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30年前の9月29日午前10時――これは永遠に史書に記載される時刻であろう。中日両国政府が北京で、『共同声明』に調印した瞬間である。この時を期して、半世紀以上に及んだ両国の対立と抗争、さらに「戦争状態」にピリオドが打たれ、両国の国交が回復した。中日両国の人々は喜びにわきかえった。中日関係の長期にわたる友好の一ページが開かれたのである。
30年来、中日関係の道はデコボコや曲折があったが、「友好」を奏でる主旋律が止むことはなかった。国交正常化当時の、両国の各階層、各団体の人々が果たした数々の努力に想いをはせ、さらに今日の中日関係を考えるとき、私たちは中日の友好と平和な環境をつくるために力を尽くしたあの「井戸を掘った人々」を忘れることはできない。
中日関係は「和すればすなわち利あり、闘えばともに傷つく」。知恵も能力もある中日両国の人民は、この新しい世紀に、引き続き中日友好協力の新たな「交響曲」を創作し続けていくに違いない。
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その一 |
その夜、新たな歴史がひらかれた
毛―田中会談を再現する
横堀 克己
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1972年9月27日の夜、毛沢東主席は田中角栄首相一行を書斎に迎えて会見し、友好的で重要な意見交換を行った(新華社) |
中国の毛沢東主席と日本の田中角栄首相が初めて握手を交わしたのは、30年前の、1972年9月27日の夜のことであった。この歴史的な会見によって、中国と日本が長かった「戦争状態」を終わらせ、正式に国交を正常化することが最終的に確定したのである。
北京・中南海の毛主席の書斎で行われた毛―田中会談に同席した人は、日本側は大平正芳外相、二階堂進官房長官、中国側は周恩来総理、姫鵬飛外相、廖承志中日友好協会会長である。だが残念なことに、いまはみな、この世を去ってしまった。
会談の内容は、終了後、二階堂長官が日本の随行記者団にその模様をブリーフィングし、それが翌朝の日本の新聞に載っただけで、中国側からのくわしい発表はなかった。はたして二階堂長官が言うように「一切、政治的な話は抜きだった」のだろうか。本当は何が話し合われ、どんなやりとりがあったのか。
それを知る二人の生き証人がいる。通訳・記録係としてこの会談に同席した二人の中国女性だった。王效賢さんと林麗雹さんの二人である。日本側の事務方は参加していない。
二人の記憶などをもとに「歴史的一夜」を再現してみた。すると、これまで伝えられていなかった両国首脳の、生き生きとしたやりとりがわかってきた。ユーモア溢れる和やかな雰囲気の中にも、国交正常化のためにはゆるがせにできない問題も、この会談で真剣に話し合われていたのである。(文中の肩書きはいずれも当時)
田中首相一行が泊まっていた釣魚台の迎賓館に、毛主席が会うとの知らせがあったのは、一行が中国を訪問してから三日目の夕刻だった。その知らせは「突然やってきた」と、日本側は受け止めている。大平外相の回想によると、招かれたのは田中首相、大平外相だけだったが、日本側の要望で二階堂長官も加わることになり、三人は車で迎賓館を出発した。
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林麗ウンさん 1933年3月、台湾・台中生まれ、40年から52年まで、日本・神戸の小、中、高校で学び、神戸中華同文学校の教員となる。52年に中国に帰国し、北京大学で生物学を学ぶ。53年から中連部に勤務し、局長となる。全国人民代表大会常務委員を五期つとめた後、現在、中国共産党中央委員、中華全国帰国華僑連合会副主席、中国国際文化交流センター副理事長。 |
田中首相の一行は9月25日に北京空港に着き、ただちに田中首相と周総理による第一回首脳会談が開催された。26日には第二回会談が、27日には第三回会談が挙行されたが、中国の最高指導者の毛主席はずっと姿を見せなかった。第三回会談の直後、毛主席が会見するということは、交渉が基本的にまとまったことを予感させるものであった。
