英語で「CHINA」(チャイナ)と言えば陶磁器のことである。それほど中国と焼き物は、切っても切れない縁で結ばれている。 中でも日本や欧米で知られているのが景徳鎮。千年も続いてきたこの窯から、数限りない名品が世に出てきた。 その景徳鎮が、市場経済化の波の中で、大きく変容している。国有企業の独占が打破され、多くの民営企業が育ってきた。伝統的な技法に加えて新しい技法が導入され、より売れる商品、斬新なデザインを追求している。 景徳鎮の変容は、改革・開放の道をひた走る現代中国の縮図でもある
しかしそういう先入観は、汽車の駅を降りたとたんに吹っ飛ぶ。眼前に広がるのは、春雨の中に煙る古い黒灰色の民家や、それを取り壊して建てられているこぎれいな高層住宅、それに緑化された街路である。中国の普通の地方都市となにも変わらない。 汚染はほとんどなく
煙突もほとんど見かけない。大気も澄んでいて、汚染はまったく感じられない。ただ、しいていえば、街のあちこちに、陶磁器を売る小さな店があったり、交通信号器が陶器で造られていたりしていることだけが、景徳鎮らしさを感じさせる。 もっとも、景徳鎮がこうした姿になったのは、そう古いことではない。昔は燃料に木材を使い、その後も石炭が使われてきた。しかし今は、すべての製陶工場が天然ガスや電力に切り替えられた。景徳鎮の大気汚染は一掃され、悠久の歴史と美しい風景をセールスポイントにする観光都市に変貌を遂げた。 一見、なんの変哲もない地方都市だが、千年の焼き物の伝統は、この街にいまも息づいている。現在、陶磁器製造業は2000社以上あり、人口50万人のうち10万人が陶磁器関連の仕事に従事している。 新中国成立以来、景徳鎮には十数の国営製陶工場が建設された。ここで造られた製品は、国内でも海外でも好評だった。しかし改革・開放政策が始まり、とくに1990年代に入ると、景徳鎮の国営製陶工場は企業改革をせざるを得なくなった。国家の計画に基づいて、国が生産と販売を指令するというモデルが、市場経済の発展に合わなくなったからである。 国営製陶工場は、企業内部の制度改革などによって、また新たに活気づいた。さらに私営の製陶企業が、まるで雨後の筍のように出現したのである。 水と土が生んだ繁栄 景徳鎮の焼き物の歴史は、遠く漢代にまで遡る。当地の県志の記載に「新平冶陶、始于漢世」とある。「新平」とは景徳鎮の古い呼び名で、漢の時代から早くも陶器の生産が始まっていたことを示している。 その後、「新平」は、「浮梁」「昌南」などと名前を変える。 五代十国の時代には、ここで南方の越窯の青磁や北方のミマ窯の白磁が真似て造られた。白磁が南方で最初に造られたのはここである。 北宋時代になると、多くの陶工が北方の戦乱を避け、ここに集まって来た。その中には多くの優れた陶工がおり、ここに根を下ろした。大小の窯が多数、建てられた。そしてここで焼かれる薄い藍色の「影青瓷」という磁器は、当時、「磁器の中の磁器」といわれ、もてはやされた。 当時ここは、饒州府の管轄下にあった。焼き物の表面が「玉」のようだったので、「饒玉」と呼ばれた。「影青瓷」の特色は、青い釉薬のほかに、「刻花」「印花」といったさまざまな装飾の手法にある。北宋の景徳年間(1004〜1007年)になると、時の朝廷がここに「監鎮官」を置き、景徳窯を建て、ここで焼いた磁器を宮廷の御用達にした。焼き物の底に「景徳年製」の款が書かれた。 この「景徳年製」の磁器は、光沢があり、品質に優れ、その名は天下に轟き、人々は「景徳鎮の磁器」と呼ぶようになった。そのため時の皇帝、真宗(998〜1022年)は、詔勅を発して、これまで「昌南鎮」と呼んでいたこの地の名を「景徳鎮」と改めた。以来、千年、景徳鎮の名がずっと使われてきたのである。
南宋の人、蒋祈の表した世界最古の陶磁器生産の専門書『陶記』の記載によると、北宋時代の景徳鎮はすでに、青磁白磁系統の代表的な生産地で、窯は三百もあったという。 どうして景徳鎮は、古代から現在まで、陶磁器を生産し続けることができたのか。その秘密は、「土」と「水」にある。 景徳鎮の市街地から五十キロ足らずのところに、高嶺山という山がある。この山から品質の良い焼き物の原料である「高嶺土」が多く産出される。「高嶺土」は一種の鉱石であり、花崗岩が風化してできたものだ。鉄分の含有量が低く、可塑性に富み、形を作った後は固くなり、磁器を造る原料として非常に適している。 17世紀の初め、景徳鎮にやって来たフランスの宣教師が、この珍しい土を発見し、その土を一部、本国に持ち帰り、研究した。後にフランスの陶磁器会社がこの土を「カオリン」と命名した。磁器が世界に広まるにつれ、その原料である「高嶺土」すなわち「カオリン」は、世界に通用する言葉となった。
