特集 歴史のロマンがよみがえる 「中国国宝展」の文物と仏たち
中国仏教美術史を彩る仏たち
  
 

 中国に伝えられた仏教は、人々の信仰に支えられ、国家の保護を受けて大いに発展したが、度重なる戦乱や繰り返し発動された廃仏毀釈の嵐の中で、苦難の道を歩んできた。今回の「中国国宝展」に出品された仏たちは、その苦難をくぐり抜けて生きてきたのである。

空海ゆかりの阿弥陀三尊

青竜寺の阿弥陀如来三尊座像

 平安朝時代の804年、日本人僧侶の空海(774〜835年)は、藤原葛野麻呂を大使とする第17回遣唐使団に加わり、仏法を学ぶため、唐の国に渡った。

 都の長安に着いた空海は、多くの寺を回って有徳の名僧を尋ねた。そして805年6月、当時、長安の名刹だった青竜寺の伝法法師・恵果(746〜805年)阿闍梨を師として学ぶことになった。

 空海と初めて対面した恵果は言った。

 「私はおまえの到来を前から知っていた。ずっと待っていたよ」

 二人はたちまち意気投合した。空海は恵果から、胎蔵灌頂と金剛界灌頂を授かり、伝法阿闍梨の位の灌頂を受けた。

 その年の末、恵果が青竜寺の東塔院において円寂した。空海は選ばれて恵果の碑文を撰し、この中で師弟の間の深い思いを述べている。

空観寺跡から出土した鉄製如来倚像

 806年3月、空海は日本に帰国して仏法を広めた。真言宗を開き、弘法法師と尊ばれている。「入唐八家」と言われる唐に留学した八人の有名な日本の学問僧のうち、空海のほか、円行、円仁、恵運、円珍、宗叡が青竜寺を訪れて、仏法を学んだ。青竜寺は、日本の仏教の揺り籠だったのである。

 青竜寺は西安市東南3キロ、鉄炉廟村の北の高地にある。空海が学んだ当時は、この一帯は長安市民の行楽の場所であった。寺院は隆盛を極めたが、寺の経済力が大きくなり、武宗皇帝は会昌5年(845年)、仏教寺院を壊し、僧侶を強制的に還俗させるという命令を出した。これが史書にある「会昌の滅仏」である。

 青竜寺も大きな破壊を受けた。さらに、宋の元祐元年(1086年)、青竜寺は完全に壊され、遺跡は地下深く埋まり、その所在もわからなくなった。

 1963年から、中国社会科学院考古研究所西安唐城発掘隊が、青竜寺の遺跡を調査し、発掘を始めた。そして1973年、青竜寺の塔と仏殿の遺跡が発見された。

 今回の国宝展に出品される阿弥陀三尊は、1973年にこの遺跡から出土したものである。石灰岩を彫ったもので、高さ74センチ、幅61センチ、厚さ40センチ、重さは200キロ以上である。仏像を納めた龕の外側に、陀羅尼経の経文が刻まれている。

 アジア仏教美術の専門家、東京国立博物館の小泉恵英氏によれば、この龕に経文が彫られているのは珍しく、この阿弥陀三尊がかつては屋内に置かれて、僧侶や信者の参拝を受けていたのではないか、また、盛唐時代(八世紀の前半)に作られたと推定され、空海が青竜寺に来る前に、すでに安置されていたと思われるという。

 おそらく空海は、この阿弥陀三尊を拝みながら、修行に励んだことであろう。

雪の中で修復された鉄仏

阿嵯耶観音立像

 1997年のある日、陝西省西安市の南にある陝西の河川観測所建設の工事現場で、深さ7メートルの古井戸から、巨大な鉄製の仏像が出てきた。鉄仏は、全体が錆びに覆われ、ぼろぼろだった。しかも、鉄仏の頭や手足、身体は、人為的に押されて歪んでおり、まるで鉄の塊のようで、仏像とは思われないほど変形していた。

 考古学者の分析では、もともとここには、唐の時代に空観寺という寺院があったが、「会昌の滅仏」によって破壊されたという。鉄仏もこのとき、井戸に投げ込まれたのであろう。

