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マイホーム時代の新生活 |
文・侯若虹 写真・郭 実 魯忠民 馮 進
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ついにマイホームを手に入れた! 先日、古くからの友人である張昆峻さんが電話をくれた。会社から新住宅を分配されて、私たちを新居に招待してくれるというのだ。住宅分配――この知らせを聞いて、私たちは自分のことのようにうれしくなった。 張さんは今年55歳。とても誠実な技術者で、研究所に勤務している。いままでにも、住宅分配の恩恵を受けてはいたが、住環境はずっと改善していなかった。そして今回、最後の住宅分配で3LDKの新居を手に入れた。
張さん一家はもともと、大雑院(※)東棟の約12平方メートルの部屋に住んでいた。狭くて細長く、まるで廊下のようなところで、幅は2メートルちょっと。ダブル・ベッドがやっと置けるくらいの広さだった。張さんは、そこで結婚して子供を育て、両親とも肩を寄せ合って生活をしていた。幸い部屋が横長だったため、両隅に一つずつダブル・ベッドを置いて、無理やり5人が住んでいた形だ。 その後、夫人の勤め先から二回の住宅分配があった。一回目は平屋建ての19平方メートルの部屋、二回目は86年、最初の部屋と交換で40平方メートルの2DKの部屋だった。この時には張さんの両親はすでに亡くなっていて、張さん夫婦は、子供と別々の部屋で寝起きするようになった。そして結局、その小さな住まいには、以来、十数年生活したことになる。
住宅改革が実施される前、勤め人の住宅は、すべて勤め先が手配していた。だが、勤め先によって資金力に差があり、所有している不動産資源も違うため、一人ひとりの居住条件は、そこの経営状況と直接関係していた。同い年で同じ職歴の人でも、勤め先が違えば住宅条件が大きく違うことも多かった。以前は、張さんのように住環境が劣悪な人は多かったが、勤め先の対応を待つしかなく、庶民にはどうすることもできなかった。このような背景があり、より良い住環境を提供することで、優秀な職員を引き止めていた機関や企業もあった。もし転職すれば、住宅を勤め先に返却しなければならなかったからだ。 しかし、住宅改革はそんな勤め先と勤め人の関係を変えた。 2000年末、政府は福利住宅の分配制度を全面的に中止し、住宅自体の分配にピリオドを打った。それに代わる福利として、住宅の優待価格制度が作られた。すでに居住者がいた部屋は、所有権を元値(都市ごと標準は異なる)で居住者に払い下げることになり、勤め人の勤続年数や部屋の老朽度などをもとに優待価格が決められた。このように決定された価格は、商品住宅と比べたら極端に安かった。 張さんのように、最後の最後で住宅分配を受けた人は、勤め先が買い上げた新築の商品住宅を買い取ることになった。この時期の住宅分配では、北京市統一の元値を定価とし、例えば100平方メートル程度の部屋なら、わずか10万元で購入できることになっていた。普通の商品住宅の場合、張さんの住まいがある地域の1平方メートル当たりの平均価格は6千元から7千元、合計で7、80万元もする。価格に雲泥の差があり、これでは張さんにはとても手が届かなかった。 政府では、住宅改革に合わせ、住宅補助を支給する対象を明確にした。その結果、基準に達していない部屋に住んでいた勤め人、あるいは、もともと部屋を分配されていなかった勤め人は、相応の補助を受けられることになった。また政府は徐々に、不動産市場を規範化し、中古住宅市場を打ちたて、中古住宅販売環境を作り、個人住宅ローンの貸付金利を引き下げることで、個人による住宅購入をバックアップした。旧市街地の強制立ち退きが必要な老朽危険住宅の入居者に対しても、政府は現金補助を行った。 このようにして、中国人の住まいは、住宅分配から個人による住宅購入へと大きく変化した。 張さんは、50歳を過ぎてようやく、「本当の自分の城」を手に入れ、今後の住まいには何の心配もなくなった。新居は、私有財産になったからだ。この感覚は、今後の生活への安心感を倍増させてくれる。 生活の一部になった内装工事 最近、私が住む居民楼(住民アパート)には、かちんかちんという金づちの音と、耳を突く電気ドリルの音がよく響いている。そう、また、どこかの家で内装工事を始めたのだ。
