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改革・開放が始まってから約四半世紀が経った。その間、新しい世代の中国人たちは、次々に国を出て行った。その数は年を追って増え続けている。
彼らは外国で、自分たちとは異なる人々に初めて遭遇し、異なる文化と衝突する。その結果、文化が国境という垣根を越えて互いに「越境」し合い、そして融合するという現象を生み出している。これを「文化越境」と名づけたい。
今年は、初期の日本留学生だった魯迅の、留学百周年に当たる。中国と日本が「一衣帯水」であるのは今も昔も変わらないが、日本で暮らす新世代の中国人たちは、魯迅の時代とどこが違うのだろうか。彼らによる「文化越境」は、中日の民間交流にどんなプラスをもたらすだろうか。さらに彼らが「日本」と融合していく中で、彼らとその子どもたちの文化的アイデンティティーに微妙な変化が起こっているのではないか。
今年はまた、中日国交正常化30周年でもある。中日関係は山あり谷ありの試練を経てきたが、いままさに中日両国は選択を迫られている。21世紀の世界で、文化は果たして現実に存在する相違を乗り越えることができるだろうか。その意味で、「文化越境」した人の積極的な努力に、私たちは注目している。
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仕事中の于前さん(写真は于前さんが提供) |
東京・銀座の街を、重いカメラを担いで走る中国人女性がいる。狙う写真のテーマは、国際結婚したカップル。そして彼らを通して見えてくる「日本」である。
于前さん。日本滞在は今年で十二年になる。北京生まれの彼女が、高校を卒業し、日本にやって来た目的は、「写真の技術を学ぶこと」以外にはなかった。彼女にとって当時の日本は、「不思議な国」「親しみの持てない国」だった。「飛行機を降りたその瞬間から、一種異様な眼で、日本や日本人を見ていました」と彼女はいう。しかし後に、「日本」をテーマにして写真を撮ることになろうとは、そのときは思いもよらなかった。
中国からの留学生の多くがそうであるように、彼女もまず下宿の問題にぶつかった。不動産屋はどこも「外国人お断り」だった。いろいろな差別にもぶつかった。そのたびに彼女の頭の中には「南京大虐殺の記録フィルムの情景が浮かんできた」という。
他の中国人留学生と同様に、彼女も日本語学校に通いながらアルバイトに精を出した。写真の技術を学ぶため、懸命に働いて金をためようと考えた。だから生活空間は「日本語学校――アルバイト先」の往復だけだった。日本に来てから二年経ってはじめて銀座に行った。東京以外のところには行ったことがなかった。
日ごろ、普通の日本人との付き合うチャンスはほとんどなかった。わずかに接触した日本人の中には、トマトを見せながら「中国にもあるの」などと問いかけてくる人さえいた。彼女はただうつむいて黙っているほかはなかった。「中国を正しく理解してくれている日本人は、どうしてこんなに少ないのか」と思った。
日本語学校に一年半通った後、1991年、東京工芸大学短大の写真技術科に入学し、念願の写真の勉強を本格的に始めた。2年後、卒業を間近に控えて、一カ月以上の長い休暇があった。大学院に進みたいので、この休みの期間、猛烈にアルバイトをして稼ごう、と心に決めた。一日に三つのアルバイトをこなす。寝る時間はわずか2時間しかなかった。
一週間が過ぎ、意識が朦朧としてきた。一カ月が経ち、卒業式を迎えるころには、もう笑う気力もなくなっていた。でもここで病気したら、すごくお金がかかる。飛行機に乗って帰国するしかないと彼女は決心した。しかし、彼女には、飛行機に乗るほどの体力も残っていなかった。
「急性肝炎です。入院が必要です」。病院の医師は宣告し、点滴するよう看護婦に言いつけた。「困ります」と彼女は入院を拒否した。日本の病院に行ったのはこれが初めてで、しかもいきなり入院だなんて。それに入院には保証人も要るのだから……。「入院はしません」と彼女は言い張った。
「君ねぇ、入院しないと死んでしまうかもしれないのだよ」と医者は言い、肝臓の検査結果を示しながら「数値が高すぎる。少しでも歩けば、病状は必ず悪化します」と入院の必要性を説いた。
それでも彼女は首をたてに振らなかった。「もしかして君、お金のことを心配しているんじゃないの。もしそうなら、入院した後で方法を考えればいいじゃないか」。医者は30分間も私を説得した。看護婦や同室の患者たちは、みんなあきれ返って、押し問答する二人を見ていた。「そんなにまで言ってくれるのなら、これまで会ったこともないこのお医者さんのために入院してやるか」と彼女は決心した。
