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麻薬三角地帯発
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文・李要武 写真・戚静涛 釧相新 馬傑ほか
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今回の特集で取材した二つのモデル地区の実態から、試験栽培の一端が見えてくる。 ある日、本誌を知る雲南省公安庁禁毒局・董勝さんから、「『人民中国』誌上で、中国、ミャンマー、ラオスの三カ国がゴールデン・トライアングルで進めている『ケシの代替作物の試験栽培』を取り上げてはどうか」という提案を頂いた。この試験栽培の提唱者は国連麻薬委員会で、中国、日本、米国、ドイツ、オーストラリアなどが参加している。同活動の趣旨は、穀物やその他の経済価値が高い作物(工芸作物)を栽培し、エコロジー産業を徹底的に育成することによって、貧困をなくし、収入を増加させ、合わせてケシ栽培を徐々に減らし、最終的には代替作物を百パーセント栽培し、麻薬流通の根源を断ち切ることにある。 編集部は、国際麻薬禁止デーである6月26日の前夜、私を雲南省の省都昆明に派遣した。まず情報提供者の董さんと会い、ゴールデン・トライアングルの取材を開始する予定だったが、彼はあいにく麻薬がらみの汚職事件の調査で昆明を離れていて、直接お会いすることはかなわなかった。彼が手配してくれた資料によると、中国とミャンマー、中国とラオスの国境沿いにある中国領内の7、8の県・市では、国境を越えた協力関係を作り、ケシの代替作物の試験栽培を進めているという。そこで私は、三つのモデル地区を見学する予定を立て、最終的には二つの地区を訪問した。雨期による通行止めで、ラオスにある試験栽培地区行きはあきらめざるを得なかった。 訪問地1
最初の訪問地は、雲南省西部にあるミャンマー北部に接している騰冲県だった。ここでは1993年、国境を越えた提携でケシに代わるエコロジー作物の栽培を開始し、大きな成果を上げている。騰冲県政府所在地は、名の知れた歴史ある町で、漢・唐の時代には、西南シルクロードの交易地として栄え、南アジア、西アジアに通じる要所だった。近代以降は玉の産地として有名になり、個人経営の玉の加工作業場や商店が軒を連ねている。面積は6000平方キロ近くあり、県の大部分は山林に覆われている。人口は60万人程度で、中心産業は農業だ。ここ約20年は、順調な経済発展を遂げ、衣食に困る住民はいない。しかし現在でも雲南省の貧困県と位置付けられ、経済力が強い県と肩を並べるレベルにはない。騰冲県とミャンマー北部は、148キロに渡って境界を接していて、十数年前に両国政府が正式に国境貿易を認めて以来、往来は盛んで、それは代替作物の試験栽培を促進する原動力となった。 ここで簡単にゴールデン・トライアングルの変遷を紹介しておこう。 ミャンマー、タイ、ラオスの三カ国の北部国境地帯は、逆三角形のような形になっている。面積は約20〜30万平方キロあり、山がちで森が多く、人口密度は低く、地理的に閉鎖的で遅れている。百年以上前から、周辺関係国の権力が及ばず、多種多様な社会勢力が割拠し、紛争がしばしばおこり、戦火は止むことがなかった地域だ。麻薬密売人はケシをこよなく愛し、麻薬で稼いだ暴利で武装軍隊を組織し、一方で武装軍隊は麻薬の生産と販売を保護するという悪循環が生まれていた。軍隊と麻薬密売人は相互に依存することで、「魔のゴールデン・トライアングル」を作り上げたのだ。 しかし、20世紀もあと20年程度になったころ、国際社会と関連国家の政治環境に変化が起こった。「平和と発展」が時代の主流となり、麻薬撲滅の掛け声は日ごとに高くなった。このような社会的圧力で、長く続いてきたゴールデン・トライアングルの政治的システムは崩壊を始めた。「武装軍隊と麻薬密売人の相互依存」の関係に亀裂が入り、温床がなくなったことで、麻薬密売人は危機感を募らせるようになった。そして1986年、麻薬王と呼ばれたクン・サーが米国連邦大陪審に麻薬密売容疑で起訴された。これは同地の状況変化のシグナルであり、その後九六年には、クン・サーの武装勢力がミャンマー政府に投降した。 