自宅の内装工事をする動きは、ここ数年の新潮流だ。私が住む居民楼は、築後すでに十数年が経ち、部屋の壁がだんだん黒く変色してきただけでなく、天井のしっくいがはがれ落ちているものもある。それでも長い間、誰も内装工事をしようなどとは思いもしなかった。昔は、部屋は勤め先のもので、修理や装飾は勤め先が計画して行うものだと考えられていた。入居者はただ間借りしているだけで、部屋に手を加える必要も権利もなかったのだ。 しかしいまは違う。部屋は入居者の財産となった。所有権を手に入れたいま、以前のような何の魅力もない部屋で生活したいと思う人はいない。快適さ、見た目の良さ、便利さなどを追求し、自分の家の色彩、格調、ムードなどを考えるようになった。つまり、独自の方法で生活設計をするようになったのだ。 この居民楼の古くからの住民は、誰もが自分の住まいを一新しようと知恵を絞っている。そのため、内装工事の騒音や混乱には、誰も文句を言わない。20年近く住んだのだから、早かれ遅かれ内装工事をしなければならない。どちらにしても、今日、自分が隣人の騒音に耐えれば、明日は誰かが自分の騒音に耐えることになるのだ。
昨年、人民中国雑誌社で最後の住宅分配が終わった頃、オフィスは内装工事の話題で持ち切りだった。この話題で盛り上がった人たちは、みんな内装の素人だったが、誰もが、「木製床板とタイルのメリット、デメリット」「品質が良くて安い塗料」「天井をおしゃれに見せる方法」などをよく知っていた。まだ内装工事をしていない人は、いずれ、これらの知識を自分の家の内装工事に活かすことになる。
張さんの新居は、なんとも心地よい。床板には美しい木目があり、壁紙にはベージュに小さな花の模様が入ったものが使われていた。客間にはあい色のソファーが置かれ、高貴で優雅な印象を与える。娘さんの部屋は白い家具で統一されていて、青春のはつらつさが伝わってくる。寝室と書斎の濃い茶褐色の家具は落ち着いてゆったりしている。キッチンは実用的にできていて、二つあるバスルームは、清潔そのものだった。
新旧の住まいへの思い 住宅の商品化は、自分の希望で居住地や生活パターンを選ぶきっかけになり、新しい生活感も与えてくれた。 政府機関で働いていた羅さんは、数年前に辞職して科学技術会社を設立した。経営は順調で、ちょっとした蓄えもできた。そこで、騒がしい環境が好きではなかった彼は、長く住んでいた市内の3DKの部屋のほかに、郊外にマンションを購入した。
新居は、従来の部屋と同じくらいの広さだが、市の中心部にはない環境がある。――周辺に高層建築はなく、3階建てや四階建てばかり。人口密度は都市部よりずっと低く、静かで広々としている。生活区内には緑豊かな公園、児童遊園地、各家庭専用の駐車スペース、小型スーパー、クリーニング店、美容室まで完備されている。羅さんは、ここでの生活は心地よく、心も体もリラックスできると語る。夫人はガーデニングに興味があるが、従来の市内の部屋は最上階だったため、思うように草花を育てられなかった。そこで今回は、小さな庭付きの一階の部屋を選んだそうだ。 新居には大満足だが、一つだけ残念なことがある。引っ越してもうすぐ2年になるのに、近所づきあいがまったくないことだ。 市内の居民楼では、隣人は同僚でもあり、お互いの家庭の事情や各人の個性などを知り尽くしていて、気心が知れていた。