新旧が交わる北京の什刹海
――胡同めぐり、遊覧 船、オープンテラス
 
 
  王浩=文 魯忠民=写真
 
前海と後海の間に位置する銀錠橋。6方向に通じている、人通りがにぎやかた。

 中国の北方に位置し、乾燥した気候で水不足――。北京に対して、多くの人たちはそんな印象を抱いているに違いない。ところが、意外なことに北京城は水に沿って建てられていた。明・清時代、北京城内には北海、中海、南海、前海、後海、西海という六つの池があり、人々は前海、後海、西海の三つを合わせて「什刹海」と呼びならわした。北海と中海、南海は皇帝の専有であり、宮廷ならではの威風を備えている。什刹海はこれとは異なり、池に沿って四合院(中国北方の伝統的住居)が設けられ、胡同(横町)が網の目のように張りめぐらされている。親しみやすい庶民的な雰囲気がここにもたらされている。#C9DAF5

 そんな静けさと温もりのある池のほとりに、近ごろはにぎやかなバーやレストランが現れた。観光客が大挙しておしよせ、夜ともなるとネオンがきらめく。それは、まるで古い什刹海が一新されたかのよう。さまざまな考え方もトレンドも、ここから発信されているのである――。

 

静けさから喧騒へ

銀錠橋から西を望む。かつては美しい西山が観賞できたため、「銀錠観山」という燕京八景の一つに数えられた。ところが今ではビルを望むだけである

 夏の夕方ともなると、「銀錠橋」は格別のにぎわいである。たくさんの自動車や通行人が、このアーチ橋の上を往来するのだ。ここは什刹海の前海と後海をつなぐ最も狭い水路で、銀錠橋がその水路をまたいでいる。橋の上から西を望めば、遠くにかすかな山影が見え、後海の水の静けさと岸辺のしだれ柳がそれを際立たせている。まるで美しい山水画の構図のようだ。これが、その昔の北京城で知られた「燕京八景」の一つ、「銀錠観山」(銀錠橋から西山を観る)である。

 銀錠橋のそばには、さまざまなバーやレストランが二、三十軒立ち並ぶ。夕闇迫るころ、ネオンが輝き出すと観光客らがつぎつぎとやってきて、それぞれ気に入った場所を探す。若い従業員が通りで客を呼びこむ声やバーから聞こえる音楽、自動車のクラクションが混じりあい、ここはとりわけにぎやかだ。

シャレな通りに変わった。屋上でさえも利用してバーを開いている

 什刹海のそばに住む劉春宏さんは毎日、銀錠橋の上で観光客を待っている。輪タクをこいで、胡同めぐりをするのが彼の仕事だ。言ってみれば彼は「老北京人」、生粋の北京っ子に数えられるだろう。劉家では代々銀錠橋のそばの四合院に住んできた。幼いころは什刹海で水浴びし、魚をつかまえ、胡同を駆けずり回った。ここの一草一木にいたるまで、熟知している。

 胡同めぐりの仕事に就いて、まだ2年足らず。以前は日本とノルウェーの会社で働いたこともあるという。数年前、地元で胡同めぐりの観光プロジェクトがスタートし、「自由であるのが根っから好きだ」という劉さんは、会社を辞めて輪タクを買い、胡同めぐりをテストした。そして思いのほか1カ月に6、7千元(1元は約13円)を儲けたのである。その成功は彼をたいそう満足させた。また、什刹海のそばに長年暮らす彼にとって、観光客を案内し、胡同を見学してもらうことは、まったくの楽しみであるという。

 

 「什刹海に詳しいからね。ここを説明するときは、誇らしさで一杯になるんだよ。それに、この仕事はとても自由で、時間の拘束を受けないからね」と劉さんは言う。

外国人観光客も什刹海のほとりに続々とやってくる

 劉春宏さんだけでなく、多くの北京人たちが什刹海に深い愛情をもっている。ここは北京人に親しみを感じさせる水域で、古い風情をもっとも残す場所である。清の時代、什刹海は「旗人」の居住地だった(清代に、満州族をはじめ蒙古族、一部の漢族を八の旗籍に編入し、これらの人を「旗人」と呼んだ)。現在の住民の多くは、この旗人の末裔である。彼らはいまなお古い北京の伝統的な習慣と、寛容で穏やかな心をもっている。ここは老北京の文化を見つけるにはよい場所で、よく保存された四合院、大小さまざまな胡同、王府(皇族・貴族の邸宅)や名士の旧居がここに濃厚な文化の香りを与えている。