こうした背景で、ケシの代替作物の試験栽培はスタートした。 騰冲県と合作しているのは、ミャンマー北部のカチン第一特区だ。ここはミャンマー新民主義軍組織(NDA)の軍政指導下にある。第一特区の面積は、騰冲県より若干狭い約5000平方キロで、人口は騰冲県の15分の一である4万人、1平方キロ当たり八人という人口密度が低い地区だ。 麻薬撲滅に光――第一次試験栽培の成功 私は騰冲県に数日間滞在し、前後して、同県の董保華副県長、同県に打ち合わせに来ていた第一特区のザーノン副司令、それに試験に参与している中国側技術者らを訪問し、彼らから共同試験の具体的成果などを紹介してもらった。 百年来、ゴールデン・トライアングルでは、ケシの栽培、麻薬製造・販売を除けば、その他の植物栽培や経済産業はほとんどなかった。穀物の自給にはほど遠く、他の経済的よりどころもなかった。この現実を重く見た騰冲県と第一特区は、ケシに代わる作物の試験栽培計画実行の際、特に重視する二つのポイントを決めたという。一つは衣食に困らない収入を得ること。もう一つは、麻薬産業に関わらなくとも生活水準を維持することだ。
この計画に照らし、第一特区ではまず、中国の収穫高の多い交雑水稲、良質なトウモロコシ、ジャガイモ、野菜などを試験的に栽培した。騰冲県ではすでに栽培に成功していたため、気候、水、土などの自然条件にほとんど差がない第1特区でも、問題なく成功を収めるに違いなかった。交雑水稲を例にすると、案の定、第1特区でも初めての試験栽培で成功を収め、2年目には大規模栽培に切り替え、1ムー(約15分の一ヘクタール)当たり平均四百キロの収穫を実現、騰冲県と同水準の収穫高を上げた。これは、ミャンマーの伝統的水稲収穫高の3、4倍に相当し、しかも災害に強く、管理がしやすいという理由から、農民は「至宝」と見なすようになった。交雑水稲と同様に、その他の穀物も、初年度から試験栽培に成功し、2年目には大量生産を実現、安定生産を確保している。 しかしミャンマーの農民は長くケシ栽培をしてきたため、穀物やその他の農作物の栽培には疎く、しばしば壁にぶつかった。ケシ栽培は、他の作物と比較するとほとんど手間がかからない。種まきから刈り入れまで、畑に出て管理する時間は短く、土地をならす必要も、肥料を施したり水をかけることもなく、除虫や除草のような作業も必要ない。そのためミャンマーの農民は、穀物栽培はコストや労働力がかかり、技術的にも難しく、作業があまりにも面倒だと感じているという。しかし中国の農民としては、失礼な言い方になるが、彼らは怠けすぎで我慢強さがない、と思えるらしい。 このような状況を鑑みて、中国の技術者は各種作物の試験栽培過程で、必ず各レベルに応じた技術者育成講座を開いたが、それでも多くの場合、技術の伝授に支障をきたしたという。そのため最初の数年は、中国側が種子、技術、農機具、化学肥料、農薬などを提供しただけでなく、農作業に必要な熟練農民を派遣してミャンマー側が技術をつかむまで直接指導に当たらせた。
試験栽培計画では、穀物自給が実現し、衣食に困らない収入が得られるようになった段階で、双方は時を置かずに工芸作物の栽培とその他プロジェクトの試験を開始することになっていた。穀物生産の相対的生産効果と利益は低すぎるため、その他の事業で収入アップを図らない限り、農民は試験栽培の価値を疑い、ひどい場合には反対者も出てくる可能性があるからだ。 相対的生産効果と利益については、ミャンマーの農民が私にあるデータを提供してくれた。それによると、従来は一ムーのケシ畑から約800〜1500元の収入があり、現在は最高品質の交雑水稲を利用した場合でも、一ムーの水田から約700〜1000元の収入があるだけだという。しかも、ケシ栽培ではコストや手間がほとんど掛からず、一方の水稲栽培では管理に手間が掛かり労働力と技術性に頼る比率が大きい。仮に市場利益の角度から論ずれば、ミャンマーの農民は今回の試験を受け入れられるはずはなく、試験栽培の初期の課題となっている。 この現実問題を克服するため、穀物に続けて、サトウキビ、アブラナ、茶、ミカンなどの工芸作物の試験栽培にも成功した。また同時に、ヒツジ、ブタ、ウシなどの家庭畜産業も順調に育成が進んでいる。この他、第一特区の豊富な木材や玉も、数年来輸出量が多くなっている商品で、試験栽培の支柱である。その他、中国、ミャンマー双方の提携による道路や小型水力発電所の建設などを通して、農民収入の増加を図ると同時に、余剰労働力をうまく各事業に振り分けている。これらの共同の努力が功を奏し、国境での小口取引が日に日に増加し、市場は活気にあふれ、ミャンマー側も成果に満足している様子だ。 農民の収入減少と予算不足の壁
