特集 動き出した中国の「農協」組織 (その2) |
北方で育てた野菜を南方で売る
|
しかし、同業者が増えるにつれて、胡さんの商売はだんだん苦しくなっていった。そこで昨年八月、胡さんは転作することにした。試しに、この村にある「神州緑普果菜産銷合作社」という農業組織に援助してもらい、八ムーの土地に、中国の南方でよく作られる野菜を植えた。 するとどうだろう。わずか2カ月で、胡さんは思いもかけず数百元も儲かった。胡さんは大変喜んで、今年は南方野菜の植付け面積を拡大した。 胡さんのような農家は、房山区内ですでに千戸を上回る。こうした農家はみな、「神州緑普果菜産銷合作社」の指導の下、南方の野菜を植え、合作社がその野菜を広州や香港などに運んで売る。この1、2年、合作社に参加した農家は、南方野菜の栽培で、家庭収入が明らかに増えた。
「神州緑普果菜産銷合作社」が試験的に設立されたのは1980年代末である。当時、南洛村の村民、史建林さんは、出稼ぎに広東などに行き、野菜や果物の商いを始めた。そして数年後には、たちまち豊かになった。 史さんは最初、北方の各地で野菜を購入し、南方に運んで売っていた。しばらくして彼は、広州や香港などでは毎年、6月から9月までは気温が高く、そのうえ台風や豪雨の影響で野菜が育ち難いため、外から大量の野菜を購入して市民生活の需要を満たしているのを知った。この時期、北京や華北一帯の気温と降雨は南方野菜の栽培に適している。そこで史さんの頭に、北京周辺で南方野菜を栽培し、それを広東などにもって行って販売するという考えが芽生えた。 史さんのこうした発想は、村民委員会の幹部から支持された。千ムーの村の土地を史さんは請負った。彼はそこに、南方でもっとも人気のあるカイランサイやサイシンなどの野菜を重点的に栽培した。こうした野菜は生長が早く、もっとも短いものは20日間で収穫できる。だから6月から10月までの間に、4回か5回、作付けと収穫ができ、収量も多い。そのうえ、史さんが長年、野菜を栽培し、販売してきたことによって蓄積された技術や販路があったため、史さんの野菜は引っぱりだこだった。
史さんの栽培する季節のずれた南方野菜が、投資は少なく、販売は好調で、よく儲かるのを見た南洛村の人々は、それを真似る人がますます多くなった。史さんと村の幹部は、一部の農民を引き連れて北京周辺でもっとうまくやっている村へ参観に行き、その経験を学習した。広東などのマーケットまで行って実地に視察した人もいた。 2000年、「神州緑普果菜産銷合作社」が正式に設立された。村民たちが南方野菜の栽培技術を早く習得するよう、史さんと合作社の技術員はいつも菜園の中で村民たちに野菜の植付けを指導した。収穫期には、労働力の少ない農家に、史さんは仲間を収穫の支援に行かせた。 トラックが南方野菜を満載して走り去るたびに、労働の果実が経済的利益に変わった。 史さんが請負っている土地も2000ムー以上に拡大した。隣村の多くの農民も合作社にやってきて、参加したいと申し出てきた。わずか数年で、史さんといっしょにやりたいという農家は千戸以上になった。 合作社の組織は、農民の自主的な意志を主にしている。合作社は農民に種子や必要な技術的支援を提供し、村民は野菜の品種を選ぶ際に、だいたい合作社の意見に従う。
冒頭に書いた胡士光さんは「合作社へ参加することも脱退することも自由だ。合作社とわれわれの間のよりどころは、相互信頼なのだ」と言っている。 野菜の収穫の際には、合作社は人を畑に派遣して収穫を助ける。さらにその野菜を低温処理し、包装し、広東や香港などのマーケットに運ぶ。 野菜の安全性を保証するため、合作社は特に、野菜についた農薬の測定設備を購入した。残留農薬が基準を超えた野菜は、全部、返品される。 このほか合作社は、中国科学技術協会と共同で、定期的に専門家を招き、農民たちに栽培技術や市場のニーズといった知識を講義してもらっている。また科学技術協会の指導で、農民たちの植えた野菜の品種や質、衛生基準は次第に向上し、いまや合作社の指導で、社員の農民たちが栽培した野菜は、広東や香港、シンガポールなどで、売れ筋の商品となっている。(2004年5月号より) |
||||||||