|
初めて見つかった秦の始皇帝の雑技俑や文官俑は何を物語る。 実戦には使えない石製の鎧や兜はなぜ造られた。 微笑む仏たちは、仏教の受けた迫害と苦難の歴史を背負っているのでは……。 9月末から東京国立博物館で開催された「中国国宝展」は、さまざまな興味を呼び起こす。 経済の高度成長にともなって建設ラッシュの続く中国では、いま、次々に国宝級の文化財が出土している。最近の出土文物の中から選りすぐった逸品を一堂に集め、さらに仏教美術を系統的に展示したのがこの「国宝展」である。 本誌は、出品された約七百点の文物の中から、とくに注目すべきものを取り上げ、未公開の発掘現場を取材するなどして、その背景を探った。 続々と発見された国宝級の文物 「国宝展」に出品される出土文物は、最近の数年間に中国で新たに発見されたものばかりで、約70点。そのほとんどは日本初公開。国宝級の文物も数多く含まれている。 その中で、日本ではあまり知られていないが、重要な意味を持つ出土品の中から、秦の始皇帝陵のすぐそばから出てきた文物と江蘇省徐州出土の金縷玉衣をご紹介しよう。 始皇帝のイメージが変わった
まず注目したいのは、秦(紀元前221〜同206年)の始皇帝(紀元前259〜同210年)が埋葬された始皇帝陵の陵区内で発見された三つの陪葬坑である。それは百戯俑(雑技俑)坑と文官俑坑、石製甲冑坑で、いずれも始皇帝陵の封土のすぐ脇で見つかり、最近、発掘と復元作業が行われたものである。 世界的に有名な兵馬俑坑は、始皇帝陵から東に1・5キロ離れたところで発見された。将軍や兵士、戦車や戦馬の俑が大量に見つかったことや、始皇帝が巡察に使ったと思われる銅車馬が出土したことから、軍事色の強い始皇帝のイメージが形成された。 しかし今回発見された三つの陪葬坑は、いわば始皇帝のお膝元にある。
始皇帝は、紀元前246年、わずか13歳で即位し、すぐに自分の陵の造営を始め、そして死ぬまでの38年間、陵の建設は続けられた。陵の中には地下宮殿が造られ、死後も、生前と同じように暮らそうと始皇帝は考えていたと思われる。だから、陵本体のすぐ近くに納められたものは、始皇帝の日常生活で身近な存在だった人や動物などであったに違いない。 さらに、かつて始皇帝陵の地下宮殿は焼失したと考えられていたが、最近の調査では陵の内部にかなり大きな空間があることが判ってきた。陵の東1・5キロにある兵馬俑坑は、陵を挟んで対称的に西側にも造られていたのではないかという仮説があったが、ここにはないことが確認された。このように、始皇帝陵の全貌は、少しずつ明らかになってきている。 【百戯俑】 曲芸を愛した始皇帝
始皇帝陵の東南隅にある下陳村の農家の庭先から、大量の「紅焼土」が発見された。これは火災に遭って焼けた土であり、この付近にかつては始皇帝陵の付属施設があり、その後焼失したことを示す有力な手掛かりだった。 1999年、発掘が始まった。そして東西約40メートル、南北約15メートル、深さ約5メートル、面積約600平方メートルの陪葬坑が発見された。そのうちのわずか16平方メートルを試掘した結果、大きな銅製の鼎と11体の俑が出土した。 銅鼎は重さ212キロ、高さ60センチ、口径70センチもあり、秦代で発見された最大の鼎だった。11体の俑は、すべて異なる姿をしていて、頭部が壊れていたが、このうち6体の俑がほぼ完全な形で復元された。そのうちの一つが、今回の「国宝展」に「雑技俑」の名で出品される俑である。
「雑技俑」は高さ約180センチの等身大で、上半身は裸、頑健な体つき、突き出た腹、短い半ズボンを穿き、両手で何かを握って直立している力士像である。同時に出土し、復元されたもうひとつの力士像は左腕と身体の間に約10センチの空間が空いていて、その下の半ズボンの左側には、長さ37センチの筒状の長細いポケットのようなものが付いている。 発掘隊長の段清波・陝西省考古研究所研究員の推測では、この力士俑は「都盧尋橦」という曲芸を演じている力士であるという。この曲芸は都盧国(昔のビルマの一国)から伝わったと言われ、力士が長くて太い竹竿を脇に挟んで立ち、竹竿の上では子どもが宙返りをするという軽業である。