劉春宏さんと奥さん。自宅の前で

 2年前の什刹海は静かなところで、今のように多くのバーやレストランが出現していなかった。ほとりのいたるところで、お年寄りたちが中国将棋やトランプ、散歩をしている姿が見られ、若いカップルがほとりに座って愛を語り、水を打ったような静けさとゆったりした時間がそこにはあった。しかしここ数年の間に、何軒かの店やバー、レストランなどがつぎつぎと現れた。そして2003年、新型肺炎SARSの流行で、ついにこの静寂が破られた。感染を防ぐため、人とのつきあいやデートの際には広々とした戸外が選ばれた。什刹海はそうした都合のいい場所にあり、自然の景色もすばらしく、人々の「一番人気」となっていった。賢い商売人たちは、ビジネスチャンスをすかさずつかんだ。そのため、もともと静かな什刹海に、突如として7、80軒のバーやレストランが出現し、観光客が続々と訪れるようになったのである。SARSの終息後、ここは流行に敏感な若者がつどう一番人気の場所になった。

 什刹海の繁栄は、劉春宏さんにとっても良いことである。より多くの観光客がやってきて、彼の輪タクもその対応に忙しい。劉さんによれば、隣近所の多くもバーを開きはじめた。商売もうまくいき、什刹海の繁栄は彼らの生活をガラリと変えた。しかし、ここに住むすべての人が満足しているわけではない。駱さんというおばあさんはここに暮らして40年近くになるが、これまで夕食後はいつもほとりを散歩していた。長年ずっとそうだった。しかし、バー通りができてから、駱さんは一度も散歩をしたことがない。さわがしい音楽や人々の往来は、駱さんにどうしても合わないのである。お年寄りにとってみれば、食後にほとりを散歩したり、おしゃべりしたりする生活環境がすっかり変わってしまった。生活に溶け込んでいた什刹海だが、今やますます遠い存在になってしまった。

夜の池辺にネオン輝く

日暮れどき、荷花市場のオープンテラスは早くも夕食をとる人たちでいっぱいになる

 什刹海の夜は、1日の中でもすばらしい時間帯だ。両岸に並ぶレストランの赤灯籠に明かりがともり、四方から客を招きよせる。什刹海の三つの池の中でも、前海と後海の変化は激しく、西海はさほどでもない。前海一帯はかつて骨董の専門商店街で、夜に訪れる人は少なかった。しかし、今や夜でもこうこうと明かりのともる場所となった。さまざまな特色をもつバーが多くの客を招きよせ、オープンテラスのイスですら一杯である。

 前海の西南角に極彩色の牌楼(鳥居型の門)が建っており、そこには「荷花市場」の四文字が記されている。荷花市場の名前の由来は、古くまでさかのぼる。昔、この辺りの水面にはハスが広く自生しており、夏にはその花が満開となった。大きな緑葉に薄紅色の花が引き立ち、それはまるで詩句の「映日荷花別様紅」(日に映えるハスの花は、その赤さが際立つ)のようだった。また、かつてはここもにぎやかな商店街だったので、荷花市場と呼ばれたのである。

胡同に暮らす住民。住居は清代の大太監・李蓮英の住まいだった

 牌楼のそばには、アメリカ資本のコーヒーショップ「星巴克」(スターバックス)がある。「緑色はスターバックスの代表だ」と多くの人が思うだろう。しかし、この支店は赤を使って外観を飾っている。形式にこだわらず、池の風景とマッチさせることに重きがおかれたのであろう。

