――陜西・眉県から出土したさまざまな青銅器やそこに記された銘文は、何を物語っているのだろうか。これまで西周時代に関しては、王の名前ぐらいしか知られていなかった、いわば歴史の空白である。今回の発見は、その空白を埋めることになるのだろうか。こうした問題について、中国社会科学院歴史研究所の前所長で、「夏商(殷)周の時代区分プロジェクト」の首席をつとめた李学勤教授の見解を聴いた――
【歴史学的な価値】重要な価値は、西周の王室のほぼ完全な系譜が、古代文字の中に初めて出現したことである。1976年に出土した「史墻盤」は、西周の共王の時代のもので、その銘文には文王、武王、成王、康王、昭王、穆王の記載はあるが、これは西周の王の系譜のうち、前の半分だけである。
今回発見された「ライ盤」の銘文は372字あり、盤の銘文としてはもっとも長い。この盤の主は「ライ」という人物で、「ライ」は、彼の属する「単」氏の一族が、周の歴代天子の国家運営を輔弼した業績を述べている。
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「43年ライ鼎」
(「43年ライ鼎」は全部で10件出土した)。西周(紀元前11世紀〜同771年)。2003年、陜西省宝鶏市眉県楊家村出土。 |
その中で、文王から穆王までに記したのに続いて、共王、懿王、孝王、夷王、脂、について記し、さらにこの盤が鋳造された当時の王、宣王についても記している。周王朝の滅亡時の王である幽王を除いて、西周のほとんどすべての王の系譜がそろっているわけだ。これによって、司馬遷の『史記・周本記』に記された西周王室の系譜の正確さが裏付けられた。
銘文は、西周の政治制度や社会生活などの内容を記述している。例えば、家柄の問題に関していえば、単氏は周王朝の貴族で、長期にわたり高い位に就いてきた。「ライ」の一族は、直系ではないにもかかわらず、その地位は赫々たるもので、8代にわたって官職に就き、周の天子を補佐して四方に征戦し、国家を治め、車馬の恩賞を賜った。こうしたことから西周の貴族社会やその特徴を理解することができる。
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「ライ盤」とその銘文の拓本。西周(紀元前11世紀〜同771年)。高さ20・4センチ、口径53・6センチ、腹部の深さ10・4センチ、底部の直径41センチ、獣の足の高さ4・2センチ、重さ18・5キロ。2003年、陜西省宝鶏市眉県楊家村出土。(拓本は北京歌華文化発展集団提供) |
また「ライ盤」の銘文から、西周時代の官職の状況を知ることができる。例えば、「ライ」が担当した「虞」は、山林沼沢やその産物を管理する官職だった。後に彼は戦功があったため、奴隷を管理する職に抜擢された。
この他、「43年」の銘がある鼎である「43年鼎」の銘文の中には、当時の官吏の監察制度が記述され、官吏に対し、公正な法の執行を行い、収賄などの汚職をしてはならない、などと求めている。これらはすべて、西周時代の社会・政治の研究に重要な根拠を提供している。
また、銘文を通じて、西周時代の民族関係も知ることができる。当時、西周は、西北の犬戎(「ケンイン」とも呼ばれる西北の異民族)や南方の「楚荊」(南方の異民族)と交戦したほか、「42年鼎」の銘文で、周の宣王が「楊国」(現在の山西省洪洞県)を分封(古代、王が土地を与え、諸侯に封ずること)したことにより、その地の犬戎の人々と衝突が発生し、これによって犬戎に対する征戦が引き起こされた、と記載されている。これは今まで、分かっていなかったことである。
【考古学的価値】今回の発見は、窖洞が史上初めて考古学的に発掘されたことである。そういう意味で、発掘は特別のものであった。これまでにもたくさん、窖洞から青銅器が発見されてきたが、以前に発見された窖洞の多くは簡単な構造で、臨時に掘った窖洞の中に器物を入れ、土を積み上げて完成させた。
しかし今回発見された窖洞は、細心の注意を払って造られており、窖洞の長さは4メートル余り、幅は2メートル余り、深さは9メートル余りある。窖洞の壁には穴が掘られ、器物がそこに積み重ねて入れられていた。
西周歴代の王
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諡
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名
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「夏商周の時代区分プロジェクト」で初歩的に確定した年代 |
文王
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昌
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武王
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発
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前1046年〜同1043年
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成王
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誦
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前1042年〜同1021年
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康王
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サ
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前1020年〜同996年
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昭王
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瑕
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前995年〜同977年
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穆王
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満
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前976年〜同922年
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共王