同じ坑から出土し、復元された俑のうちの2体は、片手を上にあげた姿をしている。いずれも前後に足を開き、何かを持ち上げているようだ。 古代中国では、重い鼎を持ち上げる「扛鼎」という雑技が盛んに行われていた。鼎は「千斤」あったとの記載があり、秦代の千斤は現代の250キロに相当する。百戯俑坑から出土した鼎は、この「千斤の鼎」だったのではないか、と専門家は推理している。 百戯とは、雑技、角力、幻術、滑稽、講談・浪曲、舞踏、闘鶏、闘犬などの総称で、始皇帝がこの百戯をこよなく愛したことが、これらの出土品から推測される。「焚書坑儒」で知られる始皇帝は、強権政治を行った専制君主のイメージが強いが、日常生活では、百戯を楽しみ、宮殿には笑い声が絶えなかったではないかと想像できる。 百戯俑坑の発掘は、ほんの一部が行われただけで埋め戻された。残りの部分の発掘が行われれば、将来、文字通り「百戯」の俑が出土するに違いない。 【文官俑】 皇帝にかしずく役人たち
約20年前、始皇帝陵の南西隅の、陵の封土からわずか20メートルの地点から、144平方メートルの地下坑が発見された。その坑が2000年7月から12月にかけ、本格的に発掘された。 最初に発見されたのは、四丁の青銅の鉞だった。鉞は強大な権力を象徴するもので、この坑が始皇帝の権力行使と関係が深いことを暗示していた。 地下坑道のようになっている内部は、坂になっている墓道と前室、後室から成っていた。前室の入口には一輌の木製の車があり、室内には12体の俑があった。そのうちの一体だけが西を向き、残りの11体は全部、北を向いていた。11体のうち四体は、木車の後部に立ち、両手を伸ばし、掌を丸めて、馬を御している姿をしている。
注目すべきは、これらの俑が、甲冑で身を固めた兵馬俑坑の俑とはまったく異なる姿をしていたことである。御者俑を除く8体の俑は、頭には冠を頂き、顎紐を胡蝶結びにして冠を固定し、袖と裾の長い衣を身にまとい、腰に革帯を締め、長ズボンを穿き、足には四角い靴を履いている。 その表情は穏やかで、微笑を浮かべ、視線は伏し目がちである。俑の右側の腰帯に、二つの小さなものが貼り付けられている。段清波研究員によると、これは「削」とよばれる小刀と、小刀を磨くための「砥石」であるという。また、俑の左脇に楕円形の空間があり、ここに何かを挟んでいたように見える。 秦の時代、文字は竹簡の上に書いた。書き間違えたときには、小刀でそこを削り、その上にまた書いた。小刀が切れなくなると、砥石で研いだ。俑の左脇に抱えていたものは竹簡ではなかったか。装束や持ち物からみて、これらの俑は、文書を取り扱った「文官」であると思われる。 後室からは、実物の9頭の馬の骨格が出土した。馬は二列に並んでいて、前列は4頭、後列は5頭で、すべて北を向いていた。なぜ兵馬俑坑のような馬の俑ではなく、本物の馬を埋めたのだろうか。専門家の間でもまだ定説はない。この坑も、発掘後、埋め戻された。 【石製の甲冑】 実戦には使えない鎧と兜
始皇帝陵の封土から南東200メートルの地点で1996年、下陳村の農民が、分厚い「紅焼土」の層を発見した。97年5月、ここが発掘され、深さ5メートルで、1万3000平方メートル以上もある長方形の大きな陪葬坑が確認された。これは兵馬俑坑より大きく、これまでに発見された最大の陪葬坑である。 1998年、この坑の約10分の1に当たる145平方メートルが本格的に発掘され、大量の石片が出土した。整理した結果、石製の鎧と兜があることが判明した。これを復元すると鎧は87領、兜は43領もあった。 発掘現場は現在、上に小屋を作り、保存されているが、一般には公開されていない。本誌は特に許可を得て、発掘現場を取材することができた。現在、発掘作業は中断しているが、木枠を組んで約5メートル下まで階段で下りられるようになっている。石片の一部は、坑の底のところに、出土した状態のまま保存されていて、すべてに番号札が付けられている。 出土した石片は、「青石」と呼ばれている石灰岩で、長方形、正方形、台形、魚鱗形などさまざまで、少し外側にせり出している。大きいもので4・5センチ×2・3センチ、厚さは0・2センチから一センチ程度。石片にはそれぞれ8〜10個の小さな孔があけられている。石と石とは銅線でつなぎ合わされている。
