北京は政治の中心、上海は経済、重慶は人口でその名を知られる。しかし天津は、日本では、いまひとつ知名度が低い。 日本で「天津」の名がつくものは「天津甘栗」「天津丼」「天津麺」……。だがこの言葉は、いずれも中国では使われていない。 しかし天津は、人口1000万の巨大都市である。近代的な港を抱える大工業都市であり、異国情緒が漂う、しゃれた街でもある。 その天津がこの数年、今までの遅れを取り戻すかのように、猛烈な勢いで発展を始めた。 さあ、大きく羽ばたき始めた天津にご案内しよう。天津の素顔と将来への展望を、多面的に紹介してみたい。
動き出した海河の改造計画
天津の街を歩くと、大きく「◯」と書かれた壁や建物をよく見かける。あちこちで大きなクレーンが、うなりをたてて古い住宅を取り崩している。すでに大きな空地となったところもある。雨後の筍のように高層ビルが建てられている。 街の中を貫通して流れる海河。この中国第四位の大河の両岸では、切り立ったコンクリートの堤防が取り壊されている。人々が川辺まで下りて、水に親しむことができるようにしようというのだ。 天津の街の象徴である駅前の解放橋は、租界時代は万国橋と呼ばれた開閉橋だったが、今は動かない。この橋もそう遠くない将来、再び開閉を始め、下を船が通るようになる。 1994年からの10年間に、天津ではすでに53万戸の老朽住宅(1869万平方メートル)が取り壊された。新居に引っ越した市民は160万人にのぼる。そして2002年10月からは「海河改造計画」が動き出した。
この計画は、天津を流れる海河上流域の19・8キロの両岸を、幅1キロにわたって再開発し、42平方キロの土地に、サービス地帯、景観地帯、文化地帯を建設しようというものだ。工事は、3年から5年で完成し、さらに中流域18キロが2010年までに再開発される。 かつてのイギリス租界があった「五大道」一帯は、いまも千棟近くの洋館が残っている。この数年間、老朽化した洋館の改修工事が進み、多くの洋館がきれいに保存された。往時を偲ばせる街灯や、租界時代の馬車や子どもたちをかたどった銅像が街路のわきに点在している。 天津の街はいま、過去の歴史を残しながら、大きく変貌しつつある。 天津のたどった数奇な運命 天津は、数奇な歴史をたどってきた。隋の時代に開鑿された大運河の南運河と北運河が天津の地で交わり、中国の南北から物資が集まってきて、港町として栄えた。明代にはここから皇帝が船に乗り、海を渡ったので「天子の津」と呼ばれた。これが「天津」の名の起こりである。明の永楽2年(1404年)、軍営が設けられて「天津衛」となった。それから今年でちょうど600年になる。 天津の受難の歴史は、清朝末期から始まる。
清朝時代の1860年、英仏連合軍が北京を占領し、円明園を焼いたが、そのとき結ばれた『北京条約』によって天津は開港地となった。1900年、義和団運動が起こり、天津は八カ国連合軍に占領された。そして翌年には、天津県城の城壁が取り壊された。 その後、列強は、天津に租界を造った。19世紀後半から中国では、西洋近代の機械文明を学んで自強をはかろうとする「洋務運動」が起こったが、天津はその拠点の一つとなった。軍事の近代化、鉄道、電話、近代教育などの分野で天津は、全国の先駆けとなり、工業、金融、貿易の北方の中心地に成長した。 日本の敗戦、国民党軍との解放戦争を経て成立した新中国で、天津は、北京、上海とともに国の直轄市になった。すでにかなりの工業基盤があり、渤海湾に面する大きな港を抱えていたからだろう。 しかし、北京、上海に比べると、その後の天津の成長は遅かった。なぜ天津は遅れてしまったのだろうか。 建国直後の1953年から始まった第一次5カ年計画で、156項目の国家プロジェクトが定められたが、天津に関するプロジェクトは一つもなかった。そのうえ1958年から8年間、天津は直轄市の資格も失い、河北省の省轄市となった。大企業の一部が天津から他の地方に移転していった。さらに「文化大革命」が始まり、生産現場は大混乱に陥った。