 前海にあるバーやレストランは、そのほとんどが大きくて立派な構えだ。「橋水人家」「潮竜閣」「望海怡然」「柳塘庭」などの店がある。その中に、「茶馬古道」というレストラン・バーがある。茶馬古道は中国・雲南の西からミャンマーなどの国へ行く、かつての交通の要路であった。その昔、中国のシルクや茶などの特産は、この道を通って東南アジアへ売られていった。そのため、茶馬古道は別名「西南シルクロード」とも呼ばれた。この名前を見ると、つい引き寄せられてしまうのである。

什刹海を訪れる人が急増し、静かに暮らす古くからの住民に喧騒をもたらしている

 店内に入ると、すぐに大きな滝が目に入る。それは二階の階段からゆっくりと流れ落ちている。ザーザーという水の音と、壁に飾られた雲南の風景写真は、まるで訪れた人を大自然に導くかのようだ。ここでは、雲南名物の焼肉やプーアル茶を味わうことができる。従業員はいずれも雲南から来ている人たちなので、興味があればふるさとの風情について説明してもらうこともできる。

 彼らによれば、このレストラン・バーは中国の有名なモダンアーティスト・方力鈞が設計し、オーナーになったものだという。なるほど独特な雰囲気を持った店だ。

胡同にある有名な「脂ニ菜」。四合院の中で宮廷料理が味わえる(写真・于明新)

 前海のほとりには、2、30艘の大小さまざまな木造船が接岸されている。大きな船には十数人、小さな船には3、4人が乗ることができる。船はいずれも中国の南方から運ばれたもので、それぞれに20代の若者が一人ずつ乗り、巧みなまでに漕いでいる。この船に乗れば什刹海がひとめぐりできる。

 船に揺られる水面には、両岸のバーやレストランに輝くネオンが赤、黄、青と映えている。木造船の赤い灯籠が一つひとつ、水面に明るく輝いている。もし希望があれば、若い女性奏者に船上で琵琶を演奏してもらえる。船を浮かべて茶を味わったり、音楽を聴いたり……。それは人々に江南の水郷を彷彿とさせる。

「茶馬古道」は雲南風味のレストラン。焼肉がここの看板料理だ

 船を走らせて銀錠橋を過ぎると、後海につく。前海の明るさ、豪華さに比べると、後海は素朴な落ち着きがある。銀錠橋のたもとにそびえるレストランの前には、自動車が一杯に駐車されている。百年近くの歴史をほこる北京の老舗「ソセ肉季」だ。聞くところによると、ソセ肉季は早くも清代にその名を馳せた。当時の食べ方は、じつに豪快であった――。大きな炉に炭を焼き、それを囲んでそばに立つ。両手にそれぞれタレ入りの茶碗と長い箸をもって、片方の足を長イスに乗せて態勢をととのえる。そして新鮮な牛肉や羊肉をタレにつけ、炉の上の巨大な鉄板で焼いて食べるのである。肉を食べながら、酒をあおぐ。汗をダラダラ流しながら、「好!」(うまい、最高だ!)という喝采を叫ぶのである。こうした豪快な食べ方は遊牧民族の間で生まれ、清代に北京に移住した満州族とともにもたらされた。今ではこうした食べ方が廃れてしまったが、ソセ肉季は什刹海の辺りでは最も有名な老舗となった。

有名な講談芸人・連麗如さんが開いた「月明楼書場」では、火曜を除いて毎晩『東漢演義』『三国演義』などの伝統的な長編講談を行っている。小さな会場はいつも満席に

 後海そばの羊房胡同11号には、宮廷料理で有名な「タ家菜」というレストランがある。数年前には東京・六本木にも支店がオープンして、大きな話題を呼んでいる。

 講談は、北京人にもっとも好まれる伝統文芸の一つである。茶を飲みながら講談を聞くのは、老北京人ならではの憩い方だ。後海のほとりにあるレストラン「月明楼」では、中国の講談芸術名人・連麗如さんが毎週ここで講談を披露している。また、ここの調理師たちは真の伝統的な北京料理を作ることができる。それも客の楽しみの一つになっている。