 錆びの塊のようになった鉄仏をどうやって修復するか。これは非常に難しい問題だった。西安文物保護考古研究所はこんな方法を取った。

 まず錆びを除去する。このために、真冬、鉄仏を屋外に出し、雪の上に置いた。そのあと室内のストーブのそばに移し、熱する。そしてまた雪の上にだす。これを繰り返すことによって鉄が伸び縮みし、表面の錆びが剥げ落ちる。そして少しずつ鉄仏の表面を修復する。

 次に、樹脂などでボロボロになっている鉄仏の表面を固める。最後に、シリコンを仏像の表面に塗って、再び錆びが生じないように保護する、というやり方である。

 この作業は三年間かかった。

 復元された鉄仏は弥勒仏であることが判った。高さは185センチ、幅93センチ、重さは1200キロもある。修復の過程で、仏像の表面に四層の布の跡が残っていて、布の上には漆が塗られ、一番上の布には金箔を貼った跡があることがわかった。専門家によると、これは「夾紵」という中国の伝統工芸の技法が使われた痕跡である。

 「夾紵」は日本にも伝えられ、日本では「乾漆」と言われている。乾漆には脱活乾漆と木心乾漆があり、脱活乾漆は土でだいたいの形を作り、その上に麻布を漆で何重も貼りあわせ、最後に、土のしんを砕いて取り除く。この方法でつくられた仏像は、きわめて軽い。奈良・興福寺の八部衆や十大弟子などがこの方法で作られた。

 木心乾漆は、土のしんの代わりに木のしんを使う。この鉄仏は、しんを鉄で作ったものだ。現存する唐代の鉄仏は珍しく、しかも「夾紵」という伝統技法が使われている唐代彫刻の傑作だといえる。

大理の白塔と観音信仰

大理の白塔

 昔、大理国(937〜1253年)という国があった。現在の中国・雲南省の大理一帯を支配したぺー(白)族の国である。大理国は仏教を保護したから「仏の国」とも呼ばれ、大理の崇聖寺は「仏の都」と称えられた。

 しかし、崇聖寺は清朝の咸豊、同治年間(1851〜1874年)の間に焼失し、いまはただ、三つの塔が残されているだけである。

 崇聖寺の三塔は、建立以来千年余りの間に風雨にさらされ、三十回近くも大きな地震に見舞われた。しかし現在もその試練に耐え、完全な姿で立派にそびえ立っている。この三塔は石の礎石の上に建てられた塔ではない。土造りの基盤の上に直接建てられている。地震によって倒壊しなかったのは奇跡的といわざるを得ないだろう。

 1987年から「崇聖寺の三塔」の発掘が始まり、貴重な仏教文物が次々に出土した。その中の「阿嵯耶観音立像」は、大理地域で発見された最大の、純金製の観音像である。重さは1115グラムで、高さ28センチ。観音の背後にある火炎型光背は銀製の透し彫りで、国宝級文物に指定されている。

 「阿嵯耶観音」は密教の仏像である。かつて雲南には、大理国の前に南昭国(649〜902年)が存在したが、南詔国と大理国はともに密教が盛んで、「阿嵯耶観音」はこの両国特有の観音である。

 なぜ「阿嵯耶」というのか。仏教に関する辞典にも記載がない。伝説によれば、南昭国が建てられた前、「梵僧」(インド僧)が、雲南のジ海地域に来て密教を伝えた。しかし最初は、地元の村の長がこれに強く反対し、梵僧はひどい迫害や虐待を受けた。

 すると梵僧はさまざまな形に変化して、最後には「雲に乗って空中に舞い上がり、阿嵯耶像と化した」という。こうしてついに地元の人々は感化された。ぺー族の村の長は、銅鼓を溶かして「阿嵯耶観音像」を鋳るよう命令を下した。南昭国の建国への道もここから始まったという。これが「観音幻化、南昭建国」という伝説である。

