その3
言葉の海を回遊する
王衆一 張 哲

和室で一服する毛さん(撮影 宮川透)

 「日本に関する夢を見ると、その中にかならず『毛丹青』という魚が泳いでいる。彼は花柄の上着に赤いズボンをはき、艶やかな熱帯魚のように日本海を泳ぎ回っている。その姿は、多くの日本の魚より派手である。彼の華やかな泳ぐ姿が注目を集めるのも、そう遠いことではなかろう。比喩の世界では魚たちの注意を、現実の世界では人々の注意を呼ぶ に違いない」(作家・莫言の随筆『泳げ、魚になったわが毛君』より)(文中敬称略)

水を得た魚の如く

 毛丹青。彼は現在、中日両国の文壇で活躍している、二カ国語を自由に操るバイリンガル作家である。1962年に北京で生まれた彼は、常々、「北京小子」と自称している。だが、彼の血管には上海人の血が流れている。北京人の叡智と上海人の聡明さが、多分、その後の彼の出国と成功を促し、これを成し遂げさせたのだろう。

 「私は『異端』です。なぜなら『分』に安んずることがないから。もともと生活の穴蔵の中で、とぐろを巻いているのは嫌いだ」と彼は言う。

 1984年、彼は北京大学哲学学部を卒業し、中国社会科学院哲学研究所で3年間、研究助手をつとめた。だが、ほどなく彼は、自分の知識の累積には生命力がないと感じた。1987年、生活を変えようと決意した彼は、単身、日本へ留学した。

 しかし、1994年には、また冒険をしたいという衝動にかられて、学業を捨て、商業に従事することになる。バブル経済崩壊後の日本の商社は、昔日の秩序や睦まじい同僚との関係はなくなり、焦燥感の中で、人と人との対立や摩擦がたびたび生ずるようになっていた。

 これは、眼光鋭い彼にとって、日本人を観察する絶好のチャンスを与えた。「もしこうして商業に従事する経験がなかったら、私と日本人との距離が今のようにこれほど近くなりはしなかったろう」と、彼自身も認めている。

 人との交流、摩擦、対立は、その後の彼の「言葉と文学の冒険」の原動力になった。僧侶、企業家、政治家、警官、ホステス、主婦、小企業の主人、サラリーマン、漁師、セールスマン、農民、ホームレスなどなど、これまでに会った普通の日本人の笑顔や声の一つ一つが、無数の記憶の断片に変化し、そしてこれまでの中国での記憶と一つに溶け合った。

 こうした文化の衝突は、この「北京小子」の意気を沮喪させたり、挫折されたりするどころか、かえってもっと融け込みたいという強烈な衝動を引き起こした。この過程で彼は、自ら行動することによって文化環境を乗り越えることに成功したのだ。

 文化的衝突に直面したとき、彼は決して妥協したり退却したりはしない。真正面からこれに向かい合い、文化と格闘する中で相手と融合し、一体となる。そして「相手の中に自分があり、自分の中に相手がある」という境地に達する。これこそ彼が総括した「対抗」の概念である。「対抗」は、文化融合の不可欠な前提条件となっている。こうした境地に達したあと、彼はまるで魚が水を得たように感じた。

 『赤いコーリャン』『豊乳肥臀』を書いた作家の莫言は、日本へ行ってからエッセイ『泳げ、魚になったわが毛君』を書いた。その中で彼は、こう観察している。

 「日本には数千、数万の中国人が暮らしている。……彼らは基本的に日本人と混在している。しかし、もし日本人を一群の魚と喩えたとすれば、われらの中国の兄弟姉妹たちは、魚群の中にいる一群れの蝦のようなものだ。蝦も水の中で泳ぎ、餌をあさることができるが、魚とはことごとく、しっくりいかない」

 そして彼は「日本に来たのは、自ら進んで来たいと思って来たのだから、なるべく早く蝦から魚に変わり、魚と一緒に泳がなくてはならない」と主張する。冒頭に掲げた莫言の毛丹青に対する評価は、「毛丹青がすでに一匹の魚に変わった」と莫言が認めたからである。

言葉の川に思想の筏を流す

 こうした一つの文化的アイデンティティーを持った自信から、この「北京小子」は再び「分に安んじない」衝動にかられて、1999年、商社の仕事をすべてやめた。そして「対抗」の精神を持ちつつ日本語による創作活動に没頭した。毛丹青は、自分の創作活動の心理状態をこう説明している。

日本で出版した毛丹青さんのエッセイ集
中国を訪れた大江健三郎さん(中央)。その右端は毛丹青さん、左端は作家莫言さん

 「日本語で文章を書く過程では、私は終始、一種の『対抗状態』に身を置いている。いま私は、これ以上日本人の作品をまったく読まない。もちろん読むべきものは、学生時代に読んでしまった。とくに、創作活動に入ってからのこの2年間は、全然読んでいない。日本の作家の影響を必要としないからだ。そのうえ、日本人の作品を読むと、いつも私は腹が立つ。なぜならこれらの作品はいつも私を感動させるばかりだからだ。彼らが私を感動させることができるなら、私も彼らを感動させることがどうしてできないだろうか、と思う」

 彼は、日本語はすでに日本人だけのものではなく、彼のように他の国からきた人でも、この言語をマスターし、この言語を用いて創作することは、完全に可能なことだ、と考えるようになった。彼は日本文学に貢献しようとしているわけではなく、ただ「日本語文学」の創設を試みたいだけなのだ、と強調している。

