●特集

北京に甦る「水の ある風景」
        文・写真 魯忠民


 

 むかし、元や明の時代の北京は、運河が縦横に走り、物資を満載した船が行き交い、にぎわっていた。その「水のある風景」が消えてから百年余り。急速な人口増や工業化によって、街中を流れる川は汚れ、湖や池は干上がって、北京の水系はズタズタになっていた。

中央テレビ塔から見た北京の水系

 ところがこの数年、北京の川に豊かな水が帰ってきた。環境保護や緑化を重視した大規模工事が次々に完成し、街の中を遊覧船が定期運航するようになった。いずれは南から長江の水が北京まで引き込まれる計画だ。そうなれば、船で天津や江南の都市に旅するのも夢ではなくなる。

 風薫り、水ぬるむ五月――。今日は皆さまを、北京の新しいレジャー、北京の街を巡る水上観光にご案内しよう。

 

水の上から楽しむ首都の景観

「烏篷船」を彷彿とさせる遊覧船
昆明湖は、北京で最初の総合水利機能を持つダムだった
 月の光がきれいな夜、北京の中心部から西へ約五キロ、玉淵潭一帯は暗く、静まりかえっている。だが、玉淵潭の八一湖埠頭のあたりだけは、色とりどりのネオンが夜空に映え、人々の交わす笑い声が沸きあがっていた。ここが北京を巡る水上観光の発着地の一つである。

 長さ20メートルもあろうかという豪華客船が客を満載して埠頭を出て行くと、入れ替わりに苫舟の群れが埠頭に押し寄せ、次々に接岸する。船に乗ろうと待っている観光客の長い列ができ、その近くを物売りが、記念品や食品を抱えて走り回る。

 この苫舟は、「烏篷船」を模して造られている。船の中央部に覆いが造られ、雨風がしのげるようになっている。「烏篷船」は魯迅が彼の作品の中で、故郷の紹興を描くとき、たびたび登場する。もともと農民が生活の足として使っている小舟だが、長年、雨風に晒されて、苫が黒く変色してしまい、「烏のように黒い苫舟」と言う意味で「烏篷船」と呼ばれるようになったという説もある。

 舟には三人から五人ぐらいが乗れる。舟の中に置かれた小さなテーブルにはお茶や飲み物、お菓子、果物などが並べられ、親しい友人同士やファミリーで楽しむこともできる。

 舟の櫓を漕ぐのは、江南の水郷からきた農家の人たちだ。ゆっくりと移り過ぎてゆく両岸の風景を説明し、時には客の質問にも答えながら、櫓を漕いでゆく。

積水潭のほとりに再建された匯通祠。元代の水利専門家、郭守敬の記念館となっている

 舟に胡弓や笛などの奏者を招いて、好みの音楽を聴きながら水上観光を楽しむ人もいる。「北京で働いている江南出身の人たちが、しばしここで故郷を懐かしむこともあるのですよ」と、櫓を漕ぐ船頭さんは言った。

 【苫舟観光メモ】 4月15日から11月初旬まで、毎日午前10時から午後10時まで運航される。 コースは八一湖埠頭から浜角園埠頭までで、所要時間は往復2時間。 料金は一船貸切りで280元。 楽士を乗せる場合は一人に付き150元。 船上で、ピーナツ、スイカの種、蓮の実(夏季のみ)などが無料で出される。 船上で上海の有名料理が食べられる。料金は4人前 150元、8人前 200元。(飲み物は別)

遊覧船で巡る北京の街

 エンジン付きの遊覧船は毎年、3月から11月にかけて運航される。北京の冬は寒く、水路が凍ってしまうから冬季の運航はできないのだ。北京には現在、水上遊覧の路線が三本ある。一つは玉淵潭から頤和園の昆明湖を結ぶ「昆玉線」。その他に、昆明湖と北京展覧館後湖を結ぶ「長河線」、玉淵潭から竜潭湖を経て通州、高碑店湖に至る「南線」がすでに完成し、使われている。

