特集 (その4)

中国の青銅器文化

 
中国の青銅器時代

「司母戊鼎」。商(紀元前17世紀〜同11世紀)。高さ133センチ、口の長さ110センチ、足の高さ46センチ、壁の厚さ6センチ、重さ875キロ。1939年、河南省安陽市侯家荘出土。(新世界出版社提供)

 銅と錫、あるいは銅と鉛の合金で鋳造される青銅器は、融点が比較的低く、硬度がかなり高く、鋳造に適しているなどの優れた点があり、人類はかなり早くからこれを用いた。

 中国の青銅器時代は、夏代の紀元前21世紀に始まった。古書には、「夏の禹が九鼎を鋳て天下の九つの州を象徴した」という伝説が記載されている。考古学の発掘で、夏代にすでに青銅の礼器、兵器などが鋳造されたことが証明されている。

 青銅器が大量に出現するのは商(殷)、西周、春秋、戦国時代である。各種の青銅器は食器、酒器、水器、楽器、兵器、車馬の道具、農具、工具、貨幣、割り符、印璽」、度量衡の道具、銅鏡などに用いられ、燦然とした青銅器時代をつくりあげた。

 青銅器時代は、商代中期が成熟期、商代晩期から西周前期までが最盛期、西周後期から春秋早期までが転換期、春秋中期から戦国時代までが新式期、と区分できる。そして戦国時代から秦漢時代までは、鉄器の使用が普及し、それにつれ、青銅器時代は次第に鉄器時代に取って代わられ、終わりを告げたのである。

年代の特徴と地域的特色

「雲紋禁」(一部)
 春秋(紀元前770年〜同476年)。長さ107センチ、幅47センチ、高さ28センチ。 1978年、河南省淅川県下寺出土。(新世界出版社提供)

 五百年以上にわたる商代では、青銅器は早期、晩期の二期に分けられる。河南・鄭州の商朝の都城遺跡に代表される商代早期の青銅器は、器の形が素朴、豊満で、装飾は想像力と重々しさに富む。河南・安陽の殷墟に代表される商代晩期の青銅器は、その造型が端整、重厚であり、装飾は幾何学紋であったり、抽象化された動物紋であったり、伝説上の神獣紋であったりして、華美の中にも威厳と荘重さを感じさせる。

古蜀人立像。商(紀元前17世紀〜同11世紀)。高さ260センチ、座高78・8センチ、人の高さ163・5センチ。1986年、四川省広漢市三星堆出土。(新世界出版社提供)

 西周は「礼」の社会であり、青銅器は周礼文化の特徴を体現している。例えば、礼器の多さや形の大小は、出身階層の身分の区別を示している。装飾文様は、商代の神秘的な神獣紋が図案化、定式化されたものだ。西周の青銅器の最大の特徴は、銘文が多いことで、これによって出来事を長く世に伝えようとしている。

 春秋戦国の青銅器は、王侯貴族の使用からさらに各地に広まり、使用範囲も日増しに日用品として生活に使われるようになっていった。青銅器はしだいに軽く、精巧になり、装飾は生き生きとした動物や細かい幾何学紋が多くなった。

 特に「失蝋鋳造法」が使われるようになってからは、器の形はさらに華美になり、装飾文様も複雑で絢爛たるものになった。

 秦漢時代になって青銅器は日増しに衰え、器の形は実用を重視した質素で精巧なものになっていった。しかし、陜西・臨潼の秦陵から出土した秦の銅車馬や河北・満城の漢代の中山靖王劉勝の墓から出土した博山炉、長信宮灯などはいずれも当時の鋳造技術の高さを示している。

 黄河流域の青銅文化に比べ、長江流域の四川、江西、湖北、湖南、雲南などの青銅文化もまた素晴らしいものである。例えば、四川・広漢の三星堆から出土した立人像や神樹、特に眼球が突出し、縦長の目をした人面具は、造型が奇抜で、別の流れに属するものと言うことができる。

古代の青銅器の鋳造場所

 考古学的に発見された商周時代の青銅器の鋳造場所で主要なのは、河南・安陽の殷墟にある鋳銅工房の遺跡で、その面積は1万平方メートル以上ある。河南・洛陽の西周早期の鋳銅工房遺跡の面積は、9万〜12万平方メートルである。

