1985年、有名な映画監督の呉天明がメガホンを取り、張芸謀が主演した映画『古井戸』(中国の原題は『老井』)は、太行山脈の中にある貧しい農村が舞台だ。この「老井村」の人々が、水を求めて苦闘する姿を描き、国内外の多くの賞を獲得した。この「老井村」のモデルとなったのが、山西省左権県拐児鎮の石玉コウ(石に交)村である。
百年、井戸を掘る
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映画『古井戸』の舞台となった石玉コウ村のたたずまい |
石玉コウ村は戸数80戸、人口337人の小さな山村で、十数年前までは麓からの道は曲がりくねった小道しかなかった。石板造りの農家の屋根は雪に覆われ、家の中は真っ暗で、ぼろぼろの家具が並んでいた。そのうちの一軒を訪ねると、64歳になる主人の李羊保さんが、昔の生活の様子をとつとつと語ってくれた。
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石玉コウ村の民家は、みな石造りだ |
「昔、このあたりは水がまったくなくてね。飲み水は雨や雪を貯めて使うしかなかった。だから庭に、一、二丈もある深い穴を掘って、そこに雨水や雪を溶かした水を入れたんだが、その水も2カ月ほどで飲み尽くしてしまう。そこで家ごとに人を出して、15里(約7・5キロ)も離れたところにある黒水潭に水を汲みに行く。水はロバに乗せたり、人が肩に担いだりして運ぶが、一往復するのに3、4時間もかかった。しかも早く行かないと並ばなければならない。だから夜明け前に起きて、カンテラを提げて山道を歩いて行った。ある日、やっとの思いで水を担いで家まで帰ってきたら、門前で転んでしまい、頭にきて、一日中、飯が喉に通らなかったこともあったよ」
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石玉コウ村ではかつて、ロバを引いて水を汲みに行った |
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かつて石玉コウ村の人たちは、15里も離れたところまで水を汲みに行った(撮影・邢蘭富) |
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長年、井戸を掘ってきた李羊保さんの両手は、その当時の苦労が刻み込まれている。 |
水不足のため村人は、だれも身体を洗わない。顔を洗うのさえ数日に一回だ。その水さえ捨てずに、豚やロバに飲ませる。生活環境が悪いため、村に木を植えることも、家畜をたくさん飼うこともできない。嫁をもらえない男やもめが村には70人もいた。
水不足とヨードの不足によって引き起こされるカシンペック病や甲状腺肥大などの風土病が多く、平均して4人に一人がひどい風土病にかかっていた。
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『古井戸』の村に待望の水がやって来た日、村は喜びに沸いた(撮影・邢蘭富) |
しかし百年も前から、村人たちは、水を求めて、不撓不屈の努力を続けてきた。親から子、子から孫へと、人々は井戸を掘りつづけてきたのだ。大地に掘られた穴は151も残っている。その深さを全部合わせると、5000メートル以上に達する。井戸掘りの作業で死んだり、大怪我をしたりした村人は、57人もいる。
こうした実情を描いた映画『古井戸』が上演されると、次々に援助の手が差し伸べられてきた。呉天明監督自身も専門家を探して、水源調査に協力を申し出た。また俳優たちから6000元の募金を集めて、西安から3トンのジーゼル油を運んできて井戸掘りを支援した。
村人たちは危険を冒して井戸掘りに取り組んだ。そして村から2・5キロ離れた山の斜面に、40メートルの深さの水源を探し当て、そこに井戸を掘ることに成功したのだった。
だが、これでも村の水不足の問題は解決しなかった。井戸は村から遠く離れており、電線を引いたり、ポンプを買ったりする金が村にはなかったからだ。だからその後も村人たちは、穴の中に雨や雪を貯めて、その水を飲みつづけていたのだった。
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井戸掘りに生涯をかけてきた老人たちは、水のありがたさを知っている(石玉コウ村で) |