 三本の路線の長さは、「昆玉線」が12キロ、「長河線」が10キロ、「南線」が26キロ。合計48キロにも及ぶ。

長河は紫竹院公園の中を流れる。柳が有名で、「天壇に松を看、長河に柳を看る」といわれた

 昆玉線は午前8時から午後5時まで運航され、30分に1回、船が出る。所要時間は片道40分、往復2時間。料金は片道60元(団体30元)、往復80元(団体40元)。

 長河線は午前8時から午後4時まで。1時間に1回出船。片道50分、往復2時間。料金は片道40元、往復70元。

 南線は午前9時30分から午後3時まで。1時間に1回出船。片道1時間半、往復3時間。料金は片道30元、往復50元。

 ただ、これらの料金や時間は、昨年のもので、今年は多少改定されるかもしれない。 

北京の水はこう変遷した

 北京に来たことのある人なら、おそらく誰もが「北京は乾燥がひどい」「水が少ない」と感じただろう。水郷の江南に比べ、北方の北京は黄塵万丈、という印象が強い。

 そんな北京が意外にも、かつて「富水の都市」と呼ばれたこともある。十世紀以後、北方に興った遼や金といった国々は、北京の都市建設を進め、用水路や湖沼を掘って、住民に生活用水を提供した。頤和園にある昆明湖の前身である甕山泊まで往復する遊覧船もあったという。

 13世紀にチンギスカンの孫のフビライが中国を統一し、都を北京に定めて「大都」と呼んだが、水上輸送を発達させるために84キロに及ぶ通恵河を開鑿した。通恵河は北京の西北部の昌平区白浮村を起点として、白浮泉の湧き水を引き、西山を通って玉泉山の水と合流させ、長河に沿って北京の市内に引き込み、積水潭まで流す。そしてその後、東の通州を経て、7世紀に開鑿された北京と杭州を結ぶ京杭大運河と連結させたのである。

河川敷に造られた健康器具は、大人も子どもも大好きだ

 当時、積水潭は港湾として栄え、出船入船は引きも切らず、商人たちが雲の如く集まって空前の活況を呈していた。南方からは食糧や木材が首都に運ばれて来たし、北方で生産された物資も大量に南方に運ばれて行った。これによって北京の経済と社会は大いに発展したのだった。

 15世紀になって、明の時代になると、白浮泉は涸れてしまい、通恵河も衰退し、北京市内に外から入ってくるのは玉泉山の水だけになってしまった。しかし、水の欠乏が逆に北京の水系整備に新たな局面を生むことになる。

 それまで立ち入りが禁止されていた皇居の紫禁城の外側に、筒子河を開鑿し、北京を囲む外城の城壁の内外に護城河を拓いた。それによって中海、南海、北海、西海、後海、什刹海の通称「六海」の湖がつながり、首都の荘厳さと河や湖の美しさがひとつに溶け合ったのである。

 清の時代も、明代に造られた水系の基本構造は維持された。しかし、清朝末期以後の約百年間は、政府が腐敗し、国運が衰微し、内憂外患に悩まされ、そのため北京の水系は日ごとに衰えて行った。

京密用水路と永定河用水路の交わるところにある浜角園埠頭

 河川の一部は流れなくなり、湖沼も淀んだり涸れたりしたところもある。さらに悲しむべきことは、北京の水系が、洪水防止や調節機能を失ってしまったことだ。このため洪水で、絶えず人々の生命や財産が失われていった。

 50年前、著名な作家の老舎は、脚本『竜鬚溝』を書いた。これは新中国成立以後、北京の南にある、「竜鬚溝」と呼ばれたドブ川一帯の興廃を描いた物語で、水が市民にもたらした悲喜劇をよく表している。それが映画化されると、全国で大きな反響を呼び、世代を超えて感動を呼んだ。そして水と人間の関係が、互いに依存し合っていることを人々はしっかりと心に刻んだのだった。

急ピッチで進む水系の整備

 北京の水系の変遷を語るとき、1949年の新中国の成立は一つのマイルストーンと位置付けられるだろう。内憂外患から解放され、平和な建設の時期を迎え、北京の水系は何回も改修された。

