急速に発展する天津は、高層ビルが立ち並ぶ近代的な都市へと変貌している。しかしその反面、伝統的な天津の街のたたずまいは消え、天津らしさが失われて、他の大都市と同じ風貌になりつつある。 天津生まれの作家、馮驥才氏は、「このままでは天津は、個性のない街になってしまう」と危機感をつのらせている。多くの建物が壊されていくのを見て彼は、建築家、歴史家、都市計画専門家、文化人らとともに、天津の街の通りを一つ一つ実地調査し、それぞれの建築の価値を記録したあと、1994年から3年間かけて、百人の写真家に依頼し、3万枚の写真を撮った。これを4冊の分厚い写真集にまとめて出版した。費用はすべて自腹を切った。 その写真集に「これがあなたの心から愛する都市です」と書いて、市の指導部に1冊ずつ贈った。だが、天津市の再開発の速度は、その後さらに加速していった。馮驥才氏は現状をどう見ているのか、こうなった原因はどこにあるのか、これから天津はどうなるべきか、率直に語ってもらった。 中華と西洋が共存する天津 「歴史的、文化的に見れば、天津市は非常に独特の都市であり、北京や上海とは異なっている。天津は『華洋雑居』『華洋並立』の都市だ。『華』は中国式であり、『洋』は西洋式。東西がいっしょに存在し、共存している。北京は完全に中国式だったが、いまや中国式でも西洋式でもない、奇怪なものになってしまった。伝統的な上海は、基本的に西洋式だったが、だんだん融合して西洋式を主とする都市となった。もともとの天津はすべて中国式で、租界だけは西洋式だ。西洋式の建物の中にもギリシャ風やバロック風もあり、また1920〜30年代に流行したモダニズム、折衷主義、新古典主義などの建築が存在している」 「点」が残っているだけ 「本当に古い歴史的街区はすでに存在しない。今の歴史街区は、もともとの街区が完全に壊されたあと、古いものを模して新しいものを建てただけだ。これは全国各地みな同じで、時代性も特徴もない。もともと薬屋には薬屋の建物の風格があり、百貨店や役所にもそれぞれに独特の風格があった。しかし現在の計画では、みな同じような建物にしてしまう。個別的にはいくつかの歴史的建築は残っているが、それは『点』の状態で保存されているに過ぎない。それは歴史的街区の保存ではない」 壊されたオーストリア租界 「海河の南岸は、英国、フランス、ドイツの租界が集中していて、比較的良く保存されている。海河の北岸にはオーストリア、イタリア、ロシア、ベルギーの租界があった。マルコポーロ広場周辺、イタリア租界の一部の保存が、いま、積極的に進められている。イタリア租界は1990年代に一部壊されたが、風格ある建物がなお残っているのは嬉しいことだ。だが、ロシア租界とオーストリア租界は基本的に消滅してしまった。オーストリア租界で残されたのは袁世凱(中華民国初代大総統)、馮国璋(直隷総督)の旧居と、オーストリア領事館の旧跡だけだ」 危機に立つ伝統文化
「民族的民間文化が危機に立たされている。その背景は二つある。第一は中国の近代化の速度があまりにも速く、グローバリゼーションの速度があまりにも猛烈だからだ。経済がグローバル化する時代には、文化はむしろ本土化しなければならないと私は思う。中国の改革・開放政策は突然やって来て、経済の発展速度は速すぎ、このため伝統文化は大きな打撃を受けた。都市の古い建築などの目に見える物質文化だけではない。古くから伝わる民俗、民間芸術、口頭の文学なども打撃を受けた」 「第二に、現在は人類の文明の転換期にあることだ。歴史上、人類の文化の転換期は二回ある。最初は狩猟漁労文明から農耕文明へ転換、第二次は現在、われわれが経験している農耕文明から工業文明への転換だ。第二次の変化の速度は非常に速く、農民は労働者となって村を出て行き、その文化は中断し、誰も継承しない。さらに多くの若い人たちの生活様式が変化し、短期間の内に、伝統文化に対するアイデンティティーを失った。これによって伝統文化は大打撃を受けたのだ」 官僚と不動産業者による破壊 「都市の破壊の原因は、一つには、文化を良く理解しない官僚たちにある。彼らは自分の成績をあげるため、目に見える形の変化を求めるからだ。その結果、都市の個性は破壊され、多くの都市は基本的に個性を喪失した。もう一つの原因は、不動産開発業者の金儲けだ。いま、一番金を稼げるのは不動産業だろう。庶民の住宅が劣悪で、人々が生活環境を変えたいと思っていることも、都市の変化の動力となっている」(2004年3月号より) |
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