 創作過程で彼は、「対抗」の概念を使い始めた。つまり、「相手の中に自分がある」ようにするのである。例えば、中国人は「この人は私の敬仰に値する」という言い方をする。日本語には「敬仰」という単語がないのだが、「敬う」も「仰ぐ」も別々に使われる。彼は日本語での創作の中で意識的に、この二つの字を並べて使うように試みはじめた。こうした用法は、『にっぽん虫の眼紀行――中国人青年が見た 日本の心 』の中に、40カ所以上も出てくる。

 後で分かったことだが、この試みは驚くべき効果をあげた。この文章を読んでいるとき、日本の読者は、こうした使い方には慣れてはいなかったものの、視覚的な一種の快感を覚えたのだ。

 作家の柳田邦男は、毛丹青の日本語が美しいのは漢字の運用がとても華麗なところに起因すると評価した。柳田は毛丹青の文章の中に、一種の新鮮さを発見した。日本語の中で漢字が、まるで踊っているかのように視覚的な喜びを与えるのだ。「大正から昭和初期にかけての作家たちが書いた品格のある短編小説やエッセイに似た香りがする」と柳田は書いている。

 おそらくすべてのバイリンガルの作家たちは、みな同じような矛盾を抱えている。しかし毛丹青は、矛盾を避けて通ることはせず、「対抗」する中で新しいものを創りあげることを試み、しかも日本でそれに成功した人である。講談社が発行する『現代』の2002年6月号には、「日本語の陶酔感」と題する彼の文章が載っているが、この中で彼は、他国の「言語の川」の中で、どのように彼自身の「思想の筏」をうまく流すか、を語っている。

 毛丹青は、彼の美しい日本語の表現が、実は彼自身のしっかりした分厚い中国文化の基礎からきていることを認めている。しかし彼は、日本に長くいると、山が崩れてくるような感じにとらわれるという。そういう時は必ず北京に戻ってしばらく滞在し、充電する。北京で彼は、中国の文化や言語に影響力のある作家や監督たちと雑談することにしているが、これは彼にとって収穫が大きい。

 そして中国から日本に戻ると、彼の創作活動はすぐにピーク状態に入る。これこそ彼のいう「対抗」である。「このようにバイリンガルで創作する過程で、稠密な中国語が薄められ、日本語は中国語の影響で密度が濃くなり、濃厚で稠密なものになる」と毛丹青は言う。

毛さんと彼が想定したその人たち(撮影 演出 徐珂)

 このように見ると、中国と日本の二つの言語と文化の面で、毛丹青氏はまるで一匹の回遊する鮭のように、二つの質の異なる水の中を往復し、「対抗」の激流の中で「生産」しているように見える。

 東京大学の藤井省三教授の毛丹青に対する評価の高さは尋常ではない。「彼は魯迅、周作人以来本格的な知日派となりうる知性と感性が備わっている」と言うのだ。これはおそらく毛丹青が日本語で書いた作品の成果について言っているのだろう。

虫の眼で日本を見る

 毛丹青の作品は確かに日本人を感動させた。彼自身、創作の過程で深く感動してしまうのだった。『ルミナリエ』(『にっぽん虫の眼紀行』から)や『ダイヤモンドダスト』(『にっぽんやっぱり虫の眼でみたい』から)を書いているとき、何度も涙を流したといわれる。

 百年以上前から、中国人が日本に対して描写してきたものの多くは、川面に水切り石を投げるような表面的なものだったと毛丹青は感じている。だから自分は虫のように日本の内部にもぐり込み、近距離から愛情をもって日本人を観察すると心に誓った。そうして本当に新しいものを発見することができたのだった。

 1999年、彼の努力は報われ、神戸第28回ブルーメール文学賞を獲得した。

 毛丹青と似たような創作観を持つ莫言は「大作家になりたければ、その土地に近づき、その土地に接吻しなければならない」と毛丹青にアドバイスしたことがある。

 はたせるかな毛丹青は、神戸の六甲山の裏側に土地を買い、トラクターやポンプを買い整え、まじめに農作業を始めた。いま、彼が食べている野菜はほとんど自分で作ったものだ。野良仕事を始めてから、彼はまた新たな発見をした。それは野菜に付く虫が野菜によってまったく違うことだ。大地の新鮮な息吹も、彼に新しい感覚を与えた。

 都会からずっと離れた生活である。昔は大都会の、押し合いへし合う人の群れの中で気ままに泳いでいた「毛丹青」という魚は、現在、静かな農村の野菜畑で、虫の生活を始めたのだ。魚であれ虫であれ、毛丹青はどちらも十分に、その楽しさを知っている。だが、その楽しさは、たぶん私たちには分けてもらえないものだろう。「子ハ魚ニ非ズ 安ンゾ 魚ノ楽シミヲ知ランヤ」である。

 しかし彼は独特のやり方で、引き続き私たちをびっくりさせ、喜ばせることだろう。そのことだけはまったく疑問の余地がない。私たちはそれを待っていようではないか。

 日本各地をはいずり回ってきたこの「文化の虫」に、まだ何かやってみたいことがあるかと尋ねると、わずかに白髪の混じった、肩に届くほどの長髪の頭を後ろにそらし、ちょっと考えてから、こう答えた。「私は日本中のすべての『単線電車』に乗ってみたい。『単線電車』というのは、軌道が一本だけのローカル線です」と答えたのだった。(2002年11月号より)