当時、外交部アジア局に勤めていた王效賢さんと、中聯部(中国共産党中央対外連絡部)で働いていた林麗ウンさんは、自宅に帰っている暇はなかった。二人とも、その他の中国側のスタッフとともに、交渉が行われた人民大会堂の中にある部屋に泊り込んで仕事をしていた。第三回会談が終わったあと、突然二人は「これから毛主席のところに行く」と告げられた。
「周総理が自ら『私の車に乗りなさい』と言い、人民大会堂から高級乗用車の『紅旗』で、中南海にある毛主席の住居に向かいました。前の座席に運転手と護衛が乗り、後ろの座席に周総理と私たちが乗ったのです」と二人は言う。
周総理は、事務方で働く人たちに細かい心配りをする人であった。林さんは、以前にも周総理の車に乗せてもらったことがあった。
王效賢さん 1930年6月、河北省生まれ。北京大学で日本語を学び、53年から外交学会、71年から外務省勤務。外務省日本課長を経て83年から86年まで、駐日中国大使館に勤務。86年から中日友好協会副会長兼秘書長、中国人民対外友好協会副会長をつとめ、現在は中日友好協会副会長、政治協商会議全国委員。 |
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それは1956年、日本・神戸で教育を受けたあと、「祖国建設のため」中国に帰国した林さんが、初めて毛主席の通訳をしたときのことである。それまでは中聯部の趙安博氏が毛主席の通訳を勤めていたが、この日、突然、通訳せよと言われたのだ。だが毛主席の言葉は、湖南の訛りが非常に強く、同じ中国人でも、慣れないとよく聞き取れない。
「一瞬、頭が真っ白になって、なにがなんだかわからなくなってしまった。するとそばにいた周総理や廖承志会長が、『小姑娘、落ち着いて』と励ましてくれたのです。西郊賓館での会議の後、中南海へ戻るとき、周総理が自分の車に乗せてくれました。夕暮れの西単の十字路にさしかかると、時計塔の時報が聞こえてきました。それを今でもはっきり覚えています」と林さんは当時を振り返る。
王さんもまた、周総理の心配りを思い出す。
日本との国交正常化交渉が始まる少し前、王さんは林さんといっしょに、毛主席と周総理が話し合う場に連れていかれた。「毛主席の言葉は難しいので、耳ならしをしておいたほうが良い、という周総理の配慮だった。そういうチャンスが二回ありました。おかげで交渉が始まるときには毛主席の言葉はよくわかるようになっていました」と言うのである。
周総理と王さん、林さんを乗せた『紅旗』は、中国の指導者たちが住み、執務する中南海にすべり込んだ。
会見場所は毛主席の住まいの中にある書斎だった。毛主席をはじめ中国側の要人はすでに書斎の中にいた。毛主席と周総理、姫外相は薄いグレーの中山服、廖会長だけが濃いグレーの中山服を着ていた。毛主席は顔色もよく、足取りもしっかりしていた。
壁の書棚は、中国の古い書籍でいっぱいだった。毛主席はすでに読んだ本に白く小さな付箋をつけていた。大きなスタンドの灯りはこうこうと輝き、部屋はとても明るかった。床には赤い絨毯が敷かれ、椅子には薄いピンクのカバーがかけられていた。九月末なのに暑い夜だった。
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今年3月15日、横浜の日中友好協会訪中団の一行33人が、北京の玉淵潭公園の中の桜花園で、桜の木を植えた。桜花園の桜は、もともと30年前の中日国交正常化の際、田中首相が北京に贈呈したものだ(newsphoto) |
「書斎といってもとても広々としていた。声が聞こえないといけないので、私たち二人は椅子を動かして、毛主席に近いところに座りました」と林さんはいう。
それからどれほどの時間が経ったか、はっきりしない。午後八時、田中首相の一行が到着した。
「毛主席は田中首相を迎えるため、部屋の外に出て、立って待っていました。田中首相は顔の汗をハンカチで拭きながらやってきました。二人はしっかりと握手し、それを中国のカメラマンがフラッシュをたいて写しました。撮影は一回だけでした」と王さんは回顧する。
田中首相は毛主席に大平外相を紹介し、二人は握手を交わした。そのときである。毛主席が「天下大平」と言ったのだ。「大平」を「太平」にかけたのだ。林さんはこれを「天下泰平ですね」と訳した。この当意即妙のユーモアに、笑い声が起こった。最初は厳粛な顔をしていた田中首相の顔がほころび、それ以後、和気あいあいとした雰囲気となった。