どの階に住んでいようと、年齢に関係なく、行き来があった。特に子供たちには、仲のいい友達が大勢いて、羅さん自身にも、小さい時から一緒に大きくなった友がいた。いまではそんな友だちと離れてしまったが、関係は何ら変わらず、年越しやお祝い事の時には必ず集まって旧知を温め、誰かが問題にぶつかれば、自分から助けに行くような関係が続いている。 羅さんは、あきらめ顔でこう言った。「ここは静かだけど、あまりにも静かすぎる。誰も周りの人のことを理解していないし、昔のように、用事もないのに人の家に押しかけることはできない。ちょっとさびしいよ」 住宅改革と大規模な老朽危険住宅の建て直しは、短期間で数多くの人の居住スタイルを変え、人々にプライベートと個性的な生活を送るチャンスを与えた。また、隣近所にお互いに何でも知っている胡同(横町)時代の仲間や同僚がいなくなった一方で、そんな近い関係だったからこそあった衝突や煩わしさから抜け出すことができた。新しい生活のフィーリングは、複雑だ。 鮑さんは本当にラッキーだった。新居での生活にさびしさは感じられない。
彼女は現在、北京の牛街(住民の多くは回族)にある民族団結生活区に住んでいる。生活区の入り口には二本の大きなエンジュの木があり、その木の下には毎日多くの年配者が集まって、新聞を読み、おしゃべりをして、悠々自適に過ごす。鮑さんは、「ここの住民は、本当にいい引っ越しができた」と次のように語ってくれた。 九七年のことだった。北京市政府は、牛街地区で老朽危険住宅の建て直しプロジェクトを実施した。それに合わせ、鮑さんの家があった寿劉胡同とその周辺の住民は、新しい居民楼に引っ越した。鮑さん家族は、引っ越し前まで三世代五人が平屋の小さな二部屋に住んでいたが、新しく2DKの部屋を二つ与えられた。いまは、息子一家と鮑さん夫婦は同じ居民楼の別の階に生活している。孫娘は、自分の両親と一緒に眠ることも、おじいさんおばあさんが住む階下で眠ることもあり、家族みんなが楽しい生活を送っている。 このように、居住環境が改善され、家族の親密な関係も保たれるなら、改革で、誰が不快感を味わうだろう?
鮑さんと一緒に生活区を歩いていたところ、すれ違う人はみんな、あいさつを交わしていく。その温かい関係がうらやましくなった。鮑さんによると、同じ居民楼に住んでいるのは、みんな同じ胡同で暮らしていた昔からの隣人だという。いまでも毎日、軽い運動、散歩、買い物などに一緒に出掛け、突然押しかけてのおしゃべりもできる。まるで胡同に住んでいた時と同じように――。 住宅が変えた生活スタイル 生活と住居は、切っても切れない関係にある。例えば、四合院(※)での生活と、筒子楼(※)での生活は、フィーリングが違うだけでなく、生活スタイルもまったく異なる。先祖代々住んできた場所を離れれば、従来の生活スタイルも捨てなければならない状況に直面する。 趙さん一家は、三世代の七家庭、合計25人の大家族だ。北京市崇文区の四合院に住んでいる84歳のおばあさんが、この大家族をつなぎとめる重要なきずなになっている。彼女が健在のため、みんなは毎週土曜日に四合院に戻り、年配者たちはマージャンに興じ、青年たちは無駄話を楽しみ、子供たちは追いかけっこをして狂ったように遊ぶ。
結婚した息子さんや娘さんは、それぞれ自分の住居を手に入れたが、おばあさんは、いまでも長く住んだ四合院を離れようとしない。普段は、一人のお手伝いさんが、おばあさんの身の回りの世話をしている。四合院には冷暖房がなく、子供たちが「どうしても」と連れ出した暑さ、寒さが厳しい時だけ、子供たちの家に泊まる。共同で年長者を敬う中で、大家族は親密な関係を作り上げた。――仮に今日、おじさんが入院すれば、おばさんたちの子供が順番に病室で付き添う。明日、工場でリストラがあって、いとこが失業すれば、みんなで方法を考えて助ける。