2000年になって山西省政府がこの村の水不足問題解決を、扶貧プロジェクトの中に組み入れた。カナダ政府からも37万元の国際援助が届き、5本の深い井戸を掘った。さらに地下にパイプを通す新技術を使って、工事が進められた。
一年後の2001年1月17日、ついに待望の水が村にやってきた。村は盆と正月がいっぺんにやって来たような喜びに包まれた。老いも若きも水道の蛇口に群がり、感激の涙を流した。
カナダ政府からの援助はこれに留まらなかった。新しい校舎を建て、現金収入が得られる樹木を植え、女性のための文化サークルや科学技術サークルを開設した。さらに女性たちに少額のローンを与えて商売をするよう奨励した。その結果、今では18人の娘さんたちが村を離れて、1人は縫製工場をおこし、2人が大学に進んだ。
国内外の善意に支えられて、村人たちは自分自身の頭と力によって、新しい生活をきり拓きはじめたのである。
抗日根拠地に日本の援助も
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旧遼県(現在の左権県)で閲兵する八路軍総司令部の指導者たち(資料写真) |
『古井戸』の舞台となった石玉コウ村のある左権県は、県全体が貧しい。この県は山西省晋中市の東南にあり、太行山脈の西側に位置している。2000余平方キロという広い県内は、山や谷が深い。現在の総人口は13万5000人。
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麻田鎮にある八路軍総司令部の跡 |
1985年から山西省政府は、左権県を、省内にある35の貧困県の一つに指定した。当時、左権県の農民の年間純収入は1人当たり平均263元に過ぎず、食糧も1人あたり2002キロしかなかった。
それから17年間、国は累計で1億2821万元をここに投入し、インフラの整備や「温飽問題」の解決、技術教育などに重点を置いて扶貧プロジェクトを進めてきた。
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西河頭村に残る八路軍129師団司令部の跡 |
その効果は上がっていたのだが、不幸なことに1996年、左権県は大洪水に見舞われ、大きな被害を受けてしまった。多くの耕地は水につかり、水利施設や道路は壊れてしまった。この災害の後で調べたところ、全県で11万5000人が貧困ライン(1人当たりの平均年収が865元以下)を下回っていることが分かった。
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左権県の西関寄宿制小学校(撮影・李世清) |
抗日戦争の時期、左権県には多くの部隊が駐屯し、八路軍の「前敵総指揮部」などの中枢機関が置かれていた。1942年には、八路軍の副参謀長の左権将軍が麻田鎮で戦死した。これを記念して、それまで遼県と呼ばれていた県名を左権県に改名した。
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西関寄宿制小学校の寄宿舎で暮らす子どもたち(撮影・曹衛峰) |
こうした歴史を持つ抗日根拠地に、日本の民間からの援助が届き始めた。3年前には、日本の「円福友の会」が200万円の義捐金を贈り、地元が集めた18万元と合わせて共同で「中日友好円福希望小学校」を建設した。
また、左権県の県城内にある西関小学校は、2001年から、山間部の児童を受け入れる寄宿舎制の学校となり、400人の児童が寄宿生活をしている。しかし、山間部の子どもの家庭は貧しく、学費は免除されているものの、月に60元の食費を払えない家庭もかなりある。
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西関寄宿制小学校の寄宿舎で食事する子どもたち(撮影・曹衛峰) |
政府からは10元の食費の補助が出されているが、残りは社会各界からの援助が頼みの綱だ。左権県の指導部は、一人が1年で3000元を寄付し、一人の貧しい児童を助ける「一助一」活動を始めている。すでに24人の指導者がこの活動に参加したほか、北京の星河タクシー公司も14人の児童を援助している。さらに国際教育基金などの外国の機関や友人からも24人分の援助が届いた。
日本からも、「日本鶴の会」が2002年には11人、2003年には23人の貧しい児童を援助している。(2004年2月号より)
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