●特集

はばたけ! 野球少年の夢

文 坪井信人  写真 魯忠民 坪井信人
 
北京豊台野球場での北京猛虎対上海金鷹の試合
 2008年の北京五輪に向けて、中国野球を取り巻く環境が変わりつつある。特に、子どもの世代の育成に力が入れられ、子どもたちは「五輪への夢」を持ち始めた。

 中国語では野球を「棒球」と呼ぶ。競技人口は多くはない。しかし、なにせ13億人の人口大国である。野球少年が増えれば、将来、野球大国に生まれ変わる可能性を秘めている。

 

     特集1
山東省済南市から北京市へ
野球選手をめざす小さな「留学生」たち
 

みんなの校庭

李俊傑監督を見上げる2年生

 放課後、北京市鉄路職工第十一小学校(鉄路十一小)の校庭は、授業中の静けさとは打って変わって騒がしくなった。バドミントン、鉄棒、バスケット、鬼ごっこ。遊んでから帰宅する子は、200人を下らない。

 校庭の真ん中あたりに、グローブ、バット、ボールなどを几帳面に並べ、40人もの野球チームのメンバーが、二列に並んでランニングをはじめた。ユニフォーム姿は山東省の子どもたち、授業中と同じジャージーとトレーナー姿で練習しているのは北京の子どもたちだ。6年生より身長が20〜30センチも低い2、3年生も、腕を大きく振りながら、一生懸命ついていこうとする。

主将の声に合わせて準備運動

 軽い準備運動とキャッチボールが終わると、200メートルトラックを何とか確保できる程度の校庭で、守備練習が始まった。打った軟球(軟式ボール)が他の子どもたちに当たることも珍しくない。

 校庭にはセメントのブロックが敷き詰められていて、土が露出しているのはトラック部分だけ。そのため軟球は、まるで「軟式のテニスボール」のようにツルツルしている。熱中して、地面がセメントであることを忘れてしまうのか、横っ飛びでボールと捕ろうとし、「飛ぶなと言っただろう。危ないじゃないか!」と、監督から怒られる子も少なくない。

 校庭で遊ぶ子どもの数が減ってくるころ、野球少年はがぜん活気づいた。打撃練習がはじまるからだ。バットを持ったら決して仲間に打席を譲らない子がいる。監督が、「さあ、今日はここまで」と言っても、順番を待つ子はとぎれず、練習はなかなか終わらない。

野球のための「北京留学」

 鉄路十一小に野球チームができたのは1986年。野球界では名の通った強豪校だ。今年2月に広東省従化市で開かれた全国少年野球選手権大会(中国野球協会主催)の高学年の部でも、優勝を勝ち取った。

 同校に2002年9月、前例のない新しい仲間が加わった。山東省済南市から北京にやってきた小学4年から6年の野球少年17人とソフトボール少女4人である。

守備練習中、一部の子どもはトスバッティング

 彼らはふだん、同校の敷地内にある寄宿舎で生活している。優秀な野球コーチがいて、野球の上手な仲間と一緒に練習できる環境をもとめて、集団で「留学」してきた。昼間は北京の小学生と一緒に授業を受け、放課後は同校の野球チームと一緒にボールを追いかける。北京の子どもと違うのは、親元を離れて寄宿舎生活を送り、学校の敷地だけが、彼らの生活空間になっていることだ。

 「留学生」が野球と出会ったのは、「留学」してくる半年前。2002年4月、山東省初の少年野球クラブ「山東展望野球クラブ」が、済南市に設立された時のことだ。当時は、野球のルールや面白さを知らなかっただけでなく、道具もまったくなかった。

 そのため、山東の子どもたちが使う野球用具は、すべてクラブが提供したもの。同省出身のスポーツ用品販売会社の担当者に掛け合い、バット、ユニフォームなどを無料で提供してもらった。日本からボールの寄贈もあった。

 本人は口を閉ざすが、同クラブの創設者である王立強さんをよく知る人は、「彼は事業で成功して得た数十万元をつぎ込んでいる」と話す。「2008年(北京五輪)があるじゃないか。おもしろい分野だよ」と笑う彼の頭の中には、今はまだ山東省にはない高校や成人のチームを作り、ゆくゆくは五輪選手も輩出したいという未来が描かれている。

「箱庭」での共同生活

 「マンガ禁止、おもちゃもダメ。お菓子なんてもっての外。牛肉乾(ビーフジャーキー)だけは許している」

 クラブの副主任で、「留学生」の父親代わりとして北京に駐在している王勇さんの口からは、厳しい生活方針がポンポン出てくる。「留学生」に「北京での生活に慣れた?」と聞いてみると、「慣れた」という言葉の前に、過去の暴露合戦がはじまった。「ヤツは泣いた」「お前だって泣いたじゃん」と。親元を離れて寂しさを感じないはずはない。夜な夜な泣くだけでなく、情緒不安定になり、些細なことで殴り合いの喧嘩をはじめる子もいたそうだ。しかしそんな日は、わずか一週間だった。