苦しみも喜びもすべて、大家族みんなのものなのだ。 おばあさんは失明寸前だが、なんとか四代目に当たる曾孫の顔を見ることができた。しかし、あと数年もすれば、彼女が住んでいる四合院も取り壊されてしまう。四合院がなくなってしまったら、この大家族はどこに集まればいいのだろう。何がみんなを結び付けるのだろう。 間違いなく、過去の家庭関係には変化が起きている。趙さん一家だけでなく、多くの伝統的な中国家庭で、同じような変化が起きている。ある調査によると、1985年以降、中国の一戸当たりの家族構成人数は明らかに少なくなっていて、四世代が一緒に生活したような大家族は、核家族に変わりつつある。この変化の原因の一つは、中国人の住宅が、交流しやすい独立した四合院式から、分譲型住宅に変化してきていることだろう。 当然、引っ越しですべてがうまく行く場合もある。
年配の楊慶林さんは以前、子供たちと一緒に宣武区輸入胡同の三部屋ある古い平屋建てに住んでいた。部屋は古かっただけでなく、とても狭い空間だった。それにお年寄りと若者では生活リズムが違い、生活スタイルも違った。楊さんは早寝早起きで、朝は子供のようにかわいがっているガビチョウの籠をさげて散歩に出掛けた。子供たちは、毎晩夜更かしして朝は遅く起きるのが普通で、朝食を抜くことも多い。家族同士で気を遣いながら生活していたが、不便なことは山ほどあった。 政府の老朽危険住宅建て直し政策のお陰で、彼らは古い住まいから新しいマンションに引っ越した。80歳近い楊さん夫婦はいま、2DKの住まいに住んでいる。そこはぴかぴかに掃除されていて、寝室の外のベランダには、あのガビチョウがいた。私たちがおじゃました日には、楊さんの長男が昼食の準備をしていた。一緒に住んでいるわけではないが、以前の胡同から立ち退いた後、息子さんも娘さんも、同じ生活区内の別の棟に引っ越して来た。子供にとっては、年配の両親の手伝いに来るのに便利で、楊さんたちにとっても、一緒に住んでいなくても子供たちと連絡が取りやすく、十分満足できる環境だという。親孝行ができ、自分たちの「小家庭」の独立を保ち、生活習慣や生活スタイルを守ることもできる。長男は、いつでも来られるし、電話もあるから不便はないと笑う。 住環境の変化は、生活そのものを変えた。そして部屋も、快適な空間に絶え間なく変化している。例えば今日の新築住宅では、住人用と客人用のバスルームが別々にあることが多い。台所も中国式、西洋式の区別がある。客間と寝室の構造の変化は、さらにはっきりと人々の生活への要求の変遷を映し出している。 従来の住宅の場合、各部屋のドアはほとんど客間に通じていたため、出入りは一目でわかってしまった。これではプライベートはないと同じだった。今日では、客間と他の部屋を完全に独立させ、寝室には寝室専用の廊下があり、客間は客人を接待し、余暇を過ごす専門の場所として設計されている。また多くの住宅は、入居者個人の好みで内装を変える余地が残されている。 建築学を学び、日本滞在経験がある不動産ディベロッパーの劉建忠さんは、独立した空間を作るために、大好きな畳を窓際の小さなスペースに敷き詰め、キッチンと畳の間にはふすまをつけた。そこは食事の後には黙考の場となり、ほかにも友達と碁や将棋を打ったりする時に使っている。 新生活区の新しい管理方法 北京市西部にある万泉新々家園は、新興の高級生活区だ。そこでは以前、住民同士で、「ベランダをガラス張りにして、部屋の一部にしてもよいか」という問題で意見衝突が発生した。 その建物は欧州タイプで、特に、おしゃれな大きなベランダは、見た人を幸せな気持ちにさせてくれる。しかし北京では、砂ぼこりが巻き上げられる日が多いため、ベランダにアルミ合金枠の窓を取り付けたいという考えを持つ人が多い。そうすれば、部屋の中に洗濯物を干せるだけでなく、物置スペースが増えるという利点もある。