 まず、河川や湖沼の浚渫が行われた。荒れ果てていた公園や上下水道が再建され、洪水防止の施設も整備された。

長河線と昆玉線はともに頤和園の埠頭から出発する

 しかし北京の人口は増加し、工業化も進んだ。このため水の需要は高まるばかりだった。そこで1950年代から60年代にかけて、北京の近郊に大型のダムが建設された。官庁ダムと密雲ダムである。ダムの貯水能力は、官庁ダムが10億立方メートル以上、密雲ダムが40億立方メートル以上ある。同時にこのダムからの水を市内に引く用水路も開通した。

 その後次々に、16カ所の中小ダムと十数カ所の地下水汲み上げ工場が建設された。こうした水利建設は、歴史的に見ても空前の規模で、北京の水系はその後しばらくは十分機能し、市民の生活を支えたのだった。

 だが、その後の人口爆発と無計画な工業化によって、環境は破壊され、北京は次第に水の欠乏した都市へと変貌していった。河川や湖沼の水面面積は縮小し、水質は汚染され、北京の水系は危機に陥ったのである。70年代には、通恵河は汚れがひどく、写生用の絵の具を溶かす水を探すのも苦労するほどだった。

 90年代になって、人々は環境保護の大切さに気づき始めた。1998年初め、北京市政府は、首都の水系を総合的に整備する計画を制定した。その計画は「水は清く、岸は緑で、水は流れ、船が通る」という具体的な目標を設定したものだった。

 その後数年の努力の結果、いわゆる五河(長河、昆玉河、南護城河、筒子河、通恵河)と六海、さらに13の湖沼の整備が目に見える成果を上げた。水上遊覧ができるようになったことが、それを証明している。

 高碑店や酒仙橋など数カ所に大型の近代的な汚水処理場が相次いで完成した。河道は改修され、川沿いの老朽化した住宅は次々に建てかえられ、緑地は増え、河川や湿地の面積は拡大した。

 河川や湖沼の中に、十数カ所の自然の遊泳区が新設された。健康維持のための施設や運動のできる小さな公園が市民に開放された。早朝、多くの市民たちが川辺でジョギングしたり、鳥籠をぶら下げて散歩したり、太極拳をしたりするのをいつでも見ることができるようになった。

南から水がやってくる

 現在、北京には大小30余の河川があり、その全長は300キロ以上にも及ぶ。北京市政府の計画では、これから数年のうちに、この河川と湖沼のすべてが整備されるという。

天安門の東側の整備された菖蒲河

 さらに2008年の開催が決まった北京オリンピックは、水系の整備事業に拍車をかけている。オリンピック組織委員会は、2008年以前に、北京の南北を貫く中軸線の北端にオリンピック公園を建設し、そこに昆明湖(水面面積約290ヘクタール)にも劣らぬ新しい湖を掘削することを承認した。また、湖を掘った土砂で築山などを造り、森林公園にする計画だ。

 同時に北京の各区に、24カ所の生態公園を建設するが、その中に造られる湖沼の総面積は1500ヘクタールで、昆明湖五つ分に当たる。

 しかし、水不足は依然、北京の頭痛の種だ。現在、北京市民一人当たりの水資源占有量は、全国平均の8分の1、世界平均の32分の一に過ぎない。限られた水資源の中でどのような方策を立てるか、北京の人々は知恵を絞っている。

 水不足の問題を根本的に解決できるのでは、北京の人々が希望を抱いているのは、中国政府が実施する「南水北調プロジェクト」である。これは水の豊かな南方から、水を北方に引いて来るという大計画で、すでに工事は始まっている。

「南線」は、明、清の時代に内城の東南に建てられた角楼の脇を通る

 「南水北調プロジェクト」には「東」「中」「西」の三つの路線がある。「中」の路線は、湖北省の丹江口から、漢江と合流した後の長江の水を引き込み、湖北、河南、河北の各省を通って北京まで引いてくる。これにより北京にもたらされる水量は年間、12億立方メートル以上になる。

 そうなれば北京は再び「富水の都市」となる。遊覧船に乗って北京の市内を巡るばかりではない。船で天津に直接行くこともできるし、あるいは京杭大運河を遊覧することもできるようになるだろう。

