上は私営企業となる)。 このブーム以来、農村の郷や鎮では、農副産物の加工を主とする多くの小工場がおこり、郷鎮企業と呼ばれ、その波はやがて都市をも襲った。毎日、工商部門へ登記する企業は列をなし、その大部分は衣食住や交通に関わるサービス業だった。また電子、化工、機械製造などの技術関連企業もあった。
年さんのエピソードを続けよう。 ケ小平が彼の危機を救ってのち、彼は二つの国営企業を合併し、さらに規模を拡大した「サ子瓜子公司」を設立した。自らは総経理になり、上海、南京、広州など大部分の都市に支社を設けた。だが、管理が及ばず、まもなくドミノ倒しのように次々と倒産した。その後、再び復活したが、かつての栄光は取り戻せず、20世紀末には自らのブランドを二人の息子に譲り、引退する意志を示した。かつては世間に名をとどろかせた年さんの失墜は、ビジネスの過酷さを示す例となろう。 年さんとは違う、もう一人の成功者のエピソードを紹介したい。 中国西南部、四川省成都市の「希望集団公司」は、当地の劉家四兄弟の創設になるものだ。彼らは農業と農村に基礎を置き、私営企業のなかでも最大規模の企業を創りあげた。昨年の経営額は四十億元を上回り、アメリカの経済雑誌『フォーブス』は、兄弟を「最もリッチな中国人」と呼んだ。彼らの資産は約十億ドルにのぼる。 80年代初、兄弟は意志をかため、それぞれ勤務先の国営企業を辞し、家財を売って千元の資金を作り、自らの農園を開き、野菜を栽培し、ニワトリ、アヒル、ウズラを育てた。兄弟のうち三男の劉永美さんは畜産の専門家だったため、十分な技術、知識を備えていた。5年の間に、彼らは千万元の資金を蓄積した。 80年代半ばには、豚の飼料の需要が沸騰した。だが、外国産の飼料は高すぎるため、国内の農村の養豚場や養豚専業農家では買い手がいなかった。兄弟たちはこの機に乗じ、数カ月の間に年産十万トンの飼料工場を建て、すべての資本を研究開発にそそぎ、二年目には試生産に成功した。彼らの飼料の質は外国産にひけをとらず、しかも価格はずっと安かった。そのため農業部の表彰を受け、生産が間に合わないほどよく売れた。 90年代半ば、国営企業の改革がさらに深まると、中小規模の飼料工場は倒産の危機に見舞われた。四男の劉永好・希望集団公司総裁は、策を練り、彼らの集団公司の力によってこれらの企業の改革を進めることに政府の同意をとりつけ、数年の間に80あまりの飼料工場を改革し、26の支社を設立した。投資ゼロにして、飼料の生産高は十数倍になり、97年には生産額50億元、生産高250万トンに達し、当時の国内シェアの70%を占めるまでになった。 90年代以来、私営企業に普遍的に存在する資金調達の問題を解決するため、希望集団とその他の大型企業集団は政府に対し、民営銀行の設立を許可するよう提言し、95年、正式に許可を受け、翌年には第一号の民営金融機構である民生銀行が誕生し、希望集団が筆頭株主となった。 経済学者の兄弟に対する評価は一致しており、学歴の高さ、専門知識および文化的教養の高さに加え、市場の機会をとらえる天賦の才が彼らの成功のもとになったとたたえる。 こうした時期、中国の私営企業は残酷な競争を経て、休みなく自らを成長させ、勝者となった企業と経営者を生み出した。 精鋭の出現 90年代中後期、政府は再度、私営企業の地位を上げた。1999年、97年の党の15回全国代表大会決議に基づき、中国では憲法改正が行われ、非公有制経済を「社会主義市場経済の重要構成部分」と定義した。つまり、私営企業は国営企業の「兄弟」であり、必ずやその発展が支持されなければならないということだ。 この段階になって、特に注目されるのは、「知識経済」(または「新経済」あるいは「ハイテク産業」とも言われる)の訪れによって、私営企業がまた激しい勢いで伸張し、その特徴は、専門性の高さ、規模の大きさ、国際性の三点となっていることである。
四通集団は、中国IT界の先駆者であり、80年代初、文字処理を主な用途とするパソコンを開発したメーカーで、その製品は、国内シェアの80%を占める。90年代以降の第二次創業といえる時期には、国内外の50余りの企業と手を結び、1250余りのショップが設けられている。 聯想集団はその後、中国最大のコンピューターの技術、工業、貿易が一体となった企業となった。昨年度、その資産額は、284億元にのぼり、年間、約百種、260万台のパソコンを生産、国内シェアの28・9%を占め、世界のIT界の十強に入る。今年4月、創業者の柳伝志氏は、ハーバード大学に招かれ、企業の成功例を講演し、その原稿は、ハーバードビジネススクールの教材ともなった。 このようなハイテク企業の管理レベル、職員のレベル、国際市場に対する知識などは伝統産業の私営企業をはるかに上回り、多くの私営企業に対して模範となっている。