 密教の伝道者を「阿闍梨」という。サンスクリット(梵語)の「acarya」からきた言葉で、「阿嵯耶」は「阿闍梨」から来たという説もある。「阿嵯耶観音」は、ほかの寺院の観音イメージと大きく違っている。常に立って、細長い体つきをしている。上半身は裸で、足も裸足。性別の特徴はあまりはっきりではない。俗に「細腰観音」と呼ばれている。

 これは、まだ完全に漢族化されてはいないが、まだ完全にチベット化されてもいない観音の造形である。インド彫刻の風格と雲南のペー族の審美感が溶け合った独特な姿をしている。

◆資料

中国仏教の盛衰

搖銭樹台座

 仏教は、世界の三大宗教のうち、一番古い宗教であり、紀元1世紀ごろから、三つのルートで中国に伝わってきた。そして、漢族中国語系仏教、ダイ族バーリー語系仏教、チベット語系仏教が形成された。

 漢族地域に伝わった仏教は主として大乗仏教である。仏教伝来の正確な年代を確定することは困難だが、中国の歴史学界では一般に、後漢の明帝による求法物語が中国への仏教伝来を示すものと考えられている。

 史書の記載によれば、明帝(27〜75年)の永平7年(64年)、明帝はある夜、「金人」(金色の人)が宮殿の中を飛んでいる夢を見た。翌朝、明帝は百官にこの夢について尋ねた。太史(史官)傅毅は、陛下が夢見たのは「仏」という神で、「仏」は非常な神通力を持ち、西方の得道者だと答えた。

 明帝は蔡インら十八人を西域に仏法を求めるため派遣した。3年後、蔡インらは大月氏国から、迦葉摩騰と竺法蘭という二人の僧侶を招聘し、仏像や経典を白馬に載せて、都の洛陽に戻ってきた。明帝は、洛陽に寺を建立し、「白馬寺」と名づけた。

 中国における仏教の伝播と発展は、三つの時期に分けられる。

如来座像 如来三尊立像

 一、伝入期(後漢、三国、西晋、東晋)

 仏教伝来の初期、仏教は主に漢代に流行した神仙方術に付属して広まった。三国や晋の時代には、老荘思想とともに発展した。このためこの時期の仏像は中国古代の神仙像と混在しており、正統仏教が漢族地域に広まったのは、敦煌の石窟が開鑿された四世紀後半になってからである。今回の国宝展に出品されるこの時期の代表的作品には、四川省出土の揺銭樹台座などがある。

 二、独立期(南北朝、隋、唐)

 南北朝時代(420〜589年)はしきりに政権交代が起こったが、全国的範囲で仏教が流行した。この時期の仏教彫刻は、中国仏教美術史の上で最もすばらしいものだ。代表的作品は、北魏(386〜534年)の雲岡石窟と唐代の竜門石窟がある。今回の国宝展には、北魏時代の河南省・淇県城関出土の如来三尊立像が展示される。

 三、融合期(隋、唐、五代十国、宋、明)

 隋・唐時代、仏教は空前な繁栄期に入った。しかも、しだいに中国の伝統文化と結びつき、儒・仏・道が一体化した。この時期の仏像は、西方文化の影響を受け、写実的で、人間的なものとなっている。塑像の仏像が多いのも中国の仏教美術特有なことである。国宝展に出展される山西省ワヌ城県で出土した如来座像は、この時期の代表的作品である(2004年10月号より)


中国国宝展の概要
 
【開催期間と場所】
  2004年9月28日(火)〜11月28日(日)の54日間
  東京国立博物館平成館
  2005年1月18日(火)〜3月27日(日)の60日間
  国立国際美術館(大阪)(2004年11月移転・開館予定

【主催】 朝日新聞社 テレビ朝日(東京会場) 東京国立博物館 
    国立国際美術館(大阪会場) 中国国家文物局 中国国家博物館
【後援】 日本外務省 文化庁 中国大使館 (社)日中友好協会 人民日報社
【協賛】 凸版印刷 トヨタ自動車 JR東日本(東京会場)
【協力】 全日空