胡同に暮らした留学生

後海では毎週日曜、ある親子が野鴨にエサをやっている。数年前から野鴨が渡ってくるようになり、公園管理処の職員が鳥たちのために浮島をつくった

 日本の福岡市から来た松本侑子さんは、什刹海に特別な感情を抱いている。中国中央戯劇学院演劇学部の留学生だ。学院は什刹海にほど近いので、自然とここの「常連」になった。1997年に初めて北京を訪れ、友人に連れられて什刹海にやってきた。そしてすぐにこの美しい場所が気に入った。留学してからは、ほとんど毎週のように什刹海を訪れ、ほとりに座って景色を眺めているという。もっとも好きなのは、春に柳が芽吹くころ。什刹海の柳絮(綿毛)がふわふわと風にふかれて飛んでくる。キャンパスの地面は白く覆われ、彼女は小躍りするほどうれしくなるのだという。

早朝の什刹海は、やはり周辺住民たちが体を鍛える場所である

 松本さんが什刹海でもっとも関心があるのは、ここのお年寄りたちだ。おしゃべりをしたり、彼らの話を聞いたりするのが好きなのだ。あるとき、彼女は大きなスポンジ製の筆に水をつけて地面に文字を書くおばあさんと出会った。好奇心旺盛な彼女は、いろいろと聞いてようやくわかった。それは書道を習うだけでなく、墨汁を節約し、体を鍛えることのできるすばらしい方法だった。その後、お年寄りに教えられて「水の書道」をマスターし、自分の名前が書けるまでになったという。

中央戯劇学院の留学生・松本侑子さんも什刹海湖畔のバーの常

 老北京人の生活を体験するため、什刹海ほとりの四合院に3カ月間住んだこともある。それは、じつに特別な体験だった。忘れられないのは第一日目、トイレが一体どこにあるのかわからなかったこと。ようやく胡同入り口にある公衆トイレを探しあてたが、近所の人たちが用を足しながらおしゃべりしているのを見て、なんとも不思議に思えたという。「あの3カ月間に、北京人のもっとも素朴な暮らしを見ました。私はここの庶民生活を肌で感じるのが好きなのです」。松本さんはそう語る。

 昨年、SARSが流行したころは日本にいた。北京の友人がEメールで、什刹海の大変貌を伝えてくれた。SARSが終息して北京に戻ると、最初に見にいったのが什刹海だった。よく知る場所を再訪したとき、目の前の光景と記憶のそれはまったく異なっていた。

 「ここはすっかり変わりました。低い平屋建てが、今ではきれいなバーやレストランに改装された。庶民が暮らす静かなところだったのに、こうしたトレンディースポットに変わってしまった。なにか突然、新しい活力が爆発したようなのです」

 什刹海は変わったが、彼女はやはりここが気に入っている。ときおり後海のほとりでバーを探し、午後のひとときをゆったり過ごすのだという。

観光プログラム起爆剤に

毎日、水辺でギターの弾き語りをしている男性。ここの静寂と彼の好きな民謡がマッチしているのだという

 バー通りの散策のほか、胡同めぐりは什刹海のもう一つの人気プログラムとなっている。ここは、北京市内にある25の「歴史文化保護区」のうち、規模最大の一角である。清代の四合院がほぼ完全なまでに保存されており、もっとも特色のある胡同や多くの王府も残されている。これらはみな什刹海の文化遺産となっていて、多くの観光客を引きつけている。

 北京で胡同めぐりの観光プログラムを最初のころに手がけた徐勇さんは、什刹海を別の見方でとらえている。徐勇さんは1954年、上海生まれ。両親に連れられて、11歳で北京に移り住んだ。北京に来たばかりのころ、ある胡同の四合院で一カ月あまりを暮らした。わずかの間であったが、胡同や四合院、うららかな春の風情が彼に深い印象を与えたのである。

親孝行な若者。自転車と車椅子をうまく連結し、足の不自由な母親と毎朝のように湖畔の散歩に訪れている

 70年代末、徐勇さんはある広告会社に勤め、撮影技術を独学。80年代からカメラを手に取り、オリジナルの撮影をはじめた。都市生活を反映させたものを撮りたいと、彼の関心はしだいに子どものころ印象を深めた胡同に向かっていった。86年から、北京各地の胡同へひんぱんに通うようになり、そこで暮らす人々にレンズの照準を合わせたのである。