しかし1999年初めになり、試験栽培の速度は鈍り、中断される建設プロジェクトも出てきた。地方によっては再びケシの栽培に手を出すところも出始め、この傾向は2000年になっても好転しなかった。原因は複雑だが、根本的な問題は資金不足で、進行中のプロジェクトを棚上げせざるを得ず、新プロジェクトをスタートできず、債務の負担が重くのしかかるという状態に陥っている。
ミャンマーの農民の肉声を聞く
ミャンマー訪問当日は、長雨が続いていて、私を含むスタッフをうんざりさせた。
訪問地2 雲南省シーサンパンナ・景洪市と 伝統的結びつきが原動力
朝、景洪市を出発し、西南へ約四時間走り、中国側の国境の小村・打洛に着くと、国境の向こうに陽の光が反射して光り輝く寺院の尖った屋根が見えた。ここは騰冲県とは異なり、通関を待つ車両の列が長く続いていた。ほとんどが景洪市からの大小様々な観光バスで、中国人旅行者が多い。誰もがとにかく「国境の向こうを観光」して、「外国へ行ったことがある」と自慢したい人たちばかりなのだ。中国庶民の懐が豊かになり、国内外を飛び回る人たちは確実に増えた。当地の警察官である蕭さんは、「この小さな検問所から昨年だけで140万人の観光客と10万台の車両が出入りした」と教えてくれた。実は、ここから上がる収入も、エコロジー産業の発展を支える資金となるから、輝かしい前途を見ているような気持ちになった。 さて、通関して一時間程度走ると、ミャンマー国境の最初の町で、第四特区政府所在地であるシャオモンラに着いた。シャオモンラは、第一特区で見たバンワとは異なり、「小香港」と呼ばれるにぎやかな町だ。街道はきれいに整備され、交通量が多く、商店が林立し、流行ファッションがあふれ、新鮮な果物が手に入り、とにかく、必要なものは何でも揃うところだ。旅行者たちは、「ミャンマー玉」やその他の工芸美術品の売り子を囲んで値切っていた。運転手の話によると、ここには賭博場や歓楽街もあり、夜になると、ライトアップされ、低いメロディーが流れる別の顔を見せるという。 第四特区の面積は、第一特区とほぼ同じで約五千平方キロ、人口は第一特区より3万人も多い七万人。シャン族(中国ではダイ族と呼ぶ)、プーラン族、アイニ族、ミャンマー族、ワー族など13の民族からなり、中国側の国境にあるロツ海県や景洪市の人たちと同じく、これらの民族はほとんどが国境に縛られずに生活している。また彼らは国が違っても、同じ民族の絆と、昔から持ちつ持たれつ過ごしてきた伝統的結びつきがあるため、とても友好的で、宗教文化や生活習慣、道徳倫理で共通するところが多い。例えば中国側が、ミャンマー側の住民と同民族の幹部を派遣すれば、事務手続きがスムーズに進み、同地の人々にも喜ばれ、試験栽培の原動力になる。 麻薬吸飲撲滅が第一課題 第四特区の政府機関オフィスビルにある会議室で、特区の幹部であり地方管理委員会第一秘書長のカンマオさん(40歳前後、ミャンマー族)が、特区政府の麻薬禁止と試験栽培の現状を紹介してくれた。 第四特区は、他の地区と同じようにケシ栽培地区であるだけでなく、麻薬の加工、製造、売買、吸飲量が最も多い地域の一つだった。アヘンは最高で年産1万キロに達し、人口の五%は麻薬使用経験があったほどだ。しかし1989年、歴史が動き出した。第四特区成立後に、麻薬禁止と平和発展を目指すようになったからだ。1991年には、ミャンマー政府の支持と雲南省シーサンパンナの援助で、2回にわたりケシを根こそぎにし、麻薬製造工場を閉鎖させ、約1・5億米ドル相当の麻薬を焼却処分した。この時から、麻薬問題との本当の戦いが始まった。
