その二 |
五世代が語る「私の人生観」
李要武 王海燕 張春侠
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王政明さん
男性 本籍・河南省
定年退職した映画監督 |
どこの都市にもっとも住みたいかといえば、私は河南の故郷で晩年を悠々と過ごしたいと思う。息子は北京で自分の事業を発展させればいい。
私の故郷は上蔡という河南省の小さな、ひなびた鎮である。諸国を巡っていた孔子が、当時この地を通ったことがあり、孔子はずいぶん苦しい目に会ったという。私の生まれたのは郊外の農村で、小さいころから父や兄にくっついて、草を刈り、牛を放ち、畑に水をやり、苗を植えた。それは大変快いものだった。
我が家からそう遠くない南側に、有名な鶏公山があり、その山が河南省と湖北省の省の境になっている。この山里は、一年中春のようで、渓流はさらさらと流れ、草木は生い茂り、いろいろな小動物がいた。昔ここは、私と農村の仲間たちの天国だった。当時、出世した役人がこの山の上に建てた別荘があった。
私の故郷の家には、まだ弟と妹が一人ずついる。私が定年退職して古里に帰りたいという話を聴くと、弟と妹、それに彼らの息子や娘たちまでも、私のために急いで土地を買い、家を建てる準備をしてくれた。
私は北京も恋しい。北京には40年以上も住み、最初は学校に行き、後には結婚して一家を構え、仕事に就いた。青春時代の大切な歳月をずっとここで過ごした。また北京には、多くの気心の知れた友や朝夕いっしょに仕事をした同僚たちがいる。まして今日、北京の発展は日進月歩で、私の住む家の条件も一度ならず改善された。私は満足している。
しかし北京は、人口が多すぎ、街が大きすぎ、生活のリズムが早すぎる。北京はもはや、私にとって適応しにくいところになってしまった。
私たちの両親の世代は、「子どもを育てて老後に備える」という観念が非常に強い。とりわけ息子に対しては、結婚後はみな、父母と同居し、親の面倒を見、親孝行し、親によく仕えなければならない。これは当然の道理だとされている。
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劉桂栄さん
女性 1950年生まれ
本籍・黒竜省 中学校の英語教師 |
とくに重要なのは「親に仕える」ということだ。私は于文賢の家に嫁いだ後、舅と姑の決めた規則が多く、なにか話をするにも仕事をするにも、みな舅と姑の顔色をうかがい、その考えに従わなければならなかった。
例えば物を手渡すにも、いいかげんに渡してはならず、両手でそれを捧げて渡さなければならない。新年を迎えるときも、床に跪いて、舅と姑に対し、頭を地面に打ちつけて新年の祝い言葉を述べなければならない。
毎朝早く、私は姑の部屋に行き、「昨夜はよくお休みになれましたか」とか「ご気分はいかがですか」とか「持病が出るようなことはありませんか」とか言って、まずご機嫌をうかがう。それから布団をたたみ、尿瓶の始末をする。最初は慣れなかったので、ある朝、ご機嫌うかがいをしなかったところ、姑は不機嫌になり、ベッドから起きてこようとしなかった。夫が呼ぶので行くと、姑はあてつけがましく、ひとしきり不平をこぼし、やっとおさまった。しかしこのために家中、不愉快になった。
そんなことがあって私はだんだんにわかってきた。嫁いで来たからには、夫のために、郷に入れば郷に従わなければならない。これからはできる限り、舅、姑の言うなりに仕事をし、まず老人のことを優先しなければならない、と。
後に私たち夫婦と舅、姑は別々に住むことになったが、休日ごとに夫はまず両親の家に行き、水汲みや買い物、薪割りをして、その後で家に帰って来て自分の家のことをするのである。
私には良い友人たちがいる。その中には、かつての同級生もいれば、昔からの同僚もいる。付き合いが広がる中で新しくできた友達もいる。
長い間、こうした友人たちとの関係は、時が移り、環境が変化することによって疎遠になるどころか、かえって日増しにますます強固なものになった。私たちは互いに理解しあい、信頼しあい、心になんのわだかまりもなく、何でも話し合うことができる。
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王欣さん
男性 1963年生まれ
本籍・天津市 養成訓練学校副校長 |
当然、友人同士の付き合いでは、心と心を通わせることが多い。私は悩みや苦しみに出会うたびに、あるいは重大な選択を迫られるたびに、父母や妻子にそれを言えない時に、まず友人に腹を割って話をすることが多い。なぜなら、友人たちは、たとえどんな忠告をしてくれるにせよ、その忠告にはすべて善意と真心がこもっていると私は信じているからだ。
私の友人たちは、いつも互いに連絡しあい、北京に住んでいる者も、天津に住んでいる者も、時には集まり、時には妻や子ども全員が参加することもある。
この数年、私は管理者となったので、外の世界との接触が多くなった。友人もかなり増え、付き合いや接待で非常に忙しくなった。しかし率直に言えば、こうした友人関係は、仕事の範囲に限られていて、業務上の必要から相互に依存し、相互に防衛し合うものであって、外には密接な関係のように見えて、実は功利的なものが内に秘められている、と私は思う。だからこうした友人たちは、もう一つの種類の友人なのだ。
もちろん、仕事や事業をするうえで、こうした友人も必要だ。ましてこうした友人の中に、長い間には、日ごろ外に表わすことがない徳行を発見することがある。こうした友人にはただただ感服させられる。