テーブルには杭州の竜井茶が入れられた。愛煙家の毛主席だったが、タバコに手を出さなかった。暑がりで有名な田中首相も、このときばかりは愛用の扇子を取り出さなかった。
会談が始まった。最初に口を開いたのは、毛主席だった。後に有名となるあの言葉である。中国語ではこう言った。
「チャオ(口に少)完架了マ?総是要チャオ一些的。天下没有不チャオ架的嘛」
(喧嘩はもうすみましたか。喧嘩は避けられないものですよ。世の中には喧嘩がないわけはないのです)
二階堂長官のブリーフィングでは、最後の一句はなく、「喧嘩してこそ初めて仲良くなれます」と言ったことになっている。
「喧嘩」とは何を意味するのか。それは国交正常化に当たって、戦争の終結をどう宣言するか、台湾をどう位置付けるか、などを巡って中日間に大きな意見の隔たりがあり、首脳会談で激しい論戦が交わされたことを指す。
これに対し田中首相は「少しやりました。しかし、問題は解決しました」と答えた。三回目の首脳会談で、双方が知恵を出し合い、大筋で合意を見たことを述べたのだった。
すると毛主席は、大平外相と姫外相を見やりながら「ト續c他打敗了ーノ」とユーモアをこめて尋ねたのだ。「あなたは、相手を打ち負かしたのですね」というわけだ。
大平外相はあわてて答えた。「いいえ、打ち負かしてはいません。我々は平等です」。こういい終わるや、大平、姫両外相は声を合わせて笑った。
周総理がこの会話をひきとって「両国外相很努力」と言った。「両国の外相はともに大変よくがんばった」とその労をねぎらったのである。田中首相もこれに続けて「両国の外相は、大変努力して、多くの仕事を成し遂げました」とたたえた。
すると毛主席は、姫外相を指差しながら「他是周文王的后代」と言った。「彼は周の文王の末裔だ」というのである。
周の文王は、周王朝の基礎を作った名君と言われ、姓は姫、名は昌といい、太公望呂尚をはじめ多数の人材、賢者がその下に集まったことで知られている。周の勢いを恐れた殷の紂王のために捕らえられたこともあるが、虞とワヌの両国の争いを裁いてから勢力を伸ばした。在位五十年といわれ、その子の武王が天下を取る基礎を築いた人物である。
歴史に詳しい毛主席らしい、人物紹介である。
すると周総理が「周文王姓姫 他不姓我這個周」と言った。「周の文王の姓は姫で、私のような周姓ではありません」ということだ。「これを聞いてみんなが笑った」のを王さんは覚えている。
周総理がこう言った理由は何か。中国の歴史や氏姓に詳しくない日本側に、毛主席の発言の意味を解説したのか、それにとどまらず、もっと深い含意があったのか、それはよくわからない。周総理は、自分は周の文王のような人物でない、と謙遜したのではないだろうか。
今度は廖会長の話になった。二階堂長官の話では「毛主席は廖会長を指差しながら『彼は日本で生まれたので、今度帰る際にはぜひ連れていってください』といい、田中首相が『廖承志先生は日本でも非常に有名です。もし参議院全国区の選挙に出馬されれば、必ず当選するでしょう』と応じた」という。
王さんも廖会長に関してこういう趣旨の話があったことを確認している。当時の参議院は、全国区と地方区に分かれていて、全国区の候補者は、知名度の高い人物が当選しやすい制度だった。
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毛主席は自分の愛読する『楚辞集注』を田中首相に贈った。左は周恩来総理(新華社) |
この後、中華料理や中国茶、テゥ台酒の話になったという。田中首相が「テゥ台酒は六〇度といわれますが、とてもおいしい」と言うと、毛主席が「誰が六〇度と言いましたか。テゥ台酒は七五度ですよ」と応じ、さらに中国の歴史の話や日本の選挙などについて「ユーモアを交えた和やかなやりとりが続いた」と二階堂長官は紹介している。だが、王さんも林さんも、こうしたやりとりを覚えていない。
しかし、二階堂長官が言わなかった重要なことを、二人はしっかり記憶していた。それは「添了麻煩」(迷惑をかけた)に関するやりとりである。
毛主席が「添了麻煩的問題 怎マ解決了」(「添了麻煩」の問題はどうなったのか)と言い出したのだった。そして書斎の後ろの方に控えていた毛主席の英語の通訳で、若い女性の唐聞生さんを指差しながら「女同志有意見」(彼女たちは文句を言っているのです)と言ったのだった。しかし毛主席の口調は、厳しいものではなく、穏やかだった。