 当時、北京の胡同は、まだ閉鎖された場所だった。多くの人が、ボロボロに崩れかけた胡同など他人に見せられないと思っていた。徐勇さんがカメラを向けたとき、ほとんどの人が彼を異常者だと思った。真実の暮らしを記録しようと、彼はいつも朝早くから夜遅くまで胡同の中にとどまった。そのためスパイだと誤解され、尾行されたこともある。そんなことが何度か続き、ついには警官に捕まって、家族の説明でようやく解放されたことも……。

什刹海で最初に胡同めぐりや遊覧船などの観光開発プログラムを手がけた徐勇さん

 しかし、そうした危険にあっても、彼は撮影するうちに胡同の魅力にはまっていった。

 「じつは北京の胡同は、上海の弄堂(横町)と同じです。それは都会の基本的な特徴でしょう。しかし急速な発展につれて、人々の視線は歴史的なものからしだいに離れていった。そんな真実を記録することが、私の達成感となったのです」と徐勇さんは言う。

 3年近くの努力をへて、徐勇さんはついに自分の写真集『北京胡同101巷』を出版した。この本は、北京の胡同の庶民生活をあますところなく表している。売れ行きも好調で、北京の胡同が人々の関心を引きつけていることがわかるのである。

 北京の胡同の中で、徐勇さんがもっとも好きなのが什刹海一帯だという。ここの胡同はさまざまな様式があるばかりでなく、比較的よく保存されている。「什刹海一帯に最初に住んだのは清朝の旗人です。彼らはふつうの庶民だったが、社会の底辺にいた人たちではない。一部の王府もここにあった。だからここには優雅な文化の香りがあるのです。また、美しい池もここに気力を与えている。人々に親しみやすさを感じさせてくれるのです」

輪タクで胡同をめぐると、北京っ子たちの古きよき生活がうかがえる

 徐勇さんの胡同撮影は、社会に大きな影響を及ぼした。多くの人が彼を訪ね、胡同についてあれこれと聞いていた。「こんなに多くの人が胡同の歴史や文化を知りたいのなら、胡同めぐりを提案したらどうだろう。什刹海も、胡同めぐりには絶好の場所ではないか?」と彼は考えた。しかし当時、この一帯は老朽家屋を改造するという問題に直面していた。古い胡同と四合院をどのように処理するか、それをまさに協議中だったのだ。徐勇さんは市政府と関係部門を奔走し、北京における胡同の意義について熱く語った。胡同めぐりを提案し、それが古い胡同文化を保護するばかりか、観光業の発展も促進するだろうと強調した。また、彼らの研究チームは、きわめて歴史的価値のある胡同や四合院もいくつか発見。そうした場所が完全に保存されることも決まっていった。

荷花市場は改築された建物が並び、すっかり立派な風情となったが、周辺住民には遠い存在になってしまった

 2年あまりの努力をへた94年、徐勇さんはついに彼の胡同めぐりプログラムを世に送り出した。内外観光客が什刹海に訪れはじめ、胡同もまた人々の前に開かれていった。胡同めぐりの成功は徐勇さんの名声を高め、多くの人たちが伝統文化の持つ巨大なビジネスチャンスをここに見た。徐勇さんは言う。「文化とビジネスの結合は、都市発展の必然だ。重要なのはいいアイデアがあるかどうか。それがうまくいかなければ、伝統文化をすべて破壊してしまうだろう。だから伝統文化を保護するという基礎の上に、新しいビジネス商品を開発しなければならない。胡同めぐりは、一つの成功モデルなんだ」

 SARSの終息後、什刹海にバーが出現したことについては、自分なりの考えがある。「バーの出現は什刹海に新しい一面をもたらした。絶えず発展していけば、古い場所にも新しい活力が生まれるだろう。でも、ここの管理はいくらか混乱しているし、衛生上にも問題がある。私たちは、バーやレストランの出現で環境を破壊してはいけないと思っています」(2004年9月号より)

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