現在、高嶺山の麓にある高嶺村の前に建つ水口亭の中に、明の万暦年間から清の雍正年間に採掘された「高嶺土」に関する重要な石刻が残されている。 「水」とは水運の便である。 景徳鎮は、江西省の東北部にあり、この一帯は浙江、安サユの両省と境を接している。丘陵地帯が多く、昌江が北から南へ、景徳鎮の街を貫いて流れ、ロカ陽湖に注いでいる。昔から景徳鎮の焼き物の原料や製品は、大部分がこの昌江の水運を利用して運ばれた。「舟帆日日、江を蔽って来る」という言葉は、当時の水運の盛んな様を表したものだ。 新しい技術の発展 元(1279〜1368年)の時代、景徳鎮は発展の重要な時期を迎える。ここには「浮梁瓷局」という役所が置かれ、官用の磁器が専門に生産された。このときから景徳鎮の焼き物産業に、官営の磁器工房が出現した。 技術的にも、高嶺土に陶石を加えた材料を使い始め、「青花」や「釉裏紅」などの新しい種類を造りだすことに成功した。このときから中国の磁器は、単色から彩色の時代に入った。 明清時代(1368〜1911年)になると、景徳鎮の磁器の製造は、かつてないほど発展した。明朝が始まると、浮梁瓷局の基礎の上に、皇室専用の御窯工場が設立された。その規模は広大で、細かく分業が進んだ。工芸技術はきわめて高く、一つの磁器を製作するのに、七十二の工程を必要とした。
「天下の窯器をことごとく具え、万杵の声、地に殷き、火光、天を燭し、夜、寝ることあたわず」――これは当時の景徳鎮の盛況を示している。陶工は毎日1万人以上働き、景徳鎮は世界最大の手工業による磁器製造のセンターとなっていたのである。「祭紅」「五彩」「粉彩」「淡黄」などの陶磁器の逸品が次から次へと出現し、中国の磁器の都としての景徳鎮の地位がこの時期に定まった。 景徳鎮の磁器が皇帝に献上されたのは、宋代に始まるが、宋代、元代は、民窯で造られた優秀な磁器の中から献上品が選ばれていた。官窯で専門に献上品を造ったのは、明代以後のことであった。 明代の初期、景徳鎮の市街地の中心にある珠山の南に設立された皇室専用の「御器廠」は、清代になると「御窯廠」と改名された。こうして官窯と民窯は分離され、民窯は日用品を中心に磁器を生産した。 ところが明の嘉靖年間(1522〜1566年)になると、海外からの中国磁器の需要が高まり、官窯の生産だけでは、需要に応じきれなくなった。そこで役所が原材料の一部を出し、民窯で一部の磁器を焼かせる「官民合同方式」が次第に行われるようになった。この方式は、優秀な磁器原材料と工芸技術が民間に流れる結果をもたらし、民窯は大きく発展しはじめた。 景徳鎮の磁器の伝統的な焼き方は、形成した素地を耐火材で造った箱の中に入れ、箱ごと窯の中に入れて、一つずつ積み上げて柱のようにする。 窯の中の場所によって温度が異なる。陶工は経験によって、それぞれの温度に適応する釉薬を塗った磁器を然るべき場所に置く。昔は、現代のような温度測定の器具はなかったので、磁器の焼き方の良し悪しは、完全に陶工の腕にかかっていた。
景徳鎮の磁器の四大特徴を称して「白きこと玉の如く、薄きこと紙のごとく、明るきこと鏡の如く、ひびくこと磬(打楽器)の如し」という。たしかに景徳鎮の磁器は、蝉の羽のように薄く、絹糸のように軽く、灯の光に当たれば、もっと素晴らしい。こうした磁器は、陶工たちの豊富な経験によって生み出されてきたのである。 中国の有名な歴史学者で、故宮博物院前副院長の楊新研究員は景徳鎮の歴史的位置付けについてこう評価している。 「官窯であろうと民窯であろうと、景徳鎮の陶磁器は、中国の焼き物の歴史においてきわめて重要な地位を占めている。それは、中国の陶磁器の工芸と美術の発展に、直接影響を与えた。とくに明代、清代では、景徳鎮は、中国の製陶業に史上空前の繁栄をもたらし、中国陶磁器の世界における地位を定めた」(2004年6月号より) |