しかし、反対者もいた。アメリカ留学から帰国したばかりの劉佳錏さんはその一人で、彼女はベランダの一件に触れるとちょっと興奮してこう言った。「部屋の中に洗濯物を干すのはおかしい。下着を干すなんてもってのほか。こんなにすばらしいデザインを台無しにして、どの家もベランダを囲んでしまうなんて考えられない。それに、部屋の中にごちゃごちゃと洗濯物を干したら、もう高級生活区とは言えない」。 このような意見衝突を仲裁するため、同生活区の不動産管理会社は、思い切って民主投票を行った。まず、同時期に入居した300軒あまりの家庭が、「ベランダをガラス張りにしたいか否か」を選択した。そして、どんな意見があろうとも、少数派は多数派に従うという原則を決めた。投票の結果、最終的に「ベランダをそのままにする派」が多数を占め、すでにベランダをガラス張りにしてしまった家庭でも、もとの形に戻すことが決定した。 このような衝突は、居住地の共有空間や共有環境に対する理解の相違が原因だった。いままで、このような問題がほとんど見られなかったのは、経済的に逼迫している状況下では、住環境に注意を払わなかったからだろう。新興高級生活区の住民の視点は、明らかに変化し始めている。 建国以来、中国の都市居住区の管理者は、住民委員会だった。委員は、地元住民から推薦されたすでに定年退職した年配者が担当することが多かった。所在地の街道弁事処(末端の行政単位で、日本の町内会に当たる)の管理下で、管轄範囲の住民が安全で衛生的な暮らしができるよう、各種サービスを提供するのが仕事だ。
最近、新興の生活区では、不動産管理会社が、従来は住民委員会が行っていた管理事務をすべて引き受けるようになっている。このような管理は、生活区開発に携わったディベロッパーが担当する場合もあれば、専門業者に依頼する場合もある。不動産管理会社の管轄範囲は、保安、衛生管理、緑化事業、駐車管理、簡単な部屋の補修などに及ぶ。中には、不動産管理会社が、幼稚園、スーパーマーケット、郵便局、クリーニング店、スポーツセンターを設置したり、不定期に音楽会や運動会などの活動を開催してサービスの充実を図っているケースもある。自然の成り行きとして、住民同士が生活習慣の違いにより衝突した際に、調停人を買って出るのも不動産管理会社だ。 生活区の管理方法に変化があれば、住民の要求も変わる。少なくない生活区の部屋の所有者は、連合してオーナー委員会を組織している。委員会は、住民の利益を代表し、不動産管理会社およびディベロッパーと交渉し、生活区の発展や管理方法の決定に参与する。これまでに、オーナー委員会が不動産管理会社の働きに満足せず、定期的に支払う契約になっている管理費の支払いを拒否したこともあった。 市内の昔ながらの生活区でも、若くて文化的水準が高い住民委員を選出し、年配者に取って代わるという変化が起こっている。住民委員会の仕事方法や業務内容も徐々に変わってきた。例えば体を動かせる場所やお年寄りステーションを設置したり、住民に代わって病院と連絡を取って訪問医療を手配するなど、住民向けサービス内容はどんどん増えている。 魅力的な仕事がもたらすすてきな生活 「好工作」(よい仕事)があってこそ、すてきな生活ができる。近年、様々な改革が進み、「好工作」の意味も変わってきた。いままでは、住宅を分配してくれる国家機関や比較的大きな公的機関での仕事こそが、典型的な「好工作」だった。しかし住宅改革後に概念が変わり、「外資系企業、中外合弁大企業または給料が高い公的機関での仕事」が「好工作」となった。なぜなら、比較的短期間で家を買えるお金が稼げるからだ。 ここ数年の大学卒業生の職業観から、これらの様子を理解できる。外資系企業、ハイテク企業、資金力豊富な大型国有企業など、給料が高い企業や機関は卒業生の第一希望で、逆に待遇が悪いところでは、人材の流失が止まらない事態に陥っている。