要するに私はこんな印象をもっている。現在の人と人との関係は、我々の先輩たちの昔に比べて、ずいぶん自由で緩やかなものになり、ねたみや嫉み、不必要で杓子定規な決まりや規則は少なくなって、知らず知らずのうちに、生活に彩りを添えているようだ。私はこれを一つの進歩だと思う。
私の息子は今年七歳になる。彼は小さいころ、ピアノを弾いたことがなかった。学校に上がるとピアノの授業があった。彼は家に帰って来るなり私に「ママ、同級の子どもたちはみんなピアノが弾けるよ。それもすごくうまいんだ」と言うのだった。そこで私はこう言った。「大丈夫よ。おまえは以前はまったくできなかったのだもの。今はずいぶんと進歩したよ。おまえがドレミを弾いてくれるだけでも、私は大変うれしいよ」。これで彼は自信を取り戻した。
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李シンさん
女性 1972年生まれ
本籍・甘粛省 会社社長 |
彼が何かがほしいというとき、私は決まって「おまえの要求に応ずることはできます。ただし、これをしてくれたら」と答えることにしていた。そして彼が本当にそれをやった後で、私も約束を実行する。こうして彼の「言ったことは必ず実行する」という習慣を養った。
私は北京で仕事をし、彼のパパは蘭州に居た。彼は六歳の時から、たった一人で飛行機に乗り、北京と蘭州の間を往復した。誰も付き添いはなかった。
私はこの息子にこういい聞かせた。「おまえは明るく、誠実で、独立心の強い子だ。将来、たとえ出世できなくとも、人格の魅力によって、おまえも立派に仕事をすることができるよ」と。
昨年、私たち夫婦は離婚した。離婚するという我々の選択を彼に告げると、彼は全部わかってくれ、我々を理解し、その選択を支持してくれた。
私は息子の成長にとって良い環境をできる限り提供する。後のことは彼自身が選択し、自分で決定する。私が彼を思うままにすることはできないと考えている。
私が北京師範大学を選んだのは、多分にママの影響である。
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李娟さん
女性 1979年生まれ 本籍・雲南省 大学院生(修士課程) |
私が産まれた時期は大変悪かったようだ。ちょうどママが大学に入る時期に重なったからだ。ママは文革世代に属し、初めから学校は荒廃していた。大学に進むのは非常に難しかった。そしてママは、私を産むか学業を続けるかの中で、選択したのは私を産むことだった。だからこそ、すべての希望を私に託したのだ。ママの私に対する要求は厳しく、私が同年齢の子どもの中でもっともよくできる子になるようしつけたのだった。
ママは国語の先生で、私が師範大学を受験するよう、ずっと望んでいた。学校の先生と言う職業は、相対的に安定し、聖職だとママは考えていた。
今から思えば、子どものころから大きくなって大学に進むまでずっと、私はママのリモコンの下で暮らしてきたし、従順でおとなしい娘だった。年を重ねるにつれ、私は次第に自主的な能力を備えていったし、私に対する父母の感情も理解できるようになった。
私はママの願い通りに大学を受験し、さらに推薦で大学院の修士課程に進んだ。ママの期待を「超過達成」したということもできる。しかしある時から、もしママの影響がなかったら、私の生活はどんなふうになっていただろうと考えるようになった。
もし今後、私に子どもができたら、私は、親が決めたモデルの中にその子を押し込めて、自分が成し得なかった願いを実現させるようなことは絶対にしないと思う。子どもの生活の中で親が演じる役柄は、子どもの良きガイドであって、デザイナーではない。
かつて私は母親に、どうして父の所に嫁いできたの、とたずねたことがある。そのとき母親は、「あなたの外祖父が私を嫁がせたの。私たちは数回会っただけで結婚したのよ」と答えた。
結婚するなら、私は自分の好きな女の子をさがして、奥さんにする。彼女の家庭環境や年齢、学歴、仕事、収入などはみな問題ではない。もっとも重要なのは、好きかどうかだ。
その女性は善良で、親孝行な人でなければならない。そして私たちは温かい家庭を築く。それは、私が帰宅すればテーブルにいっぱいの料理が並び、満面に笑みをたたえた妻が私を迎えてくれる。いっしょに子育てをし、相手の親に対しても孝行を尽くす――そんな家庭である。
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楊紅江さん
男性 1981年生まれ 本籍・甘粛省 学生 |
私は、親のために結婚はしない。結婚はいいかげんに決めてはならない。結婚は自分の一生が幸せになるかどうかを決定し、さらに次代の子どもの幸せにさえ影響を与える。私は、双方の考えが成熟し、かつまた一定の物質的な保障ができて、温かい家庭を妻に与えることができ、家庭の義務と責任を担えるようになってはじめて結婚できる、と思っている。
結婚と言うものは、私と妻、私たちの子どもの問題であり、私たちは独立し、一体となって人生を送るのであって、他人が私に押し付けてくる責任を引き受ける義務はない。
もし自分が愛する人を探しあてられなければ結婚しない。むしろ一生、「独身貴族」として生きたい。(2002年12月号より)
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