北京水上遊覧指南

◆玉淵潭から頤和園へ

 玉淵潭から遊覧船に乗り、「昆玉線」を走ってみることにしよう。八一湖埠頭を離れた船は、しばらく玉淵潭公園の脇の運河を進む。この水路は、北京郊外の密雲ダムから水を引き込んだ用水路の一部である。

故宮の脇を流れる筒子河のほとりで憩う北京の老人たち

 【玉淵潭】 玉淵潭公園一帯は、いまから約800年ほど前に北京を統治していた金の時代に、早くも風光明媚な地として有名で、1960年に正式に公園となった。公園内にある湖は広々とし、暖かくなると多くの釣り人でにぎわう。

 【中央テレビ塔】 次に見えてくるのは中央テレビ局の巨大なテレビ塔だ。高さは405メートル。塔の中には回転レストラン、360度のパノラマ映画館などが設けられ、展望室からは、北京の市街区の大部分を眼下に望むことができる。

 【慈寿寺の塔】 さらに進むと、八里荘の西側に、古色蒼然とした塔が姿を現す。この塔は、元はここにあった慈寿寺の境内にあった。明の万暦4年(1576年)に建立された。慈寿寺は後に壊されてしまったが、この塔だけは生き残り、北京に現存する古塔の一つに数えられている。

 【頤和園埠頭】 終点は昆明湖。現存する中国最大の皇室庭園である頤和園にある。金代から建造が始まり、明代には「好山園」と呼ばれた。清の乾隆15年(1750年)から本格的な改築が始まった。しかし1860年、英仏連合軍によって焼き尽くされ、その後、西太后が海軍の費用を流用して再建したことで知られる。

◆頤和園から北京展覧館へ

万寿寺門前の御埠頭は、昔ながらの姿を今も保っている

 昆明湖は「長河線」の起点にもなっている。長河は、金の時代に開鑿された用水路で、北京の人々の生活用水を供給してきた。元の時代には、この用水路を船が航行していたが、皇室専用だった。近代になってから長河は衰退し、川幅はひと飛びで渡れるほど狭くなった。最近、これを改修した際には、専門家の意見を入れて、なるべく元の姿のまま、川が流れるようにした。

 今度は長河線を下ってみよう。遊覧船はまず古麦鐘橋をくぐる。昔の橋はすでに壊れ、今は河床に、昔の橋の基石だけが残っていて往時をしのばせる。今の橋は、昔の橋の面影を残して新しく架けられたものだ。

 【万寿寺】 万寿寺の甍が見えてくる。ここは今、北京芸術博物館にもなっている。明の万暦五年(1577年)に建立された皇室専用の寺院である。歴代皇帝が大規模な増改築を繰り返した。寺院と行宮と庭園が一体となっている。博物館に収蔵されている文物は5万件を数える。

 【紫竹院公園】 船は紫竹院公園の中を進む。紫竹院の湖は、元代の水利専門家である郭守敬が作った貯水湖で、明代には紫竹院という廟が建てられ、清代になって皇帝の行宮として使われた。西太后が頤和園に出かけるときには、ここで船を停め、しばし休憩したという。公園内にはいろいろな珍しい竹があるので有名だ。

 【中国国家図書館】 中国国家図書館が巨大な姿を現す。1986年に建てられた中国最大の図書館。蔵書は2000万冊を数える。

 【真覚寺】 船は真覚寺の脇を進む。明代の1473年に建立された金剛宝座塔は高さ8メートル。上部に五基の小塔を頂いていることから「五塔寺」と呼ばれている。境内には、さまざまな石刻文物五百余件を集めた石刻芸術博物館がある。

東護城河が竜潭湖の脇を流れてゆく

 【北京動物園】 真覚寺の向かいは北京動物園。ここは清朝時代、皇室の花園だったが、清の末期には農事試験場になり、その一角に「万牲園」が置かれた。これが発展し、動物園となった。北京動物園は中国で最初に開設された最大の動物園である。飼育されている動物は500種以上、5500匹以上いる。