中国人の就職観は、「一つの会社で一生勤め上げる」から、頻繁に待遇のよい勤め先を探し、「すてきな生活」のための基礎を打ち立てる形に変わった。しかも、銀行の住宅ローン業務がますます規範化され迅速になり、仕事のキャリヤが短く、経済的蓄えに限度がある若者でも、住宅を購入できるようになってきた。 今年北京で開催された住宅展示販売会では、若者の住宅購入者が多く見られ、人気の不動産プロジェクトの担当者によると、見学者のうち、半分は若者で、購入者に占める若者割合は七十パーセントにも達するという。
このような若者には、北京以外の出身者も少なくない。彼らは北京で仕事をしたり、創業したりして、経済的余裕ができてから住宅を購入し北京に定住する。現在、大部分の地区で戸籍管理の各種制限があり、自由に居住地を選べないが、住宅が商品化されたことで、いままで自分の「城」がなく、まるで町でただよっていたような人たちにも、定住地を持つチャンスができた。 文化関係の会社を経営する陳さんは、北京で成功した一人だ。6、7年前、彼はふるさとの浙江省での仕事を辞し、北京で創業した。平屋建ての一間からスタートし、恋人を見つけて結婚し、部屋を買い、昨年は子供ももうけ、本当に北京で一家の主となった。 「衣食住」と「交通手段」のうち、住まいさえあれば……というのは、最も質素な夢だ。住宅の商品化は、夢が叶うかもしれないという可能性、いままでなかった大きな生活空間、それに自由な生活スタイルの選択肢を与えてくれた。 住宅は自分の「城」であり、定住してこそ事業もうまく運ぶ。中国の住宅所有権の私有化は、中国人の生活に変化をもたらしただけでなく、今後の中国の発展にも大きな影響を与えるに違いない。 中国の住宅を理解する 住宅キーワード 中国の伝統的な住宅様式の一つ。母屋は、北側に南向きに建てられ、東西南北の四方向を向いた部屋が中庭を囲んでいる。一つの四合院には、二、三世代の家族が一緒に生活し、四世代の大家族が住むこともある。 一般的に、北側の母屋に年長者、東西の部屋に若者が住む。南側の日当たりの悪い部屋は、昔は召使が住むか物置になっていた。中庭は、ブドウや花を植え、金魚を飼い、夕涼みをし、食事をする家族全員の共有の場。年長者と若者は、同じ四合院の別の部屋で寝起きするため、助け合うには便利な環境だが、それぞれの生活をある程度制約し合うのは避けられない。 【大雑院】Daza-yuan 四合院が変化した住宅形式。年齢や親族関係にとらわれず、いくつかの世帯が混在して生活している四合院のこと。ふつう、大雑院に住む世帯数は多く、居住環境は悪い。徐々に居住人数が増えれば、さらに狭苦しさを感じるようになってしまう。 しかし、大雑院に住む人たちはお互いに仲が良いことが多く、みんなで助け合う雰囲気がある。祝祭日は、特にあふれんばかりの熱気に包まれる日。ある家で得意料理を作り、近所にお裾分けすると、今度はその家で作った料理をお返しでもらうことになる。こんなやり取りのあと、大雑院に住む各家庭の食卓にずらりと料理が並ぶ。 もちろん、取るに足らないようなことで、もめあいになることもある。そんな時には、隣人同士がなだめたり調停して、またいつもの平和な生活が戻ってくる。 【筒子楼】Tongzi-lou 多くの場合、元は公的機関や大学の事務棟または教室棟だった建物を宿舎として利用している住宅。ふつう洗面所は共用で、建物の真ん中に廊下があり、廊下の両側に部屋がある。共用の厨房があったり、廊下に炊事器具を置いて厨房の代わりにしている筒子楼もある。夕食時になると、廊下や共用の厨房は賑やかになり、どの家でどんな料理を作るかは、すぐに知ることができる。 筒子楼の住民は、同僚同士のことが多いが、必ずしも良い関係を保てるわけではない。なぜなら、同僚関係や上下関係を気にせざるを得ず、人間関係が近すぎても遠すぎても不都合があるからだ。