 山西・侯馬の東周の鋳銅遺跡では、3万以上の陶製の鋳型が出土したが、そのうち3分の1に装飾文様が刻まれていた。また器の形が識別できるものには、鼎、豆、壺など20種類以上あり、装飾文様には、キ竜紋、キ鳳紋、雲紋など十数種がある。

古代の青銅器の鋳造方法

「越王勾践の剣」。春秋(紀元前770年〜同476年)。長さ55・6センチ、幅4・6センチ。1965年、湖北省江陵県望山一号墓出土。(新世界出版社提供)

 中国古代の青銅器は、「合範法」という鋳型を使った鋳造法で造られた。「泥範」(泥の鋳型)は「陶範」(陶製の鋳型)ともいわれるが、それを使った工程は、まず模型を作り、装飾文様を描いた上で、その鋳型を取り、高温で焼く。そして液状の銅を流し込み、加工修正を加えるというものである。

 泥の鋳型には、単独のもの、二つの鋳型を合わせるもの、さらに三つ以上の多くの鋳型で鋳造するものとがある。大型の器物を鋳造するには、いくつかの部分に分けて鋳造する「分鋳法」が用いられる。それはまず器の本体部分を鋳造し、その上にまた鋳型を造って付属品を鋳造するやり方である。

 例えば重さ875キロに達する「司母戊鼎」は、鼎の本体に八つの鋳型を外側に取り付け、また鼎の底に四つの鋳型を外側に取り付けて製造した。鼎の足は、三つの鋳型を外に取り付けて鋳造した。鼎の耳は、まず先に耳を鋳造し、鼎の本体の上に耳を鋳て接合した。

 こうした作業は、二、三百人が密接に協力する必要があり、七、八十個の坩堝でいっせいに銅を溶かし、銅液を流し込んで鋳造する。

 「失蝋鋳造法」は、古くは春秋時代にすでに採用されていた方法である。これはまず、蝋、松脂、油脂で蝋材を作る。そしてそれを使ってさまざまな形や文様を蝋で模型を作り、さらに馬糞を混ぜた泥か薄い漆喰をその上に何重にも塗って型を作る。日陰で干したあと、熱を加えると、蝋は溶けてなくなり、半陶質の空洞の鋳型ができ上がる。最後に溶けた銅を流しこむと器ができあがる。

古代の銅鉱の開鑿と冶金

 昔の人々は露出した鉱脈から、あるいは植物と鉱物との共生関係に着目し、その助けを借りるなどして鉱脈を探し当てた。商周時代の銅の産地は、長江の中、下流域(現在の湖北、安徽など)に多く存在した。古代においては、銅鉱の争奪が原因で、戦争になることがよくあった。

 湖北・大冶の銅緑山の古い鉱山の坑道と冶金精錬の遺跡はもっとも有名である。ここの春秋時代の古い鉱山の坑道には、8本の竪坑と1本の斜坑がある。また戦国時代の古い鉱山の坑道には、5本の竪坑と1本の斜坑、10本の横坑がある。木製の巻き轆轤を用いて鉱石を地下4、50メートルの深いところから運び出し、地下に風を送り、排水し、照明をつけ、また鉱石をより分けるなどのかなり進んだ技術を持っていた。

 古い鉱山の付近にある銅の冶金精錬の遺跡は、錬銅炉が竪炉で、木炭還元法で銅を溶かして精錬する。連続して原材料を加え、鉱滓と銅を放出することができ、効率は高かった。この古い鉱区に40万トンの鉱滓が堆積していることから、当時、冶金精錬された銅の量が容易に想像できるのである。2003年9月号より

     
中国歴代年表
前2070年〜同1600年※
前1600年〜同1046年※
西周 前1046年〜同771年
東周 前771年〜同256年
前221年〜同206年
前漢 前206年〜紀元8年
後漢 25年〜220年
三国 220年〜280年
265年〜420年
南北朝 420年〜589年
581年〜618年
618年〜907年
五代十国 907年〜960年
960年〜1279年

1271年〜1368年

1368年〜1644年
1616年〜1911年
中華民国 1912年〜1949年
中華人民共和国 1949年10月1日成立
(※は「夏商周の時代区分プロジェクト」による)