石片の孔に糸を通してすでに二領の鎧と兜が完全に復元された。鎧の一つは612の小型の石片からなり、高さは125センチ、幅43センチで、重さは実に18キロもある。これは兵馬俑の2号坑から出土した、比較的階級が高い俑がつけている甲冑と酷似している。 もう一つは332の大型の石片からなり、高さ86センチ、幅34センチで、重さは23キロ。兵馬俑一号坑の兵士が着ている鎧とそっくりだ。このほかに長さ1・8メートルの馬鎧も一領出土している。 石製の兜は、てっぺんに一枚の円形の石片があり、側面は73枚の石片が6層に繋げられている。重さは3・2キロ。鎧と合わせ20キロ以上になり、こんなに重い甲冑は実戦向きではない。 これほど大量の石片はどこから持ってきたのか。研究者によると、始皇帝陵から北に70キロ以上離れたところから石灰岩が切り出され、運ばれてきたという。この石灰岩は、建物の礎石や柱にも使われたが、薄く切られて甲冑用の石片になった。 いったい、石片を作るのにどれほどの時間を要したのだろうか。小さく切った石片を荒削りし、形を整え、孔をあけ、磨く。電動工具を使って造ってみても、一日六個しかできなかったという。失敗作も出る。始皇帝陵から六キロ離れた新豊秦井という直径一メートルの井戸から、石片の失敗作や半製品、ノミなどの工具が大量に見つかっている。
しかし、ここに大きな疑問が残る。石片は割れやすく、重い。実戦に使えない甲冑を、なぜ大量に製造する必要があったのか、ということである。 中国の甲冑の歴史は、殷(商)周の時代に青銅製のものが出現し、戦国時代に鉄製のものが出現したが、実際に使われていたのは革製のもので、鉄製の甲冑が広く使われるようになるのは漢代以後のことである。実際、兵馬俑坑の俑がつけている甲冑も、革製であると見られる。 兵馬俑坑の兵士たちは、もともと実物の武器を持って立っていたが、項羽(紀元前232〜同202年)の軍によって略奪された。石製の武器庫の武器と、兵馬俑坑の武器とは、性格が異なっている。研究者たちは一致して、石製武器は実戦用ではなく、始皇帝とともに冥界に行く「冥器」であると見ている。 だが、なぜ石なのか。その謎はまだ解けない。玉のように、石にも霊力が宿っていると当時の人々は考えていたのかもしれない。 甲冑坑の残りの部分については、当分、発掘の計画はない。もしここがすべて発掘されると、数百という石製の甲冑やその他の武具が出て来る可能性が強い。ここは大型の武器庫であった公算が大きいからである。 【仙鶴】 不老不死の願い
2000年夏、始皇帝陵の東北5キロのところで、陳王村の農民が、墓を掘っていて偶然、「瓦の人」を発見した。2001年8月から正式な発掘が始まり、2003年5月までの間に925平方メートルのF字型の陪葬坑が確認され、46件の大型の青銅製水禽と15体の俑が出土した。 青銅製の水禽の内訳は、仙鶴が6件、白鳥20件、大雁が20件。仙鶴の一つは体長125センチ、高さ77センチで、小さな青銅製の虫のようなものを嘴にくわえている。造型は美しく、保存状態も良い。秦始皇兵馬俑博物館の劉占成研究員は、この仙鶴は「不老不死の神仙思想と関係があるのではないか」と見ている。 人俑については、楽人や舞人の俑とする説や、舟を漕いでいる俑、動物を訓練している俑とする説など、諸説あって、確定していない。水禽坑と呼ばれるこの坑が発見され ス場所は、もともと沼沢地だったらしく、自然の地形を利用して坑が造られたようだ。 金縷玉衣はなぜ作られたか 今回の中国国宝展でもう一つ注目されるのは、江蘇省徐州市の獅子山の楚王陵から出土した金縷玉衣である。(写真は見開きページ)金縷玉衣はこれまでにも日本で展示されたが、今回展示されるのは飛び切りの逸品で、もちろん日本初公開である。 玉衣とは玉で作られた衣服で、皇帝あるいは身分の高い貴族しか死後に着ることができない「葬服」である。多くの四角い玉片に小さな穴があけられ、金の糸や銀の糸、銅の糸でつづりあわせてある。その糸の違いによって「金縷玉衣」「銀縷玉衣」「銅縷玉衣」と呼ばれる。これまでに中国で発見された玉衣は数多いが、金縷玉衣は五点しか見つかっていない。 【金縷玉衣の主は誰か】