例えば、賃上げ、職務階層評定、住宅分配、国外出張などをめぐる様々な仕事上の不愉快なやり取りも、ここでは、家庭生活と切り離せない。 【合居房】Heju-fang ふつう二世帯が一部屋ずつに分かれて住み、台所と洗面所は共同で使用する2DKまたは3DKのアパート。合居房に住んだ経験がある人は、必ず苦い思い出がある。プライバシー確保が贅沢品のように貴重になり、共用の場では、なるべく時間を掛けずにすぐに自分の部屋に引きこもろうとする人が多い。また、壁に耳ありと萎縮して、会話や喧嘩、子供へのしつけなど、何でも小声になってしまう。公園や街で散歩をしている時だけが、自由自在に振舞える時間となる。 【単元房】Danyuan-fang 公的機関が事業経費で建設して、従業員に賃貸したアパート。福利住宅分配時代の最高の享受品だった。単元房は、大小新旧の区別はあっても、一単元(ユニット)、すなわち一軒には一世帯しか生活せず、専用の厨房、お手洗い、寝室、居間がある。そのため、筒子楼、合居房、大雑院の住人からは羨望のまなざしで見られる。 単元房の住人は、帰宅後に外出したがらない人が多い。たとえ同じ場所で働いている仲間で、それぞれが知り合いでもあまり付き合おうとしない。合居房などでの共同生活の苦味をなめつくした人は、独立した生活空間を持ちたいと望んでいる。 【公寓】Gongyu 分譲マンションのこと。商品房ともいう。内部構造は単元房と似ているが、分配されることはない。そのため、「○○部宿舎」などではなく、「△△花園」「□□家園」などの美しい名称を冠する。公寓のある生活区には緑地が多く、専用駐車場や駐車スペースがあり、小型スーパーやスポーツセンター、娯楽センターなどを設けているところもある。 公寓の管理は、単元房のように住民が選出した住民委員会が行うのではなく、ディベロッパーの不動産管理会社またはさらに専門性が高い会社に依頼する。公寓の住人は、職場の同僚ではないため、人間関係はさっぱりしていて、平和そのもの。 【経済適用房】Jingji-shiyong-fang 入札を経て建設された低価格の分譲住宅。多くの庶民は、商品房(分譲マンション)には経済的に手が届かないため、政府が介入した住宅難解消対策の一つ。政府が不動産業者に対して、地価優遇、税金軽減、ディベロッパーの利潤率の制限などの配慮をし、建造費を抑えたことで、高品質、低価格の住宅提供に成功した。 経済適用房は大人気だが、初期には購入者の年収上限などがなかったため、供給不足に陥ってしまった。そこで政府は、購入基準を作った。それによると、年収6万元以内で、しかも、現在住宅資産がないか、または現在居住している住宅面積が基準に達していない場合に限り、購入できることになっている。今後の建設面積、建築基準、建築量などは、現在検討中。 【公房】Gongfang 都市住宅制度改革の際に個人に払い下げられた公的機関の住宅。払い下げられた時には、建物の新旧、品質、階などのほか、居住者の勤務年数、年齢を元に割引額を決め、相応の福利とした。いま、大多数の人が所有している不動産は、この公房。 不動産産業は目下、中国で最もエネルギッシュな業界として注目を集めている。メディアで大々的に取り上げられ、あちこちで広告を目にすることができる。また、住宅展示販売会もますます増えてきていて、マイホーム購入は、市民が最も興味を持っている話題になっている。 中国人が、自らの希望で自分のメガネに叶った住宅を探すという動きは、ここ数年の新しい徴候だ。何十年もの間、中国の都市住民の住まいは、勤め先から賃貸した公有の住宅だった。しかも既婚の夫婦でさえ、結婚後何年も待ってやっと、2DK程度の部屋に引っ越せることが多かった。そのため、二世代家族、ひいては三世代が、狭い部屋に一緒に住むこともめずらしくはなかった。 