1976年には唐山大地震が発生した。唐山に近い天津も、70万人の人々が家を失った。多くの企業が打撃を受け、直接的な損害だけで19億6000万元にのぼり、その被害から立ち直るのに8年の歳月を要した。 1986年から始まった第七次五カ年計画でも、天津の経済成長は遅かった。天津市の国内総生産(GDP)の成長率は、年平均5・2%だったが、これは全国平均より2・7ポイントも低く、全国の省、自治区、直轄市の中で、下から数えて二番目だった。 目覚しいこの10年の発展 天津の経済成長が始まったのは、1992年のケ小平の南巡講話以後である。94年3月、当時の張立昌市長(現在党中央政治局委員)は「三五八十」と呼ばれる経済発展の目標を掲げた。それは、大胆な外資の導入や大中の国有企業の改造、平屋建て住宅の移転と建てかえなどによって、GDPの2倍増を短期間に達成するという意欲的計画だった。
長い停滞で溜まったエネルギーを一挙に吐き出すように、天津の経済成長が始まった。2002年末、天津のGDPは2051億元に達した。1993年のGDPは536億元だったから、10年間でほぼ四倍増を達成したことになる。この10年間の経済成長は、全国平均を大きく上回った。 都市住民の一人当たりの可処分所得は、1993年の2769元から10年後には1万元になった。農民の一人当たりの年間純収入も、1593元から5315元に増えた。 導入された外資は、累計で73億ドル以上。これを利用して1220の国有企業の技術改造プロジェクトが実施された。かつては一面の塩田だったところに天津経済技術開発区(TEDA)が造られ、モートローラーやコカコーラ、大塚製薬など世界の有名大企業が続々と投資を始めた。 トヨタは2000年から天津に進出し、中国の一汽(第一自動車)と合弁で乗用車「VIOS」(威馳)を売り出した。従業員約2000人は現地採用で、平均年齢は21歳。さらにトヨタは開発区に、総面積155万平方メートルの第二工場の建設を始め、2005年から「CROWN」(皇冠)を生産する。
天津新港に隣接し、高速道路が二本も走っている開発区の立地条件は優れている。背後に広がる広大な華北、西北、東北への出入り口の役割を果たし、天津市の優秀な労働力をふんだんに利用することができる。外国との交流の長い歴史で培われた国際性も天津の強みだ。 今後の発展にとって、最大の問題は「水」である。現在、試験的に日産一万トンの海水を淡水化しているが、コストが高いのが悩みだ。しかし開発区管理委員会の李勇主任は「将来は、北京、天津の上水道と同じくらいの価格に引き下げる自信がある」と強気の見通しだ。 整備される交通体系 成長著しい開発区やそれに隣接する天津新港には、毎日、天津市内から20万人ほどの人々が通勤している。通勤の足はバスなどだったが、今年3月末に、市内と開発区を結んで流線型の軽軌鉄道が走り始める。 全長46キロ。19の駅が造られ、十両編成の電車が当初は十分に一本、将来は四分半に一本走る。第一期工事の総工費は66億元。車両は日本の東芝と協力し、信号系統は米国、通信施設はドイツのジーメンスを採用、スペインの政府借款で建設された。
第二期工事は、天津駅まで地下鉄9号線となって延長される。2008年に北京オリンピックの一部の競技が天津で開催されるのに間に合うように、9本の地下鉄が建設される予定だ。さらに、まだ構想の段階だが、天津と北京を結ぶ日本式の新幹線を建設する案も検討されている。そうなれば、北京―天津間の120キロは約30分で結ばれ、通勤も可能になる。 海の玄関、天津新港も大きく発展した。昨年の貨物取扱量は1億6000万トンを突破した。中国の北方第一の人工港で、10万トン級の船が接岸できる。 この港は海河の河口に位置しているため、土砂の流入と堆積に悩んできた。現在、港を浚渫し、港の沖に人工島を造って、土砂の流入を防ぐ計画だ。 2010年には20万トン級の船が接岸できる深水港となり、貨物の取扱量は2億6000万トンにする戦略目標を立てている。また、石炭の積み出しバースは、全長8キロの閉鎖式ベルトコンベヤーを設置して粉塵の四散を防ぐ考えだ。(2004年3月号より) |
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