その2
「日本語文学」の冒険に挑む
王衆一

大学の研究室の楊さん

 外国語である日本語で、外国である日本での暮らしや心の軌跡を、小説という方法で表現し続ける中国人がいる。楊天曦さん、36歳。大学で教鞭を執るかたわら、創作活動を続けている。

 留学生として日本に来てから十余年。日本という異文化の中で、望郷の念が募る中、時には中国と日本の間に横たわるあまりにも深い溝に絶望し、悩んできた。

 孤絶感と挫折。その中から彼は、研究論文ではなく小説で、しかも母国語ではなく日本語で、自分の想いを書こうと思い定めたのだった。

楊さんの作品を収めた単行本や雑誌

 どうして日本語にこだわるのか。楊さんは言う。

 「日本語の、『懐かしい』とか『懐かしさ』とかいう言葉は、郷愁という意味を越え、未来に向かう広がりを感じさせる、なにかそういう響きがあるんです。そう感じるのは僕だけじゃないと思う」

 名古屋大学在学中に彼は、処女作『纒足』を書いた。それが「北日本文学賞」(北日本新聞主催)の候補作品として選ばれた。

 「一人暮らしの老女の生きざまを、少年の目を通し、みずみずしい感覚でつづっている。リアリズムに富み、文章もしっかりしていた。外国人で最終候補に残ったのは北日本文学賞の歴史では初めて」(北日本新聞第 回北日本文学賞選評による)という高い評価を得た。

楊さん一家の弘前での生活は雪の中

 しかし彼に言わせれば「あの小説はホームシックと寂しさの産物」なのだそうだ。「僕は基本的に、移動するのが好きじゃない。保守的な面があると言われたら、素直に認める。『古井戸』という映画に出てくる山村の農民たちの性格に似ています」と楊さんは言う。

 映画『古井戸』は、太行山脈の中にある山西省の貧しい山村の農民が、痩せた土地にしがみつきながら、絶対にその土地から離れようとせず、水争いを繰り返す物語である。「私も山西省の出身。だから、日本にやってきた当時は、まったく気持ちが落ち着かなかったのですよ」と言うのである。

 処女作が認められた彼は、名古屋在住の作家、斎藤洋大氏とともに文学共同誌『看』を発刊し、そこで作品をたて続けに発表した。それらの作品は、「中国人、楊天曦の気の張り詰めた文章」「あえて異国の言葉で表現を共同するという彼の意志が、雑誌の柱であると言ってもいい」(朝日新聞1992年6月16日付け 文芸評論家 清水良典氏)と注目を浴び、また波紋を呼んだ。

 「アジアの中の日本」という視点が新たに意識され始めた時代だった。『看』というこの薄い文学誌が高く評価されたことは、新しい時代の要請を予感させるものであった。

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 日本語で小説を書く――それは楊さんにとって困難な挑戦であると同時に、喜びに満ちた冒険でもあった。「最初はただ日本語で文章を書くという新鮮な感動に駆られていた」と彼はいう。

 しかし、日本語と中国語の二つの言語で表現する『看』の試みに、多くの人々が加わるようになった。中国映画祭の名古屋会場の主催責任者である木全純治氏、中国人留学生、日本人の学生や社会人……。日本と中国の間に大きな空間が開かれ、『看』はそのフロンティアとして役割を果たし始めたのだった。

映画『雲南物語』の撮影現場。左から3人目が張暖忻監督

 「だがその経験は、その後の長い模索と反復の始まりに過ぎなかった」と楊さんは回顧する。中国人の自分がなぜ日本語で書くのか、という問題との対峙が続いた。そして生活と仕事の場が名古屋から青森県弘前に移ってから、この問題と本格的に向き合うことになる。

 1996年11月から楊さんは、海越出版の創刊した文芸誌『小説海越』に小説を発表し始める。創刊号の巻頭を飾った短編『寝台』が注目され、日本在住のアメリカ人作家リービ英雄、スイス人作家デビット・ゾペティの作品とともに、「日本語のクレオール的な傾向の文学」(朝日新聞文芸時評 1996年12月11日付け)と評された。「クレオール」とは、異文化が接触し、融合することである。

 それまでの彼の作品は、ほとんどが中国を舞台とし、中国を題材としてきたが、この時から日本人を主人公とする小説も発表し始めた。また、日本語と自分との関係についても考え始めた。その時期に書かれた短編『肌色の言葉』は、その年の優秀な短編を集めた『文学1999』(講談社 日本文芸家協会編)に収められ、日本の文学界に一石を投じた。文芸評論家の菅野昭正氏はこう評している。