80年代初め、ケ小平氏が、住宅の商品化を呼びかけて以来、都市住宅制度改革は20年余りにわたって紆余曲折を経て進められてきた。 一人ひとりの利益に直結するこの改革は、近年になってようやく大きな成果が現れてきた。1997年に個人住宅ローンがスタート。2000年には、中央の財政支出により、20億元の住宅建設資金が、勤め人の住宅補助手当として支給されることになった。そして同年末、福利住宅分配は中止された。2000年末現在、全国の個人による商品住宅購入面積は、全体の89・4パーセントを占めている。 絶対多数の市民は、住環境を改善するため、必要にかられてマイホームを購入したが、同時に、一部の人は、早い時期から不動産に投資するという考えを持っていた。家を買ったかどうか、どこに買ったか、ローンを組んだかどうか、品質はどうか――これらは、日常生活での注目の話題となった。 福利住宅分配制度が中止され、個人向け住宅市場が開かれたことは、市民生活に大きな影響を及ぼすとともに、中国の不動産産業を発展させる原動力となった。以前の建築業は、国の基盤産業の一つだったが、いまではさらに、耐久消費財産業としても重要な役割を果たしている。 長い間、建築業界のクライアントは公的機関で、建築した建物のセールスポイントを分析する必要はなかった。しかも、設計が紋切り型でも一向に構わず、クライアントの要求に応じて、1DKや2DK、3DKといった部屋を造ればそれで終わりだった。しかしいまでは、着実に増えている個人消費者の意見に耳を傾ける必要があり、しかも要求は千差万別だ。建築業者は、購入希望者の住み心地を考慮し、しかも激しい市場競争を受け入れ、新奇で高品質低価格な住宅を提供してこそ、生き残っていける。 ここ数年、不動産業界の競争は日に日に激しくなっている。その結果、不動産物件もますます多様化し、消費者の要望を満たしてきている。また、様々なニューアイデアや世界の潮流にキャッチアップした新コンセプトも次々と現れてきた。最近、不動産ディベロッパーは、都市部だけでなく、もっとも消費潜在力が大きいと思われる地方へも住宅建築をはじめている。中には、海外から建築デザイナーを招いて最新の住宅設計計画を行う動きもある。 住宅広告を見ると、キャッチフレーズは多種多様だ。「CBD(セントラル・ビジネス・ディストリクト)での高品質生活」と、市街地に住む便利さを強調したり、「近郊の緑豊かな場所での小川や小橋、家がある生活」と、郊外に住む快適さをうたっている。また、生活区内に有名学校を誘致し、消費者の購入欲を刺激したり、海外のデザイナーを招いてその人から住み心地の良さをアピールしてもらうケースもある。そのほか、比較的低額で市内と同じような生活環境を手に入れることができるマンションの小さな部屋や、プライベートを重視したアパート式住宅や別荘風の住宅地を薦める広告もあった。 統計によると、1950年から1978年までの中国の全国都市住宅建設投資額は374億元、年平均住宅建設面積は1800万平方メートルだった。改革・開放後、住宅建設はスピード・アップし、九六年以降では、完工した住宅が毎年三億平方メートルを上回っている。91年から九六年の都市住宅投資は1兆1千4百95億元に達した。これは、49年から79年の総投資額の30倍以上だ。全国の都市部の一人当たり居住面積は、建国初期には4・5平方メートルだったが、2000年には12平方メートルになり、北京だけを見れば15平方メートルに拡大している。 中国の不動産産業の目覚しい発展は、すでに中国経済の大きな推進力になっている。中国房地産(不動産)協会の見積もりでは、2000年の中国GDP成長率8パーセントのうち、住宅建設は少なくとも1・5ポイントを占めていた。専門家は、今後10年間、中国の不動産産業は引き続き成長基調を保ち続けると予測している。(2001年12月号より) |