 「みんなといっしょで楽しい」

カツ徳海コーチの話に耳を傾ける

 主将で捕手の馮天文くんはこう言うが、好きな野球のためには、少しくらい苦しくても弱音を吐きたくないと、懸命に歯を食いしばっているように見える。

 下表のように、彼らの一日に、自由時間はまるでない。もちろん、「遊びの天才たち」は、ちょっと時間があれば楽しむ術を知っている。しかし、普段は勉強道具と野球道具以外に触れることは禁止されていて、唯一自由が許されているのは、土曜日の昼時だけ。

 毎日の三食は、隣にある北京市鉄路職工第五中学校(鉄路五中)の食堂で済ませる。移動時間は、学校の外の空気を吸える貴重な時間だが、ここでも自由行動は許されていない。校門が、西三環路という主要道路に面しているため、安全のために二列に並び、ユニフォーム姿で進む。夕方の移動は、練習後の疲れも手伝って、みんな無口だ。毎日同じような風景のためか、近所の人たちも誰も振り向かない。

 入浴は、共同浴場を利用している。学校から歩いて20分ほどのところにあり、有料のため、毎日ではなく、2日か3日に一回出掛ける。入浴できない日は、タオルを水でぬらして体と足を拭くだけだ。

親の期待を背に

 親が一人っ子に託す期待は大きい。「北京留学」の話があったとき、二つ返事で同意した親ばかりではない。

 「サッカーをやらせたかったんだ」

 こう語るのは、馮天文くんの父親・馮輝さん。最初、息子が野球にのめりこんでいくのを複雑な思いで見ていた彼だが、息子が楽しそうにボールを追いかける様子を見て、「応援しよう」と決めた。

 今年3月、同クラブは、北京で初めて日本の少年野球チームと親善試合を行った。結果は惨敗。しかし、列車で約五時間かけて北京に応援に来た一部の親たちの目には、野球のプレー以上に、自立を覚えた頼もしい子どもたちの姿が焼きついた。(2003年7月号より)

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中国野球のキーワード

★「中国野球リーグ」(CBL)

 北京猛虎(タイガース)、天津雄獅(ライオンズ)、上海金鷹(イーグルス)、広東閃電(ライトニング)(今年は改名し、獵豹〔レパード〕)の4チームからなる野球リーグ。2002年誕生。中国野球協会では、「プロリーグと胸を張って呼べるようになるまでの道のりは長い」と表現し、正式にはプロという言葉を使っていないが、実質的なプロ野球リーグ。

★野球クリニック(スイング・フォー・ザ・ボール)

 中国野球リーグ(CBL)が、今年新たに打ち出した野球普及策の一つ。CBL開催期間中の土曜日のホームゲーム終了後、各チームの選手とコーチ2〜5人が、小中高校生に基本を指導。CBL自体がSARSの影響で中断したが、予定通りに行われれば、一回のクリニックで約100人、シーズン合計で2000人以上が指導を受けられた。参加費は無料、使用球は硬球。記念Tシャツと野球クリニック参加証明書を配布。

★体育教師と監督、コーチ

 普通小学校の少年野球コーチは、体育教師が務めていることが多い。監督やコーチは基本的にボランティア。数時間に及ぶ一回の指導につき、5元程度の手当を学校が支給しているケースもある。5元はファーストフード店の時給と同等。一方、体育専門学校や野球専門学校の職員の場合、「野球コーチ」が職業になっている。

★審判

 学校が認可(3級)、市・県・区が認可(2級)、省・自治区・直轄市が認可(1級)などの等級がある。民間の少年野球大会では、一日100元程度の手当で審判を依頼。予算を抑えるため、審判一人だけで試合を行うケースもある。その場合、主審が投手の後ろに立ち、塁審を兼ねる。練習試合では、日本の草野球のように、双方の監督、コーチなどが審判を行うことが多い。

★青年海外協力隊

 野球指導者の育成を手伝うため、国際協力事業団(JICA)が初めて天津体育学院に野球コーチを派遣したのは、1987年。初代の大貫克英さん以降、これまで野球コーチとして派遣された青年海外協力隊員は6人になった。現在は、四川省攀枝花市と河南省新郷市に、それぞれ煤孫泰洋さん、白根健一郎さんがコーチとして滞在し、同地の中高生の指導を手伝っている。近年の派遣目的が、青少年の育成、すそ野の拡大に変わってきたのは、中国野球協会の方針と一致する。