黄金時代の始まり
1、 目下、私営企業が直面する困難、問題に対し、中国政府は政策上の援助を与え、資金調達および市場開放の面で条件が緩和されつつある。国営企業の優遇、私営企業に対する冷遇など、かつて存在した問題は解消されつつある。 2、国営企業改革の深化に伴い、国営企業は、いくつかの領域および営業項目から退いた。例えば第三次産業の電信、金融、航空、輸送などは私営企業の発展に新しい可能性を与えている。 3、 中国のWTO加盟が近づくにつれ、外資系企業および外資系企業の製品に対する減税、市場開放などの政策上のメリットは、私営企業も享受することができる。同時に外資の進出は、私営企業に対し新しい資金調達先になる。 4、 中国西部大開発の戦略上、私営企業は優位を占める。西部地区は相対的には遅れているが、近い将来には労働集約型、低技術型の中小企業の立地としてふさわしく、国営企業に比べ、規模が小さく、意志決定が早く、小回りがきく私営企業は競争に有利である。 総合的にみると、多くの方面からして、私営企業の前途は明るく、希望にあふれている。
特集2 個人経営はこんなふうに始まった ある提案 21年前、40歳を過ぎた劉桂仙さんは、北京の地位ある人の家庭で料理人をしていた。ある日、彼女が「首長」といつも敬意を込めて呼んでいた男性の主人が、個人経営の食堂を開き、家庭の貧しさから抜け出すよう劉さんに提案した。彼女はとても驚いたという。最初は信じられなかったが、「首長」が彼女に冗談を言っているとも思えなかった。 提案を受けた夜、劉さんは眠れなかった。本当に自分が食堂を開くことができれば、彼女と夫の調理の腕はさらに大きな場で披露されることになる。子供たちも万一失業しても家業を手伝えばよい。それに食堂不足に悩む政府を助け、国家の税収にも貢献する。自分にも国家にも一挙両得であり、たいへんに素晴らしいことではある。 眠れぬ一夜を過ごした劉さんは、翌日、個人経営食堂の申請書を息子に書いてもらい、自ら東城区の工商局に足を運んだ。工商局の職員たちは驚き、彼女の思い付きを荒唐無稽だと笑った。当時は政府の関係部門である彼らでさえ、個人経営について、何のよるべき条文さえもない状態だったのだ。 でも劉さんはまるで何者かに取り付かれたように奮闘した。続く一カ月余り、毎日、工商局に出向いて請願し、そのたびに「一挙両得」とその理由を説明し続けた。そしてついに、彼らは心を動かした。ある職員が彼女に、この件については、現在、審議中であり、家に戻って知らせを待つように、と告げた。劉さんの喜びは望外のものだった。
爆発的な人気 1980年9月30日、これは記憶されるべき日である。北京の個人経営食堂は20余年にわたる中断を経て、この日再び劉さんによって、煮炊きの火がともされた。食堂の名前は「悦賓飯館」と名付けられた。 ただ、それは厨房の隣、10平方メートルほどの小さな空間に、四つのテーブルを置いただけのもので、厨房も部屋も劉さんの自宅だった。 誰も予想しなかったことに、オープン初日、お客は長蛇の列になり、横町を埋めた。新聞には劉さんの店が報道され、多くの人々は好奇心にかられ、味見と見物を兼ねて訪れたのだった。これほど多くの来客を予想できず、料理も調味料も用意していなかった劉さんは嬉しい悲鳴をあげた。さらに劉さんが困惑したのは、当日、手元に36元しか現金がなかったことだった。しかたなく彼女は隣人に借り、あわてて追加の買物に人を出した。それでも、一部のお客は結局食事にありつくことができず、そのまま帰宅した。 当日は内外の記者も多数取材に訪れたが、みな見るだけで満足するしかなかった。だが日本の『毎日新聞』のある若手記者は、どうしても食事がしたいといってきかなかった。すべての料理がなくなっていたため、劉さんは、近所の人から小麦粉を借り、手打ち麺をこしらえ、あんかけにして記者に供した。 夜、清算してみると、1日の利益は40元余り、それはある政府機関で調理人をしていた夫の月収とほぼ同額だった! 一家はおどりあがって喜んだ。 この日から、悦賓飯館の商売は一日また一日とうまくいった。 当時の国営レストランでは、まだ改革が行われておらず、平均主義の報酬制度のもと報奨金もなく、職員たちにヤル気はなく、サービスのレベルも低かった。