 「外国語で書かれたこの小説は、日本語にとって、さらに日本の小説にとって、決して小さくはない衝撃を潜在させているように思われる。現状で欠けているものが十分に充たされたならば、自然に習得した言語としての日本語に内在する脆さ、あるいはまたそれに凭れかかる小説表現のかかえこむ危うさに対して、暗黙の鋭い批評になる可能性が感じられるからである」(『文学1999』の前書きから)

 彼はこの作品を機に、小説が持つ「批評の力」を考え始めた。それぞれ相違点を持つ文学や文化が、それらが出会った時から自動的に「批評の機能」を果たし始める、と考えるようになった。だからこそ、日本語を母国語とする話し手や書き手がなかなか届かない言語の死角に、外国人であるからこそ自分が踏み込める可能性があるのではないか、と彼は考えたのだった。自分の表現行為に新たな意味を発見した彼は、興奮した。

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 創作活動のかたわら楊さんは、中国映画を日本に紹介する仕事に、ボランティアで精力的に取り組んだ。彼が留学していた名古屋は、毎年開催される「中国映画祭」の開催地の一つだった。90年代の前半の5年間、毎年、映画祭が開催される時期に合わせて訪れる中国の映画代表団の歓迎セレモニーや市民との交流活動に、彼はその計画から運営まで、重要な役割を果たした。

町内会の掲示板にポスターを貼る楊さん

 中国語映画の字幕翻訳にも手を染めた。台湾の先鋭、頼声川監督の映画『暗恋桃花源』や、張暖忻監督の中日合作映画で、歴史に翻弄される日本人女性の半生を描いた人間ドラマ『雲南物語』の日本語字幕をつくった。

 中国映画の世界では、オヒ小平氏による改革・開放が始まってから、「ニューウエーブ」が出現した。これを担った「第5世代」を紹介し、その発生から成長までを記録した書物『北京電影学院物語』(ニーチェン著、全国書籍出版)が日本で出版された。楊さんはこの本の日本語訳も手がけた。この本は、「第5世代」の映画人を深く分析し、彼らの秘密がいっぱい詰まっている初の貴重な記録として、日本でも反響を呼んだ。

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 日本に深く根を下ろした楊さんは、もはや望郷の念に身を焦がすことはなくなったのか。

 「ホームシック? まだ罹るよ。ただ最近見る夢には、16歳まで暮らした山西省太原の街と、いま住んでいる弘前の街とが溶け合う風景が出て来る。夢に現れる景色はすごく自然で、まったく変な感じがしないんです。どちらも盆地で、西側に川が流れているところが似ているのも確かだが……」

 弘前大学で、中国語と中国文化を教える楊さんは、地域の人たちとの協力関係が本当の意味での豊かな生活を作ると考えている。だから楊さん一家はあげて地元にとけ込んでいる。

 楊さんの妻であり、大学時代の同級生でもあった顧国玉さんは、大学の非常勤講師として中国語を教えるかたわら、市民の中国料理教室で教えている。今年4月からは、楊さんは自分の住んでいる町の町内会長をつとめることになった。

料理教室で教える妻の顧さん(左端)

 日本で生まれた長男の海翔くんは、弘前の小学校に入った。しかし、家庭では、長男の海翔くんと3歳になる次男の海若くんに、楊さん夫婦は中国語を教えている。中国語と日本語を自由に操るバイリンガルに育てるのは、並たいていのことではない。だが、これも楊さんにとっては一つの新しい挑戦なのだという。

 時には、子どもたちの言葉に、強い衝撃を受けることがある。二つの文化の間を生きる子どもたちは、日常生活の中で、鋭く真実を見ているからだ。

 ある日、テレビの討論会を見入っていた楊さんに、海翔くんが訊いた。「父さん、このおじさんたち、なに話してるの?」

 楊さんは少し考えてから答えた。「どうすれば日本と中国がずっと仲良くできるかについてさ」

 すると海翔くんは「もしかしてそれって、大人たちにはものすごく難しいこと? 僕には簡単。僕は中国人だけど、お友達みんなとうまくやっているよ」と言ったのだ。
 子供の言葉で心が洗われた、と楊さんは感じた。

 「子供は未来であり、人間のふるさとが宿る場所は、子供の心の中にある」と詩人は歌う。あるいは、楊さんが「懐かしい」という日本語に未来への可能性を感じたように、人間の心の底で「懐かしく思うもの」は、すべて未来に深くつながるのかもしれない。 (写真提供 楊天曦)(2002年11月号より)