「添了麻煩」の問題は、田中首相が中国訪問の初日に、人民大会堂で開かれた歓迎宴で、こう演説したことに端を発する。
「過去数十年にわたって日中関係は、遺憾ながら、不幸な経過をたどってまいりました。この間、わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて、私はあらためて深い反省の念を表明するものであります」
日本側通訳が「多大のご迷惑をおかけした」を「添了麻煩」と中国語に訳したとき、宴会場にざわめきが起こった。中国側の日本語通訳を担当していた林さんに、英語の通訳の唐さんが「『添了麻煩』なんて軽すぎるのではないの」とささやきかけたのだ。
確かに「添了麻煩」という表現は、「女性のスカートに水をかけてしまったときに使われる」程度の軽い言葉とされている。「周総理もこれを聞いて憤慨した」と、周総理周辺にいた人たちは証言している。日本の侵略による戦争でもたらされた被害と責任について日本側がどう認識しているかを、この表現は端的に示していた。だから首脳会談では、これをめぐって激しい議論が交わされてきたのである。
毛主席のこの問いに大平外相が答えた。「これは、中国側の意見に従って改め、解決しました」
確かに中日双方の激しい議論の末、九月二十九日発表された『共同声明』では、「日本側は過去において、日本国が戦争を通じて中国人民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と明記されたのだった。日本側が「添了麻煩」という表現をやめ、中国側の主張に歩み寄ったことは明らかだ。
二階堂長官は、「政治的な話はなかった」と言ったが、これこそまさに政治的なやりとりだった。
だが、二階堂長官の苦労も察してあげなければならないだろう。この時点では、双方の意見は大筋で合意に達したものの、『共同声明』の文言をめぐって最終的な詰めの作業がまだ続いていた。それが随行記者団に漏れれば、思わぬ結果を引き起こすかもしれない、と心配したに違いない。
一時間に及ぶ会見は、和やかな雰囲気のうちに終わりに近づいた。
毛主席は、書棚の中から糸とじ本の『楚辞集注』六巻を取ってくるよう服務員に言いつけ、立ち上がってそれを田中首相に手渡した。『楚辞集注』は、楚の宰相であり詩人でもあった屈原らの辞賦を集めた『楚辞』に、南宋の学者、朱熹が注釈を付けたものである。
なぜ『楚辞集注』を贈ったのか。さまざまな憶測が流れた。「屈原に引っかけて、国民の利益のため決然として訪中した田中首相の愛国心を称えたのだ」という見方もあった。真相はよくわからない。しかし「主席はこの本が大好きだったからに違いありません」と王さんはみている。
毛主席は、田中首相が強く固辞したにもかかわらず、書斎から玄関まで一行を見送りに出た。毛主席の足取りは速く、遅れまいと、林さんは小走りについて行ったという。
こうして「歴史的な会見」は終わった。
あれから三十年。中国と日本はそれぞれ発展し、中日関係も貿易や人の往来の面で飛躍的な伸びを見せた。しかし、教科書問題や歴史認識、靖国神社への首相の参拝などで、中日関係に波風が立っている。
「歴史的会見」に同席した王さんと林さんは、いま、何を考え、どんな教訓を引き出しているだろうか。
王さんはこう言う。「中日両国はどんなことがあっても戦争してはいけない。戦争で被害を受けたのは両国の人民であり、ごく少数の日本軍国主義者とは区別すべきだ。歴史を過去のものにし、前に向かって進む必要がある。そのためには、日本は過去の侵略の歴史を承認し、反省する。そこに『中日共同声明』の原点がある。教科書問題などが起こるたびに『原点に帰れ』と私は思う」
林さんはこう言う。「周総理は、『飲水不忘掘井人』と言われた。今日の中日関係を考えるとき、その井戸を掘った人たちの苦労を忘れてはいけない。国交正常化に到るまでも、民間交流が大きな役割を果たした。民間大使と言われた西園寺公一先生は、国交正常化が実現するまで禁煙を続け、『共同声明』が発表されてからタバコに火をつけて、おいしそうに一服吸った。国交正常化という仕事は、容易ではなかったのです」
(2002年9月号より)
筆者略歴
1941年9月、東京生まれ、朝日新聞北京支局長、論説委員を経て現在、『人民中国』編集顧問
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