いい加減に作られたまずい料理と、無愛想な服務員たちにうんざりしていた人々が、悦賓飯館をどれほど歓迎したかは、よく理解できる。人々を客として丁重に扱い、安くておいしい料理を供した悦賓飯館は、舌だけでなく気分もよく過ごすことができたからだ。 商売が順調にいき、人手がたりなくなった悦賓飯館では、劉さんのリーダーシップのもと、夫、息子とその嫁たちが手伝い、なかにはそのために国営単位をやめてしまう者もいた。 儲かるほどに不安 儲けが続いても、劉さんの心はかえって落ち着かなくなった。このまま続けていったら、工商局のお役人たちはいつか豹変して、彼女に「資本主義」のレッテルを貼り、店を封じ、財産のすべてを没収するのでは――劉さんは内心ビクビクしながら小さな店を続けていた。 1980年の旧正月、どの家庭でも団欒を楽しむため、食堂に人影が少なくなったころ、突然ある賓客が訪れた。まず店に入ってきたのは、当時の党の指導者のなかで主に経済方面を担っていた姚依林、陳慕華両副総理だった。当然、そこには部下の中央と北京の幹部たちが群れをなしていた。 二人の副総理は、劉さんの勇気と彼女の店をほめたたえ、経営状況やお客の反応を細かに尋ねた。そして大胆に、安心して仕事に励むよう、さらに規模を拡大して料理の数を増やすようアドバイスした。副総理たちは店を辞する時、工商局の職員たちにも、彼女の店に対する支持と保護を言い付けた。この時から劉さんはようやく落ち着き、各指導者に対する感謝の思いでいっぱいだった。 この日、劉さんは息子に命じて、爆竹をたくさん買わせ、横町の子供たちみなに鳴らさせた。 しばらくして劉さんは、自宅の近くに新しくもっと広い店をオープンさせ、「悦仙飯店」と名付けた。自分の名前の「仙」の字を店名に入れ、個人経営の特色をさらに打ち出すつもりだった。 劉さんは今や人々の模範となった。彼女が個人経営者として第一歩を踏み出したあと、北京の横町には個人経営の小さな店がたちまち多く出現した。中国語のなかにも「個体戸」という新しい言葉が加えられた。 女性経営者の志 現在、劉さんの一家はいくつかの企業を持ち、その資産も並々ならぬものがある。食堂以外に、1995年には、300万元を投じ、長男の名前をつけた木材関係の有限会社を登記し、1996年には、次男に紫檀のアンティーク家具店を始めさせ、それは北京で唯一の紫檀のアンティーク家具の買い取り、販売を行う店となった。
料理の話をすると劉さんの目は輝き、その志がまだ続いていることをありありと感じさせる。
特集3 時代のヒーローは「知本家」 37歳の王文京さんは、近年の新経済領域に活躍目覚しい「知本家」(専門知識を武器にビジネスで成功し、富裕層となった人)の一人であり、12年の間に、政府機関の公務員から中国最大の財務および企業管理ソフトの開発会社、用友集団公司の董事長となった。 個人資産は十億元を超え、その商品は11年連続で中国の財務管理ソフトの売り上げ第一位を誇り、今年の5月には上場、王文京さんは一夜にしてニューリッチ層のシンボルとなった。 公務員を辞す 王文京さんは、中国国務院直属の国家機関事務管理局の公務員だった。この地位は多くの若者にとって得難いものだったが、時代の変化にのって彼はビジネスの世界へと羽ばたいた。1988年末、公務員の職を投げ打ったほかの多くの人々と同様、王さんは上司に辞表を提出した。親友の蘇啓強さんと共に知人に5万元を借り資本金にし、後に人々から中国のシリコンバレーと呼ばれるようになった北京市の西部、中関村に9平方メートルの部屋を借り、「用友財務ソフトウエアサービス社」の看板を掲げ、ビジネスがスタートした。 財務管理ソフトを営業項目としてビジネスを始めたのは、二人とも会計事務のコンピューター化を手がけていて、市場のニーズを確信していたからだった。そして民営の方式を選んだのは、彼らの専門知識が企業組織の最も重要な点は、所有権を明確にすることだと判断したからだった。 このころ、財務管理ソフト業界は黎明期で、中国の多くの会計部門は、いまだにソロバンとペンの時代にとどまり、コンピューターさえ備えていなかった。王さんは、大部分の時間を事務処理のオートメーションの重要性を説いて回った。昼間は外回り、夜は九平方メートルの部屋に戻ると、ソフトの設計。ソファの上で服のまま寝ることも多かった。 90年代に入ると、中国の会計部門に現代化の波が訪れた。財務管理ソフト導入のブームがやってきた。王さんはチャンスをとらえ、頭角を現し始めた。彼の商品とサービスは多くの顧客の好評を博し、ビジネスは一年一年と成長した。 1997年、用友の年間売り上げ高は、1億元を超え、昨年には、5億元を突破した。