獅子山で出土した金縷玉衣を着ているのはいったい誰だろうか。それはいまだに判っていない。 徐州市博物館の李銀徳館長によると、「金縷玉衣」は、後に皇帝にしか使われなくなったが、当初はその規制は緩やかで、王に封じられた諸侯の墓から金縷玉衣が発見されてもおかしくなかった。獅子山から出土したこの金縷玉衣は、この地方を支配していた楚王のものではないか。三代目楚王の劉戊の可能性がある。しかし二代目楚王の劉郢客のものだとの主張もあり、まだ確定していない。 【四つの「一番」】 この金縷玉衣は、全長174センチ。4000枚以上の玉片と1576グラムの金の糸が使われている。これまでに発見された金縷玉衣と比べ、「一番」が四つある。 @中国で発見された、年代の一番古い金縷玉衣である。少なくとも紀元前154年以前のもので、2000年以上の歴史がある。 A玉片が一番多く使われた玉衣である。ふつう、玉衣に使われる玉片は約2000枚で、多い場合も3000を超えることはない。だがこの金縷玉衣は4248枚の玉片を使っている。 B玉の質が一番よい。すべてが新疆ウイグル自治区のホータンで産出した白玉と青玉で、玉の質は温もりを感じさせ、潤いがある。 C一番精巧にできていて、保存がもっとも良い。玉片は、面積が1〜10平方センチで、非常に薄く、厚さわずか1ミリのものもある。玉片の表面は滑らかに研磨されて、穴をあける技術も非常に規格にかなっている。 【盗掘されたが】
この金縷玉衣が発見されたのは1995年である。徐州市博物館考古隊が獅子山を考古調査し、新疆ホータンの玉片を発掘した。出土したすべての玉片には、四つの穴があいていた。 発掘が進むにつれ、玉片が出土したのは陵墓で、王莽が漢室の帝位を奪った紀元九年より前に、すでに盗掘されていたことが判った。屍を納めた棺と椁は盗掘者によって壊され、遺骨は捨てられ、玉衣を縫い合わせていた金の糸は抜き取られていたが、貴重な玉片はそのまま捨てられていた。 整理してみると4000枚以上の玉片の中に、金の糸が残っていたのは、わずか十数枚しかなかった。盗掘者は純度99%の金糸1・5キロを持ち去ったと推定される。 【困難な修復作業】 どうして盗掘者は、玉片を持ち去らなかったのだろう。彼らは玉の価値を知らなかったのかも知れない。出土した玉片の約半分は壊されていた。 当時の徐州市博物館考古隊の王ト隊長によれば、すべてホータンの玉で造られた玉衣はそれまで発見されたことがなかった。このため小さな破片も残らず集め、さらに残った土を別の明るい場所に移して、考古隊全員でさらに破片を探した。 何よりも難しかったのは、玉片を綴り合せることだった。まず、すべての玉片に番号をつけ、それから、玉片と玉片を組み合わせる。千回以上の組み合わせを試みて、やっと適当な組み合わせを探し当てることができたという。最後に、化学洗浄剤で玉片をきれいに洗い、千年前の美しさを復活させたのだった。 【玉衣の歴史】 金縷玉衣は漢代の独特の埋葬形式で、前漢の「文景の治」(紀元前179〜同141年)の時代から現れ始めた。 金縷玉衣を製作するには、高い技術水準が要求されるため、漢代の皇帝は、玉衣を専門につくる「東園」を設立した。「東園」の工匠は、材料の選択や穿孔、研磨など十数種の工程を経て玉片を加工し、金の糸で玉片をつなぎ合せた。 漢代の皇帝や貴族は「玉は死体を冷たくすることができる」と信じていた。だから遺体を腐らせないために、高価な玉衣を「葬服」とし、玉器で耳、鼻、口など「九竅(穴)」を塞ぐなど、さまざまな工夫をした。 しかし実際、金縷玉衣は、皇帝たちの遺骸を保つという願いを叶えなかったばかりでなく、逆に盗掘者を呼び寄せる結果となった。漢代の皇帝陵の多くは、頻繁に盗掘に遭った。このため三国時代になると、魏の文帝・曹丕(187〜226年)は、玉衣の使用を禁止した。金縷玉衣は、それ以後、造られることはなかったのである。(2004年10月号より)
|