第四特区は、麻薬禁止と同時に、ケシに代わる作物の試験栽培に力を注ぎ、多方面から経済発展を模索し、収入を増やし、政局の安定を保証しようとした。その結果、1992年の時点で年に一人当たり100キロにも満たなかった食糧が、97年には大幅に増加し、中心地から遠く離れた山間地区の一部の人々以外は、衣食に困る人はいなくなった。第四特区は、食糧の問題を解決した後、隣の中国・モウ海県と共同でシュクシャミツの種(漢方薬)、落花生、大豆、スイカ、茶、ゴム、サトウキビの栽培に成功し、さらにサトウキビの一日あたりの圧搾量が750トン規模の製糖工場を建設し、同地区に先進工場がなかった歴史にピリオドを打った。 また、国連、ミャンマー政府の支持と援助を受けて、30以上の小中学校と8の病院が建てられ、文教衛生と体育事業の基礎が出来上がった。さらに数百キロに及ぶ道路を新設ないしは修復し、従来はなかった小型発電所を建設し、テレビ放送衛星地上ステーションや通信ラインなどを設けた。古くからあった竹やカヤで作られた家屋は近代的な建物に、植物油のランプは電灯に生まれ変わった。現代的な商業やサービス業が村や町に進出しつつあり、いままで「秘境」として外部の人が足を踏み入れなかった町に、毎年世界各地から数十万の旅行者が押し寄せるようになった。 この歴史的な変化の中で、中国、ミャンマー、国連の支援のほかに、日本、オーストラリア等の国や地域からも多種多様な援助を獲得している。筆者の調べでは、日本からはソバの栽培援助のほかに、化学肥料、農機具、書籍、技術などの支援があり、地元の人たちの日本に対する印象は良好だ。 厳罰主義による麻薬取り締まりの徹底 第四特区の軍事政治委員会事務室主任である袁培植さん(50歳程度、漢族)は、麻薬原産地で禁令を下す決心について、流暢な中国語で次のように答えてくれた。「1989年の平和建設の決定は、世界の麻薬禁止の流れに沿ったものだった。麻薬があれば平和はあり得ない。麻薬は戦乱と同じだ。ゴールデン・トライアングルでのケシ栽培を止めなければ、麻薬や犯罪に恐れをなして、私たちと共同で経済や貿易の発展を目指すパートナーは見つけられないだろう。禁止しなければ私たちが生きる道はない」。私は続けて、「麻薬禁止の方針に違反した官僚3名は、すでに極刑に処されたそうですね」と質問したところ、「そうです。第四特区の『麻薬禁止法』には、『4号ヘロイン2100グラムまたはそれ以上の量を販売すれば、死刑に処す』との規定がある。しかも幹部は特にきびしく処罰する。そうしなければ庶民は納得せず、麻薬から上がる暴利の誘惑も食い止めることはできない。厳罰でこそ、国際信用が得られる成果を上げられる」と述べてくれた。
1991年の麻薬禁止以来、12年近くが過ぎたが、一度も暴力に訴えることなく、団結、安定、発展の新局面に入っている。また、ミャンマー政府や周辺国家との関係も良好で、これこそが麻薬禁止の成果だと言える。当時も今も、キーポイントはこのような麻薬禁止政策を庶民が受け入れられるかどうかだという。「ケシ栽培の歴史は百年にもなるが、大多数の栽培農家は相変わらず貧乏で、新しい試みに一定の理解は示してくれる。しかし庶民は現実主義者で、食事をしたり一家の生活を支えなければならない。そのため、麻薬禁止と同時に生活に配慮した政策が必要で、多くの人たちに『ケシ栽培禁止でさらに貧しくなった』と思われない努力が欠かせない。また、オヒ小平氏がよく口にした『両手で掴む』、つまり麻薬の根を絶つと同時に、ケシの代替作物の試験栽培を進め、農民の収入を増やし、生活水準を向上させなければならない。この舵取りが難しいところだ」。 余談として付け足すと、取材中袁主任とカンマオ秘書長は、国連麻薬委員会、ミャンマー政府、中国雲南省科学技術協会、雲南省ロツ海県、景洪市など、国際社会の第四特区に対する数え切れない支援に対して何度も何度も感謝の意を表していた。
エコロジー化を進めた技術者の夢 第四特区から景洪市に戻る途中、試験栽培に参与し、大きな成果を上げた高級農芸師の曹洪祥さん(50歳)を訪ねた。現在、ロツ海県の農業局長を務めている彼は、試験栽培を振り返って、次のように話してくれた。
データ (参考:2001年6月21日付『南方週末』新聞) 中国雲南省による国外での「ケシの代替作物の試験栽培」実施面積 ラオス
4948.3ヘクタール 栽培作物の作付面積の分類
(2001年11月号より) |