 【北京海洋館】 動物園の隣に北京海洋館がある。1998年に開設され、千種以上の魚類が飼育されている。海底トンネルで海の底の世界を体験できる。

 【高梁橋】 高梁橋にさしかかる。この橋は元代に造られた閘門の上に清代に建設された。西太后はここから小さな蒸気船に乗って頤和園へ出かけていったという。

 【北京展覧館】 終点は北京展覧館。1954年にソ連の援助で建てられただけに、ソビエト風の色彩の濃い建物である。この建物の中に有名なロシア料理屋「モスクワ餐庁」がある。

◆玉淵潭から竜潭湖、さらに高碑店へ

八一湖から東に向かい、「南線」に入るには水位差のある閘門をくぐらなければならない

 今度は「南線」に乗ってみよう。出発点は玉淵潭。ここから一路南へ下り、さらに東へ向かう。終点の高碑店湖までの水位の差は20メートルあり、7カ所の閘門やダムを通過しなければならない。そのため、時には閘門の中に船を入れ、閘門の両端を閉めて水を注入したり、排出したりして船を浮き上がらせたり、降ろしたりして船を進めなければならない。また時には、人を乗せたまま船をクレーンで吊り上げ、閘門やダムを越えることもある。さらに時には、急流を遡ったり、船を台車にのせて引き上げたり、全部で五種類のやり方で閘門やダムを越えてゆく。

 【白雲観】 西便門の南側に道教の名観「白雲観」がある。毎年、春節にはここで大きな廟会(縁日)が開かれ、大勢の参拝客でにぎわう。

 【天寧寺の塔】 天寧寺の塔が見えてくる。遼の時代に造られた北京ではもっとも古い塔で、すでに900年以上、ここに立っている。寺院はすでになく、塔の周辺は工場が建っていて参観できないが、工場を移転させてここを整備する計画が進んでいる。

通州は昔、京杭大運河と通恵河とが交わる地点であり、京杭大運河の起点でもある

 【大観園】 大観園は、中国の古典、『紅楼夢』の舞台として描かれている住宅と庭園で、これを忠実に模したのが南護城河の北側に建てられた大観園である。園内の建築、山水、植物・花卉、物品などは作者、曹雪芹の描いた世界を再現している。

 【陶然亭】 さらに進むと陶然亭に着く。かつて文人たちが、都を離れ南に向かう友人をここまで送ってきて、別れを惜しむ場所だった。1980年代に公園となり、園内には有名な中国の女流作家の石評梅とその恋人の革命家、高君宇の墓がある。

 【先農壇】 先農壇は山川壇ともいう。明の永楽18年(1420年)に建てられた壇で、明、清の歴代皇帝が、中国の始祖神である神農氏を祭ったところである。古代の建築材料を集めた古代建築博物館がある。

 【天壇】 さらに東へ行くと、有名な天壇に至る。1998年、ユネスコの世界文化遺産に登録された天を祭る壇。本誌1月号で詳しくは紹介したので、興味のある方はご参照ください。

 【竜潭湖】 竜潭湖に着く。ここはもともと泥沼や共同墓地だったところを1952年に公園にした。その一角には北京遊楽園が造られ、遊園地となっている。また公園内の湖では、北京の竜船(ぺーロン)競漕が行われる。春節には大きな縁日が開かれる。

高碑店の汚水処理場

 【東便門の角楼】 さらに今度は北に向かうと東便門の角楼に着く。明の正徳4年(1439年)に建てられたL字型をした城楼で、東、西、南の三方に144の矢狭間がある。国家重点文物に指定されている

 【高碑店湖】 「南線」の終点は高碑店湖。通恵河の中でここだけが水面が広くなっている。現在ここは洪水防止のための遊水池の役割を果たすとともに、発電所に冷却水を提供する役目も果たしている。だから一年中、ここの湖面は凍結することがない。

 ここからは、通恵河に入る。十数年前までは、この一帯は北京の重工業地区であり、また北京の下水がすべて集まってきたため、水質汚染がひどかった。この数年、汚染源となる工場が次々と移転させられ、汚水処理場も整備され、水質は大変良くなった。 (2003年5月号より)