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エイ扈
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前922年〜同900年
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懿王
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カン
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前899年〜同892年
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孝王
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辟方
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前891年〜同886年
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夷王
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燮
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前885年〜同878年
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脂、
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胡
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前8776年〜同841年
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共和
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前841年〜同828年
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宣王
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静
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前827年〜同782年
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幽王
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宮涅
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前781年〜同771年
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しかも埋められて以後、後の世に動かされた形跡がない。今回は、科学的に窖洞を精査したことも、考古学上、大きな価値がある。
さらに、発掘された考古学の器物は、時期に分けて、科学的研究を進めなければならない。これまでは、西周晩期の脂、、宣王、幽王の各王朝の器物は、はっきりと時期を分けるのが難しかった。この三つの王朝の時代は百年以上に達するので、器物の形と構造、装飾などはきっと明らかな変化を遂げたに違いない。
今回発見された「ライ盤」の銘文から、これが造られた当時の王が宣王であることが分かり、さらに銘文に年代の入った二つの鼎、「42年鼎」「43年鼎」は、『史記』に記載された「周の宣王の在位は46年」という記載と符合する。このことから、「ライ」の青銅器を、周の宣王後期の「標準器」(基準となる器)とみなすことができる。これは今後の青銅器研究にとって科学的基礎となる。
このほか、この二つの鼎の銘文にはともに、「四十又二年五月既生覇乙卯」「四十又三年六月既生覇丁亥」というように、暦の年月、月相(月の形)、干支が記されている。このように二年連続して、かつまたともに「既生覇」(新月から満月までの時期)という月相が記されていることは、西周の暦における月相の謎を解き明かすのに新たな手掛かりを提供し、宣王の時期における暦を復元するのに重要な条件を与えた。これは「夏商周の時代区分プロジェクト」や今後の年代学の研究に対し、これを推進する役割を果たすだろう。(2003年9月号より)
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ライ盤の銘文の現代語訳(要旨)
(東京大学の大西克也助教授の試訳をもとに作成)
ライ〈注〉曰く。
「英明で尊き私の祖先の高祖単公は、威厳があり、聡明で徳があり、文王、武王を助けて殷を討伐し、天命を受け、天下を領有し、手に入れた土地に住み、上帝のお心にかなった。そして私の祖先の公叔は、成王を助け、夷狄が服従しなかったので、四方を平定した。
そして私の尊き祖先の新室中は、冷静かつ聡明で、康王を助けて、遠きも近きも従わない国々を懐柔した。
そして私の尊き祖先の恵中レイ父は、政を調和させ、策謀に功績があった。邵王、穆王を助けて南方の楚荊を討伐した。
そして私の尊き祖先の零伯は、聡明な心を持ち、職務を全うし、キョウ王、懿王に仕えた。
そして私の尊き祖父の懿中は、孝王、テイ(夷)王を補佐し、功績があった。
そして私の尊き父のキョウ叔は、麗しく、慎み深く、均整のとれた政を行い、剌(レイ)王に奉仕し仕えた。
私、ライは、尊き偉大な祖先たちの職務を継承し、朝晩、謹んで職務に励み、自分の職務を真剣につとめた。それ故に、天子からライに褒美を賜ることが多かった。
天子さまは、髪が黄色くなり、顔にシミができるまでいつまでも長生きをなさり、天下を治めてください」
王はかく曰く。
「ライよ。英明なる文王、武王は天命を受け、天下を領有し、天下はみな従った。汝の聡明な先祖たちは、先王を助けて天命の成就のために努力した。いま、余は、汝が先祖たちを引継ぎ、汝に与えた命令を重ねて申しつける。汝は 兌(という人物)を補佐して、天下の林野沼沢を管轄し、宮廷の御用に供するよう命じる。汝に赤い刺繍のついた黒い帯と手綱を賜う」
ライは天子が下された素晴らしい褒美に感謝し、称揚し、偉大な祖先や父を祭るための立派な盤を作り、亡くなった徳のある祖先を追慕して祭祀を行う。先祖の厳かな魂は上にあり、恭敬な子孫は下にある。子孫に福を多く下し、ライに多くの福と長寿を降し、(この部分不詳)天寿を全うすることを。
ライは長く天子に臣たらん。子々孫々永く祭祀を行え。
〈注〉これを「 」や「キュウ」と読む説もある。
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