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流行と伝統が交差する
文・王浩 写真・郭実
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上海の若い人々にとって、太倉路と馬当路の交差点に位置する「新天地遊楽場」は、上海で最も流行の先端を行っている場所だ。バーで暇をつぶしたり、有名なスターを見たり、音楽を聴いたり……現代の都会人の遊びがほとんど全部、ここにそろっている。
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改造後の路地も依然、人々を思い出の道に導く |
「新天地遊楽場」は2001年に突如出現した。それまでは、ここにはいく筋かの路地があり、その両側はもっとも上海らしい特色のある「石庫門」の住宅街であった。
「石庫門」の住宅街は、1870年に造られた。当時、中国の社会は動乱の中にあり、江蘇省や浙江省一帯から多くの難民が上海の租界に避難してきた。難民の中には金持ちもいたし、手工業労働者や農民もいた。
租界当局は、経済を発展させる絶好のチャンスだと見て、ヨーロッパの設計技師を招聘した。そして外壁をヨーロッパ風にし、内部は、中庭や客室、脇部屋に江南風の特徴を残した集合住居を設計させて、これを中国人に売った。この住居は、門の枠が花崗岩で作られていたので、「石庫門」と呼ばれるようになった。その後の数十年間、「石庫門」はどんどん建てられ、ピーク時には、上海の住宅の六割以上も占めた。百年の歴史を経て、「石庫門」はすでに、もっとも上海らしい風格を持つ庶民の住宅建築となった。
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ジャッキー・チェンらが投資した「東方魅力バー」のマネージャー、邵暉航さん |
20世紀80年代以来、都市の改造に伴い、「石庫門」がどんどん壊された。いかにしてこの古い住宅を残すかを、人々は考え始めた。そこで、きわめて斬新な「新天地」建設という構想が出てきた。「新天地」は、香港の瑞安公司が八億元で建設する「太平橋改造プロジェクト」の核心部分である。
ほとんど路地と住宅しかなかった3万平方メートルの空間が改造され、外側に石庫門を持つ、時代の最先端を行くアミューズメントセンターに変貌した。1平方メートルあたりの建設費は最低でも2万元だった。「石庫門」の中にはバー、アトリエ兼画廊、ブティック、音楽レストランなどなどがあり、エレベーター、中央制御の空調システムが完備し、各部屋でインターネットが使える。青いレンガの外壁や漆黒の門の外観に比べ、部屋の中は、時空を超越した感じを与える。
「新天地」ができてから最初にやってきたのは、香港の映画テレビ俳優のジャッキー・チェンと流行歌手のアラン・タムだった。彼らはここに「東方魅力公司」を創り、一軒のバーを開いた。バーはそれほど広くないが、客が次々と出入りし、とても賑やかだ。
バーの中のダンスホールには、2、30人の若い人たちがロックバンドの演奏にあわせて楽しそうに踊っている。激しいドラムの音に若者たちの心は躍る。
バーの陳列ケースには、テレビや映画の多くのスターたちがもらったカップやスチール写真が飾られている。マネージャーの邵暉航さんは「公司はここを重視している。一部のスターは、長年大切にしてきたカップを持ってきてくれました。多くの若い人たちはもっぱら、スターのカップを一目見ようと、ここに来ているのですよ」と言った。
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蒋瓊児絵画展の開幕式。フランスの領事もやってきた |
中心部にある「新天地」の一号ビルは、古めかしい三階建ての小さい建物である。ここでは若い女流画家、蒋ヌェ凾フ絵画展のニュース発表会が行われていた。彼女は中国の若い人たちの間で人気がある。フランスで長年暮らし、その画風には強烈な現代感覚がある。今度の展覧は、彼女がカメラフイルムを利用して作った現代中国画である。その発想は斬新で奇抜だ。フランス総領事館の領事も自らやって来て、絵画展に興を添えた。
夜の9時。「新天地」のもっとも賑やかになるときだ。もともとそれほど長くないストリートは、行き交う人々でごった返し、通りの入り口にあるスターバックス・コーヒーの中は、一つも空席ないほどだ。「新天地」の一番北側には、200平方メートルを超す広場がある。大きなスクリーンには、「新天地」の広告が何遍も繰り返し流されている。照明が広場を明るく照らし、周囲にある古い石庫門も照明の光のなかで、これまでとは違った特色を表している。
瑞安公司の趙列穎主任は言う。「この『新天地』ができてから、ここは上海の娯楽・観光の重要な場所となりました。外国人が古い上海を見たいと思ったら、この『新天地』にくればよい。上海人が流行の先端を見たいときも、『新天地』に来ればよいのです」
もっとも、教養が高いと自認している一部の上海人には、「新天地」の評判は必ずしも芳しくない。「新天地」について語るとき、彼らの口調にはやや軽蔑の響きさえある。しかし、「新天地」の出現は、これまで上海という都市の特徴だった、最下層の人々が暮らす空間を、一つのモダンで立派な娯楽の街に生まれ変わらせたことだけは間違いない。(2003年1月号より)
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