職員は2千人以上、なかでも技術開発スタッフは226人を超える。ソフトウエアメーカーとして今年5月、初の上場を果たした。 12年の間、用友は、無から有へ、現在、中国最大の財務管理ソフトウエアおよび企業管理ソフトウエアの最大の企業となった。これまでのビジネスの道のりは比較的順調、平穏で、このような例は、ビジネス界全体ではそう多くはない。 天才ではない 王さんの道のりの順調さを、その天賦の才を理由にあげる人もいる。 けれど王さんは「奇才」「天才」と呼ばれるのを否定し、ビジネスという戦場では、無敗のヒーローはあり得ない、と語る。そして彼自身の二つの失敗例をあげた。 1993年、中国では不動産ブームが起きた。特に海南省では省に昇格したことが原因となり、土一升金一升とまで言われた。王さんも誘惑に抗えず、海南省の不動産に手を出したが、その落とし穴を早いうちに発見し、危なく大損害を逃れた。 2000年の年明けには、インターネットブームが中国を席巻した。IT業界人士たちは、熱にうなされたようになり、「インターネットは金」といった類の言葉が流行した。多くのホームページが設けられ、インターネットに関する専門技術者の価値は百倍にもなったようだった。 用友のアドレスにも毎日のように求人のメールが山のように届き、王さん自身に対してさえ、待遇はいくらでもOK、という条件で求人がきたほどだった。予想もできない突然の事態に、専門職のスタッフがごっそりと連れ去られ、会社に少なくない損失をもたらした。ただ幸いなことにブームの時間は長くはなく、4月になると下火になり、ネットバブルは消えた。一度は会社を去ったスタッフたちの一部は再び戻ってきた。 王さんはもし彼のビジネスが比較的、順調だとすると、その多くはチャンスをとらえる能力に負っていると思っている。「チャンス」とはつまり改革開放の時代のことだ。例えば、もし90年代、全国財務制度改革、それに会計業界のオートメーションブームがなければ、これほど順調な発展はあり得ただろうか? それに中国ほどの大市場は世界唯一であり、これも得難いチャンスともいえるだろう。 判断力と創造性と チャンスは多くの人々が待ち望んでいるものだが、それが訪れた時にうまくつかめるかどうか、それが企業家の才能というものだろう。王さんの場合は判断の正確さと絶え間ない技術上の改革によって、チャンスを見事にとらえている。 判断の正しさについて例をあげよう。 王さんが中関村で看板を掲げた時、ソフトウエア市場の状況はけして好ましいものではなく、別の業界に転身するソフトウエア企業も少なくないほどだった。しかし、王さんは決意を変えず、オフィスオートメーションのブームが早晩訪れることを確信していた。後になってみると、実際のところは、王さんが考えたよりも早く、その波は訪れたのだった。 また、2000年の初めに興ったインターネットブームでは、この事態に備えていなかった王さんは損害を受けた。ただし、思考力に富んだ王さんは、大きな損害のなかから、大きな収穫をあげることができた。バブル的なインターネットブームが去り、インターネットに対して徹底的な批判を加える論調や、ホームページを閉じる企業も出始めたなか、王さんは逆にインターネットの可能性を確信し、自分のホームページを開設し、ネットビジネスを展開するなかで、企業の知名度をあげ、販路を獲得していった。 企業の発展は、インターネットに対して情熱を抱き、高度な専門技術を備えた若いスタッフに希望を抱かせ、人材の多くが企業内にとどまった。後に、ネットビジネス用のソフトを開発し、新しいビジネス項目を獲得した。 用友の次の計画は、国内市場を拡大すると同時に、国際市場への進出だ。目標は2010年、世界ソフトウエア企業ベスト50の列に入ることである。上場はそのための足がかりでもある。世界市場への進出には、現在の規模ではまだまだ足りない。上場で資金を集め、職員たちにも株式を所有させることは、企業の団結力を高める手段でもある。 用友は、国内ではある程度の実力と知名度を誇るが、国際市場の実力企業五百社と比較したら、多くの方面でまだまだ差がある。国際市場での法規、セールス手法、現代的な企業制度など、多くを海外の同業者に学ばなければ、と王さんは言う。 未来の可能性について王さんに揺らぎはないようだ。政府の私営企業に対する政策は、緩和されつつあり、西部大開発とWTOへの加盟はさらなるチャンスとなることだろう。私営企業の黄金時代の到来を、いま王さんは確信している。 (2001年9月号より) |