「この入院がなければ、そして同室の5人の患者と2週間、いっしょに過ごすことがなかったならば、私はきっと、何もわからぬまま日本を去っていたに違いない」と、いまにして彼女はしみじみと感じるのだ。
彼女のベッドの隣には、70歳を超した老婦人が寝ていた。いつも鏡を覗き込んでは、顔に出た黄疸が引いているかどうかを気にしている于前さんに、この老婦人は「すぐによくなるよ」とやさしく声をかけるのだった。若いころ看護婦をしていたというこの老婦人は、そのころ好きになった人の話をした。
彼女が「私はA型肝炎だから、感染するといけない。皆さん、離れていてください」というと、同室の誰もが「なに言ってんのよ」と、次から次にやってきては、彼女と話をするのだった。看護婦さんたちはいつも笑顔を絶やさず、やさしかった。頭の髪の毛を洗うのも「自分でやってはだめよ」というのだ。
病院は清潔で、どこもきちんと整頓されていた。日の光がベッドに射し込み、天国にいるような心地よさだ。これが彼女にとって日本に来て初めて経験した休息だった。
「日本に来てから、馬車馬のように働いて得たものはいったいなんだったの。日本に居ながら、日本のことはなにもわからない。でもいま、周りはみんな日本人。この人たちと交流しなければ……」と彼女は考えた。
入院を勧めてくれたあの医者も毎日、回診にやってきた。そしてあれこれ話題を持ってきては、彼女と雑談するのだ。ある日、突然、その医者は「私の母は台湾の人なのです。でも自分は中国語ができないのが本当にくやしい。これからは中国語で話してくれませんか」というのだ。
彼女は、自分の覚えた日本語が使えないのを残念に思ったが、これを機会に、日本のことを理解しようと考えた。同室の患者たちとも積極的に話すようになった。彼女が中国のことを話し、みんなが日本のことを話した。病室にはいつも笑いがあった。
二週間が経った。これ以上入院していれば、いくらお金がかかるかわからない。そこで彼女は「退院したい」と言った。すると隣の老婦人は、眼に涙をいっぱいためた。
「この日本の老婦人にとって、私という存在はそんなに重要なの?」と彼女は驚いた。が、次の瞬間、彼女は人に愛されている幸せを、しみじみと噛みしめたのだった。
退院後、彼女の目的意識が変わった。日本にいるのは単に写真の技術を学ぶだけではなくなった。自分のカメラで「日本」を探し求め、「日本」を再認識することが目的となった。
大学で写真を学びながら、彼女は、小さな広告会社で撮影助手のアルバイトを始めた。日本のプロの写真家は、古い伝統を残している。まるで師匠と徒弟の関係で、古いしきたりや決まりがいっぱいある。例えば弟子は、お金のことを口にする資格はないし、お茶を入れたり、掃除をしたりしなければならない。仕事の上では、女性らしい細やかさと男性と同じ体力が要求される。しかもいつも元気はつらつとしていなければならない。
これは彼女にとってかなりの重圧だった。とくに、女性は必ずお茶汲みの仕事をしなければならないことがわかったとき、彼女は心の中で「とても受け入れられない」と思った。
しかしあるとき、厳しく躾を教えるある写真家が、彼女を連れて写真撮影に出かけた。日本で「名人」と呼ばれる人や芸術家の家に行って撮影するのだ。その中で、成功して有名になったにもかかわらず、大変謙虚な物腰の女流作家たちに出合った。彼女たちは自分でキャンディーを持ってきて、撮影助手のために自らお茶を入れた。女性の魅力に溢れた作家たちに、于さんは大きな感銘を受けた。
こうして仕事を続ける中で、彼女は、自分がもっとも好きなのは、人とつき合うことだ、と気がついた。そこで、広告カメラマンから報道カメラマンに変わり、身近な、普通の人を写そうと決めた。
「国際結婚」が一つのテーマとなった。80組以上の国際結婚した日本人の家庭を尋ねて、写真を撮った。彼らの話を聞きながら、いっしょに炊事や洗濯をし、桜の花見に行き、マーケットをぶらついた。こうした付き合いの中で、自分の世界が広がり、豊かになっていくのを彼女は感じた。
彼女の中の「日本」は、自分のカメラのレンズを通じて探し当てたものだ。そしてこれからも、絶えず「日本」を発見し、再認識しようと、彼女は心に決めている。(2002年11月号より)
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